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1947独立戦争謀略戦7

 並み居る情報将校や官僚達の中では、水野大尉の地位は下から数えたほうが早いほうだったが、そんなことで大尉が臆することはなかった。会議の座長である統合参謀部第2部の部長がうなずくと、水野大尉は淡々とした様子で現状の説明を始めていた。



 陸軍参謀本部第2部を中核に海軍や他省庁からの出向者によって増員された形で誕生した統合参謀部第2部は、日本帝国に於ける軍事情報を一括して担当する部署だった。

 統合前の第2部自体は参謀本部の中の一部局に過ぎなかったのだが、先の大戦中には戦域の拡大に伴って組織の拡大や手足となる特務機関の創設が相次いでおり、純粋な軍令機関である統合参謀部内に置かれるには齟齬が目立つようになっていた。

 近い将来第2部は陸軍省と海軍省が合併してできた兵部省が直轄する組織となるか、あるいは英国のように各省庁の情報組織を統合した情報機関が創設される可能性も高かった。


 あるいは第2部が統合参謀部の中で異質であるのは、その構成員が軍人らしくないことにあるのかもしれなかった。

 第2部に所属するものは陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した正規の将校も少なくないが、下士官上がりや外部機関からの出向者も含まれていた。諜報活動には軍人には見えない娑婆っ気のある人間の方が適任と考えられていたからだ。

 それに加えて今日の会議では異例ではあるが外国人までもが参加していた。事が日本帝国だけに留まらず国際連盟全体に及ぶからだが、あるいは権謀術数に長ける部長からすれば共犯者を引き込みたかっただけだったかもしれなかった。



「皆様御存知の通り、これまで西欧の植民地となっていたアジア諸国が続々と独立の道を歩んでおります」

 そう告げて水野大尉は出席者に配られた資料と指し示していた。


 20世紀までにタイ王国を例外として東南アジア諸国は西欧の植民地と化していた。巧みな外交によって独立を保っていたタイ王国にしても、列強が遠隔勢力圏の緩衝地として価値を認めていたために植民地化を免れていたという側面は無視できなかった。

 そのような状況が一変した契機は二度に渡る欧州大戦だった。


 本国で起こった戦争に植民地を協力させるため、宗主国は植民地に対して独立や自治権の拡大を約束していた。最もそれがあからさまに適用されたのは戦時中に早くも名目上の独立を果たした旧フランス領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアの3王国だった。

 当時は、ドイツ軍占領下にある本国の傀儡政権であるヴィシー政権と海外植民地の主導権を巡って争っていた自由フランスが戦時中の協力と引き換えの独立を保証しており、日本帝国など国際連盟軍に短期間で制圧されたフランス領インドシナの総督も独立を認めざるを得なかったのだ。



 ただし、最近になって旧インドシナ、特にベトナム王国と旧宗主国との関係が悪化していた。

 外交問題の切っ掛けとなったのは意外なものだった。材料工学の学会誌にとある溶接に関わる論文が記載されたことだったのだ。


 発表者が海軍の現役技術将校である事を除けば、当初はその論文に注目したのはごく一部の専門家だけだった。溶接の現場に携わる技術者や冶金の研究者が参考にした程度だが、現実的にはさほどの影響を及ぼさなかった。ある意味で当然と思われていた常識を再確認しただけだったからだ。

 意外な方向から注目されたのはしばらくしてからだった。冶金技術そのものよりも昨今急速に進んでいた安全工学などの点から論文が取り上げられる様になっていたのだ。

 学会誌に掲載された論文の内容はそれほど長いものではなかった。むしろ今後の研究につなげる序論といった風でさえあった。その内容は戦時中に大量建造された戦時標準規格船の何隻かが船体を破断させた原因を探るものだった。



 戦時中に発生した戦時標準規格船の破断事故は、荒天時の航海中などといった応力が掛かる状況で発生したものではなく、港湾内の静水面で船体が破断するという不可思議なものだったのだ。

 当初は不慣れな作業員による溶接不良などが疑われていたのだが、調査の結果明らかとなった原因は意外なものだった。

 原因が溶接であったことは事実だったが、作業員の個人的な技量などではなく、溶接性の悪い鋼材に対して溶接が行われたことで生じていた溶接残留応力による脆性破壊が冬季の英国本土周辺海域という低温環境で多発していたというのだ。


