1947独立戦争謀略戦9
アジア圏に誕生した新独立国の国軍でも比較的優先的に軍備を整えられていたのは陸上戦力だった。新独立国の多くは既に欧州帰りの実戦経験者や日本で短期士官教育を受けた下級将校がある程度揃っていたから、早々に組織を整えることが可能だったのだろう。
陸上兵器に関しては日本製兵器の採用例が抜きん出て多かった。元々アジア諸国と体格の近い日本人向けに設計されていることに加えて、本国との距離が近く入手しやすいものだったからだ。
欧州帰りの兵士達も、国際連盟軍に供与されていた日本製の火器を戦地で使用していたから、使い慣れたものだったのだろう。
銃器の輸出に関しては、日本帝国が開戦に前後して主力小銃を従来の三八式小銃から九九式自動小銃に切り替えたことと、簡易な一式短機関銃を新たに採用したことが有利に働いていた。
旧式銃が余剰となったことではなかった。制式化後長く使用されていた既存の三八式小銃の中には消耗して廃棄されたものも少なくなく、大抵は国内に留まった後備部隊や訓練部隊に回されていたからだ。
当初は重機関銃から小銃に至る歩兵火器の使用銃弾体系を一新させる判断には異論もあったのだが、実際には大量消費、大量損耗を覚悟して戦時生産体制が強化されたことで銃弾、銃器共に生産数が平時よりも著しく増大しており、終戦後に増産体制が縮小される中でも海外への輸出量が確保されていたのだ。
ただし、新独立国の政府首脳陣が単に安価に数を揃えられるから陸軍を優先して整備しているわけではなかった。むしろ警備部隊以上の海上戦力は新独立国の大半にとって現実とかけ離れた装備でしか無いから、現状では財政上の重荷にしかなっていなかったのだ。
新独立国の多くは、国内の治安維持に積極的に戦力を割り振らなければならない理由があった。国内における特定地方のさらなる分離独立を狙う少数民族などの反抗勢力もあったが、国内の主敵は先鋭化した共産主義勢力だった。
独立にあたって新政府は密かに旧宗主国などから一つの注文をつけられていた。既存の独立派の中でも過激な行動を行う共産主義勢力を放逐する事を求められていたのだ。
日英などが恐れていたのは、共産主義勢力が主導権を握った形の独立運動だった。英国がアジア諸国植民地の独立を次々と許していたのは、統治にかかる費用の増大に加えて独立派に浸透する共産主義勢力を恐れていたからではないか。
現地知識人達の中から出現した民族主義者の独立運動家や、雌伏の時を終えて立憲君主として担ぎ上げられていたスルタン達も、独立を目の前にすると共産主義勢力とは手を切りたがっていた。
土着の宗教と共産主義は相容れなかったし、中国共産党を通じて華僑が政権内部に入り込むことも恐れていたのだ。
東南アジア諸国に勢力を伸ばしていた共産党の放逐にあたっては国際連盟側に有利な点もあった。大戦終結直前にフランス国内で行われたフランス共産党系抵抗運動の制圧作戦時に少なくない捕虜や資料が得られていたのだ。
一見アジア圏からは遥か彼方にある様に見えたこの事件は、実際にはアジア諸国の共産党員と密接に関わっていた。
戦時中にフランス本土で活動していた共産党系の抵抗運動は特異なものだった。
フランス本土で活動していた抵抗運動は、国際連盟軍や自由フランスといった国外勢力の指揮系統に入ったり支援を受けたものが少なくなかったのだが、ソ連からの有形無形の支援を受けた共産党系抵抗運動の組織力と資本は、他の独立系組織とは一線を画すものであった。
それ以上に他の抵抗運動に比べると共産党系の抵抗運動は行動も直接的な暴力に訴えるものが多かったのだ。
初期の場当たり的な行動が一段落した後にある程度の組織化がされたフランス国内の抵抗運動は、国際連盟軍の指導と支援もあってフランス本土における情報収集や交通網の妨害による枢軸勢力全体の国力低下を誘う戦略的なものに変化していた。
破壊工作を行う場合も単にドイツ人将兵を狙うのではなく、欧州全域を覆う鉄道網を効率よく阻害するために分岐点の爆破などを主に行っていた。
