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1947独立戦争謀略戦1

 この国そのものの名前を冠したサラワク川の流域は、上流も下流も急角度で曲がりくねっていた。

 白人王と呼ばれるブルック王家が治めるサラワク王国政府は基本的に現地民の生活を保護する政策をとっていたから、河川も大規模な開発の対象となることはなかった。

 文明格差を前提とした強引な開発を良しとしないブルック王家の政策は現地民などからも高く評価されていたのだが、異邦人である日沙商会の谷技師の目からすると金のかかる治水工事も最低限に抑えられているように感じられていた。



 盛んに蛇行するサラワク川の複雑な川岸に反射した波でもあったのか、川面を遡行する大発が唐突に揺らされていた。船首近くで周囲を確認していた谷技師は、反射的に艇内に向かって振り返っていた。

 軍から払い下げられた機材である大発の中央部には過積載もいいところである巨大な車両が鎮座していた。やはりこれも陸軍から日沙商会に払い下げられた二式力作車だった。

 原型となった一式中戦車は突起物の少ない外観だったというが、二式力作車は工作車両に改造されるにあたって様々な作業用機材や資材を括り付けておく為のフックなどが追加されていた。

 しかも新型車輌への刷新によって不要となった二式力作車を安価で払い下げてもらった日沙商会は、払い下げの条件であった自衛用機関銃塔の取り外しにとどまらずに大胆に車体まで改造していた。


 二式力作車は、本来戦車部隊に随伴する段列で運用される回収車輌らしい。ある程度の工作機能はあるが、それは前線後方の整備拠点まで回収した戦車の修理を補佐する為のものでしかなかった。

 ところが二式力作車を入手した日沙商会は、農作業用の汎用機としてこの巨大な車輌を運用することを考えていた。

 そこで整備用のクレーンが設けられていた場所には動力取り出し口が設けられて、強引に農園で使用されている機械や、車輌と一緒に入手した大型トラクター用の農機具を取り付ける装具が頑丈に溶接されていた。



 だが、本来戦車回収用に設計された重車両を農業用途に転用するのは無理があった。

 原型にあった機関銃塔や車体機関銃は取り外されており、塗装色も陸軍規格の迷彩色から作業車両らしい警戒色に変更されてはいたが、無骨な二式力作車の姿を見れば軍用車両であることは見間違えようもなかった。

 しかも銃塔の取り外しなどによって多少は軽量化されていても二式力作車の重量は20トン近くあった。これは重量級の農業用トラクターと比較しても十倍近くはあるのではないか。


 谷技師が普段勤務するサマラハン農園に必要だったのは、本来は開拓作業用の大型トラクターのはずだった。少なくともサラワク王国首都のクチンにある日沙商会の本社にサマラハン農園が要求したのは1トン級の農業用トラクターだった。

 それが百キロ離れたクチンに最近増備された大発で受け取りに言ってみると、何故か20トンの戦車回収車両へと化けていたのだが、その理由は谷技師にもさっぱり分からなかった。



 日本帝国に農業用大型トラクターが存在していないわけではなかった。というよりも日本の本格的な工業化にはトラクターの生産が大きな影響を与えていたのだ。


 日本本土で近代的なトラクターの生産が行われるようになったのは複雑な経緯があった。元々は先の第一次欧州大戦において、国内の農業生産能力を増大せざるを得なくなった英国が、米国から農業用トラクターの購入を計画したのが切っ掛けだった。

 当時の英国は、農業の機械化を進めて戦時の食料生産能力を増大させると同時に、効率化によって余剰となる農業労働者を兵力に転用しようと画策していたのだ。


 このトラクター購入は英国本土でのライセンス生産を視野に入れた大規模なものだったが、初期購入分が英国に渡った時点で米国議会が輸出の中止を命じてしまっていた。

 英国では当初は純粋な農業用としてトラクターを購入していたのだが、英国陸軍の一部がこれに興味を示して大口径砲の牽引用にトラクターを運用しようと購入したトラクターを借り受けて試験を行っていた。