 本来は戦時標準規格船の船体は溶接用鋼を使用するはずだった。戦前に計画された当時から電気溶接を多用することで建造速度を上げることを前提として設計されていたからだ。

 ところが実際には船体が破断した船はいずれも鋲打ち用として製造された鋼材が使用されており、作業員や溶接材ではなく鋼材自体が溶接不良のおもな原因であったのだ。


 実際には論文の主旨は鋼材の不良自体を糾弾するようなものではなかった。むしろ不具合が発生した際に操業を落とすことなくどのように原因を探り出していくのか、その手法を論じたものだった。

 本来金属系の学会誌に発表したこと自体が場違いだったともいえるこの論文は、安全工学の研究者の目に止まったあたりで全く別の視点から話題になっていた。



 本来であれば溶接用鋼が使用される筈の所で、何故鋲打ち用の鋼材が使用されたのか。そのような本質的な疑問に関しては論文では触れていなかった。執筆者である技術将校には興味の範囲外だったのだろう。

 だが、論文が発表されてしばらくしてから部外者である安全工学研究者などからその点に関して疑問視する声が上がっていた。帝国議会に正式な調査を求める声が達したのは更にその後のことだった。


 論文発表後に行われた調査には発足したばかりの統合憲兵隊が参加していた。陸軍憲兵隊と海軍警務隊が合流して誕生した統合憲兵隊は新設の空軍を含む日本帝国の全軍を担当することになるが、本来は軍内部の綱紀粛正が任務の筈だった。

 統合憲兵隊が調査活動に参加したのは、早いうちから事故が起こっていた戦時標準規格船を建造していた川南工業に陸軍の関与が見られたためだった。調査には統合憲兵隊内部における旧陸海軍の勢力争いか何かがあったという噂も流れていたが、憲兵による調査は意外な方向に向かっていた。



 議会の監督のもと行われた調査においても川南工業と陸軍との間に金銭的な関係は見つけられなかった。ただし、陸軍割当の戦時標準規格船を建造する為に不足しがちな鋼材が川南工業に提供されていた事実はあった。

 その陸軍から提供された鋼材が破断した戦時標準規格船に使用されていたのだが、それは必ずしも陸軍が運用する船とは限らなかった。おそらく川南工業における鋼材在庫の積み増しという形で提供された鋼材が使用されていったからだ。


 更に調査していくと奇妙な事が判明していた。そもそも1万トン級貨物船を建造出来るほど大量の鋼材を陸軍が保管していたのは妙だった。

 当時は陸軍が発注する戦車などの各種車両も溶接構造か鋳造となっていたし、それ以前に陸軍で使用するには船舶用鋼材は面積も厚みも規格上の寸法が違いすぎる筈だった。


 実は陸軍から川南工業に渡った鋼材は、元々陸軍が発注していたものではなかった。自由フランスが日本製の各種兵器提供と引き換えの物々交換として陸軍に渡していたものだったのだ。

 ところが溶接用鋼では無い大量の鋼材の使い道に困った陸軍の関係者は、船舶の建造は未だに旧式の鋲打ちだと思い込んで、鋼材不足の川南工業に提供していたと言うのが真相だったらしい。



 日本軍の内部ではそこで調査は終わっていた。結局は船舶建造においては品質を保証する用紙がなければ、ロット単位で鋼材の抜き出し試験を行うしかなく、そこには溶接性に関わる試験も追加すべきである。

 そうした文章が規格書に追加されることになるだろうと材料工学の専門家の間では結論付けられていた。


 調査の報告書は正式に議会に提出されていたから、金銭関係の疑惑も消失していた。陸軍は鋼材分で建造した船舶を欧州への輸送用として受け取っただけだったのだ。

 あるいは逆説的だが統合憲兵隊が調査に介入した目的は疑惑を払拭させることだったのかもしれなかった。鋼材の譲渡に関して金銭のやり取りは無かった事が調査によって正式に明らかとなっていたからだ。