ところがそうした国際連盟軍の戦略の枠外にいた共産党系の抵抗運動は、駐留ドイツ軍将兵に対する無差別な殺傷などに出ることも多く、治安部隊による報復で無関係な市民に犠牲が出ることも多かったようだ。
国際連盟軍側及びヴィシー政権と共産党系抵抗運動の対立が決定的なものとなったのは終戦直前に行われた爆破テロだった。講和条約締結の為にフランス入りしたドイツ側特使を狙ったこの爆破テロによって、講和条約の正式な発効が遅れたのは間違いないだろう。
前後の状況からするとこの爆破テロは、戦争の継続を狙ったものである可能性が高かった。
当時はソ連軍によるドイツ領への進攻作戦を目前に控えていた。どうもソ連首脳陣は独裁者ヒトラー無きドイツを弱体と見ていたようだったから、対独戦が延長されることによる損害の増大よりも、停戦を遅らせてソ連軍の占領範囲を拡大させることを優先していたのではないか。
だが、ソ連が主導権を握っていた共産党系抵抗運動がフランス国内の情勢を無視したテロを実行した代償は、高くつくことになった。これまでフランス国内の抵抗運動の詳細を把握していなかった国際連盟軍に共産党系抵抗運動の脅威を強く印象づける事になったからだ。
単に爆破テロの損害が大きかっただけではなかった。ドイツ軍将兵の積極的な殺傷という派手な実績を残した共産党系抵抗運動が、戦後のフランス政界に影響力を及ぼすことを恐れたのだ。
長い歴史を持つフランス共産党は、大戦開戦前から独ソ不可侵条約締結時にソ連を支持したことで当時のフランス政府から非合法化されて地下組織となっていたが、さらに終戦直前には国際連盟軍と現地ヴィシー政権諜報機関との共同作戦によって徹底的な弾圧を受けて壊滅的な打撃を受けていた。
それ以前に、ソ連からの強引な爆破テロを強要された時点で、俄に母国への愛国心を思い出したのか共産党からの離党を図る構成員も多かったらしく、内部分裂と離脱者に対する粛清によって共産党系組織は内部から弱体化していたらしい。
パリなどの都市部に潜伏する情報細胞を次々と摘発されたフランス共産党は、中核となる戦闘部隊をヴィシー政権の手が及ばないはずのアルザス・ロレーヌ地方に移動させていたのだが、ヴィシー政権下の防諜機関は戦闘部隊の潜伏場所を掴んで利害の一致した国際連盟軍の特殊戦部隊と共同で制圧していた。
これは自由フランスをある意味で蚊帳の外においた作戦だったが、関係者を選抜した分だけ機密は守られることになり、奇襲となった制圧作戦の戦果は大きかった。共産党系組織の戦闘組織をほぼ壊滅させていたからだ。
制圧作戦後に共産党系組織の拠点から得られた情報は膨大だった。アルザス・ロレーヌ地方には戦闘部隊だけではなく、党幹部などフランス国内の共産党中枢も逃れていたからだ。
以前からアジア現地民の知識人階層の間に広まっている共産主義の大元はフランス本土にあると考えられていた。植民地からフランス本国で教育を受けるべく留学した現地人有力者の子女達を言葉巧みに勧誘して共産主義者に仕立て上げているというのだ。
制圧作戦で得られた捕虜の証言などから、そうした勧誘活動は事実である事がわかっていた。東南アジア植民地で広がっていた共産主義は、フランスで教育を受けた知識人達が祖国に帰って広めていったものらしい。
勧誘された人間を記載した書類は焼却もされずに残されていた。もしかするとフランス共産党自体には大して重要な情報とは考えられていなかっただけなのかもしれない。
何れにせよ東南アジア諸国に在住する共産主義者の名簿を手中にした国際連盟軍は、密かに彼らに接触して拘束するか、転向を迫っていた。フランス本土で共産主義に目覚めた彼らは、祖国で指導的な立場に立っていたものが多かった。
現地では知識人階級に属する彼らは、フランス共産党の末路を知って共産主義に幻滅したのか説得に応じて転向するものも少なくなく、精神的な指導者を失った現地の共産党は勢力を減少させていた。
そもそも独立という餌を目の前にしては、困窮生活の中で共産党に勧誘された農民や労働者達を過激な戦闘行動に身を投じさせるのは難しかったのではないか。
ところが次々と植民地支配から脱していく東南アジア諸国の中でも例外があった。インド亜大陸などの一部に残るポルトガル領に加えて赤道付近の島嶼部に散在するオランダ領東インドでは未だに苛烈な植民地支配が行われていたのだ。
かつて世界中に植民地や交易拠点を設けて広大な海上帝国を築いていたポルトガルは、次々と現れる競合相手との絶え間ない紛争によって衰退していたが、それだけに残された植民地の統治における搾取の度合いは酷いらしい。
だが、貧困から抜け出すための独立運動という点ではオランダ領東インドの方が盛んであるようだった。
1万を越えるという膨大な数の島が赤道直下に点在するオランダ領東インドの支配は、現地に駐留する僅かな数のオランダ本国人のみで行うのは難しく、今世紀初頭頃から統治のために現地民の下級職員が採用されていた。
極少数のオランダ本国人が専横的に行う差別的な統治に加えて、現地人官僚を育成するための教育機関を卒業した知識人階層の増大が、オランダ領東インドに対する共産主義の浸透を招いていたのだ。
先の大戦においてオランダ領東インドが果たした貢献は大きかった。亡命オランダ軍に対する兵器類の供与と引き換えに膨大な物資が国際連盟諸国に供出されていたし、本国を占領されたオランダ政府の一部機能が戦火を逃れて移転していたからだ。
何よりもイギリス本土が大規模な空襲を受ける状況の中で、本土を脱出した海軍の一部を伴って王室がオランダ領東インドの本拠地であるバタヴィアに仮王宮を設けていたのだ。
そのような多大な貢献にも関わらず、戦後もオランダ政府は東インドからの収奪を強めて独立派の弾圧を続けていた。破綻したオランダ本国の財政を立て直す為には植民地から得られる利益が必要不可欠だったのだ。
欧州大戦では中立国であったために戦火を免れたポルトガル等とは異なり、本国をドイツに占領されていたオランダは大きく国土を疲弊させていた。
国土が両勢力の戦場となった事による物的な損害に加えて、オランダ本土では人口の減少も激しかった。
戦前からオランダ国内に居住していたユダヤ人は、占領直後に拘束されたものはユダヤ人居住区となっていたフランス領マダガスカル島に移送されていた。マダガスカル島への移送が不可能になってからはドイツ本土やポーランドに設けられたユダヤ人収容所に送られて多くが戻ってこなかった。
それに純粋なオランダ人であっても、労働力不足のドイツに労働者として送られたものも多かった。
逆にドイツ武装親衛隊に義勇兵として参加していたオランダ人もいたが、終戦に前後してドイツ送りとなっていた労働者と共に帰国した元武装親衛隊隊員の生き残りは、本土に帰国した亡命オランダ政府から反逆罪に問われていた。
瓦礫の山と化した本国を再建する為に、新生オランダ政府はなりふり構わずに東インドから上がる利益をつぎ込んでおり、同時に大規模な兵力を同地に送り込んで独立派を威圧していた。
オランダ領東インドでは、前世紀に戻ったように苛烈な植民地支配に対して民衆の間に広範な独立派への支持が集まっていたが、現地では独立派の行動は散発的な暴動やサボタージュにとどまっており、その度に鎮圧されているらしい。
オランダ領東インドの独立運動が散発的なものにとどまっているのは、広大な領域に広がる植民地全体の運動を統率する中枢が存在しないためだった。
元々オランダ領東インドは長い時間をかけてオランダが植民地化していった領域だったから、土着の勢力はお互いの連絡や意思の疎通が出来ていなかったのだ。
しかも先の大戦でも、オランダ亡命政府は自由フランスの様に大規模な植民地軍を編成するのを避けていたから、現地人の兵役経験者も少なく、独立派の戦闘力は限定されたものでしかなかった。
だが、オランダ領東インドの独立派に最近になって大きな動きがあった。外国からやって来た勢力があったというのだった。
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