 陸軍による鋼材譲渡の仲介にあたっていたのは、川南工業の経営者と懇意だった当時の陸軍大臣だった。そして大臣は、統合前の陸軍憲兵隊にも大きな影響力を及ぼしていた人物だった。

 つまりは今回の調査は、自らに非がない事を承知していた当時の大臣が公的機関を用いてそれを立証しようとしたものではないか。当時の大臣は何かと言われることの多い統制派閥の人物だったが、私利私欲に関しては当時からひどく薄いと知られていたからだ。



 戦時中は兵器類の供与と引き換えに自由フランスから日本などに提供された資源は少なくなかった。それで事故の発端となった鋼材に関しても日本国内では納得されたのだが、まだ疑惑は残されていた。


 自由フランスから提供された資源の多くは、早くから自由フランス支持を打ち出していた太平洋のフランス領で採掘されたものだったが、鋼材は全く別のルートで得られたものだった。

 川南工業に残された書類を調査した結果、鋼材の出処は当時のインドシナ植民地にフランス資本で建設されていた造船所向けに用意されていたものだと判明していた。


 戦時中に自由フランスと現地勢力との間に結ばれた協定においては、自由フランス軍指揮下に編入された極東師団を構成する膨大な兵力と引き換えに、国際連盟軍に供与されるものを除けば旧インドシナ植民地に残されていた物資も新独立国に引き渡す事になっていた。

 ところが破断事故の論文から始まった調査によって、実際には国際連盟軍による制圧から自由フランスと現地独立派などとの交渉の間に、相当量の物資が自由フランス軍の独断によって外部に持ち出されていた事が明らかとなっていたのだ。



 その時点までは部外者であったベトナムを始めとする3王国によって行われた協定違反を指摘する抗議は、フランス本国において感情的な反発という形で返されていた。そもそもフランス国民の多くがインドシナ植民地の独立を苦々しく見ていたからだ。

 終戦前後からフランス政界は混乱が生じていた。対外的には対独戦に勝利した国際連盟側の自由フランスによる本土奪還という形で誕生した臨時政府がフランス本土を統治していた。

 ところが、戦時中にインドシナ植民地から供出された兵員などを加えた戦力は大きかったものの、自由フランスの政治力は低かった。自由フランスの首領は対独戦講和時は次官級でしかなかったし、その後も戦時中は大物政治家はいずれも本国に留まっていたからだ。


 対するヴィシー政権は上層部の政治家達こそ良くて公職追放という処分を受けていたものの、実務を行う官僚達は替えが効かないから大半が臨時政府の指揮下に残留していた。

 両勢力とも戦時中から残るフランス国内の勢力である抵抗運動からの支持を求めて懐柔策をとっていたが、終戦直前に国際連盟軍によって討伐された共産党系の組織を除いて抵抗運動の構成員達も組織毎に分裂するだけだった。



 こうした政治的な混乱に加えて新生フランス政府は海外領土の分裂に対処する事に手を取られていた。

 インドシナ植民地の独立を目にした近隣のアルジェリアなども独立運動が盛んになっていたし、宗教問題が絡んだシリアの内戦も終結する気配を見せずに泥沼化していた。

 シリアではある勢力はフランスに仲介者として残留することを求めて、逆に別の勢力は弾圧者として駐留フランス軍を攻撃しており、宗主国の存在感は日々薄れていた。


 フランスの海外植民地で比較的平穏なのは太平洋の島嶼部だけだが、広範囲に散らばった太平洋の諸島に駐留する部隊は少なく、その他の地域の独立運動を阻止する為の戦力を抽出する余裕もなかったから、ヴィシー政権軍を編入したフランス本国軍は欧州近郊植民地の治安維持で手一杯だった。

 結局フランスは、どの政治的勢力も旧宗主国という繋がりが急速に東南アジア諸国から失われていくのを指をくわえて見ている事しかできなかったのだ。

戦時標準規格船二型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji2.html

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― 新着の感想 ―
[一言] >相当量の物資が自由フランス軍の独断によって外部に持ち出されていた事が明らかとなっていたのだ。 うわぁ、本当に国際問題化しちゃったよ……。 しかし、見事に戦時標準船座屈事故から繋ぎましたね…
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