 その際に撮影された重量級の榴弾砲を牽く米国製トラクターの写真が出回ったことで、米国議会はトラクターの軍事利用によって米国の中立が揺らぐ事を恐れていたのだ。



 勿論英国は国内事情を優先した米国議会に抗議を行ったのだが、彼らは頑なだった。

 米国議会の輸出禁止命令が出される前に英国に渡っていたトラクターの代金は高額だった。トラクター購入計画は英国でのライセンス生産を前提とした契約だったから、技術資料とする意味もあって米国内に出荷されるものよりもずっと高価に設定されていたからだ。

 英国や同じく戦場でトラクターを必要としたフランスは、輸出規制はドイツに与するのに等しいとして米国に怒り心頭に発していたのだが、実際には英本土での生産は難しくなっていた。

 英国本土の工業力は、フランス国内に侵入した前線に送り込む為の砲や砲弾といった純粋な軍需品の生産に集中しなければならなくなっていたからだ。


 この時にトラクター生産の拠点として英仏が目をつけたのが日本本土だった。欧州全域を巻き込んだ戦火の及ばない安全な工業地帯として、すでに日本帝国には砲弾など消耗品の発注が大量に行われていたが、これにトラクターまで加わっていたのだ。

 早速技術指導を行う英仏の技術者と技術見本として米国製トラクターが日本本土に送り込まれていた。


 工業化の端緒が開いたばかりといった様子の当時の日本帝国工業界にとって、大出力の内燃機関を搭載した大型トラクターの製造は見本となる車両があったとしても容易なことではなかった。

 問題は次々に発生し、そのたびに日本人と英仏の技術者たちは粘り強く対処していったが、安定した性能を発揮する日本製トラクターが英国に到着して軍民を問わずに運用され始まったのは大戦中盤に達した頃になっていた。



 大戦終結後になって英国にトラクターを輸出した米国企業は、この日本製のトラクターを自社のライセンスを不当に使用したコピー生産品であると告訴していた。

 これに最初に強く反発したのは、トラクターの製造を担当した日本企業よりも当初告訴した米国企業から大量のトラクターを輸入する筈だった英国農務省の方だった。


 珍しくフランスの支援を受けた英国は、そもそもの輸出中止措置を契約に違反する行為だと声高に主張すると共に、英仏の支援で日本で製造されたトラクターにはいくつもの米国製トラクターには存在しない技術的優位性が存在すると指摘していた。

 嘘ではなかった。日本製トラクターの原型となったのは実際に米国製のものであったのだが、大戦序盤頃に日本本土で内燃機関の製造などで時間を取られている間に車体部にはいくつか考案された改良点が盛り込まれていたのだ。

 外観的にも日米のトラクターには画期的な農機具牽引用の3点リンク機構や東南アジアからもたらさえる豊富な資源を使用したゴムタイヤなどの相違点が存在しており、その多くは既に日本標準規格によって規格化されて各企業で生産されたトラクターと作業機との互換性すら有していた。


 ほとんど英米の論争となった訴訟問題は、最終的には米国議会の輸出中止命令などを含めて泥沼の外交問題となり、訴訟取り下げと一部改良点のクロスライセンス契約という形で決着がついていたが、英国政府関係者の間に強い反米感情を育てる結果にも繋がっていた。



 大手を振って製造が可能となった日本製のトラクターだったが、当初は国内での使用は限定的なものだった。

 日本本土の農業、特に米作を行う田圃で使用するには、大口径のゴムタイヤでも接地圧が過大であったし、巨大なトラクターが乗り入れるには江戸時代から続くような複雑な区割りの農地は過小であったのだ。

 ところが、皮肉な事にトラクターの製造に大きく関わっていた日本帝国の工業化によって農村の風景は大きく変わりつつあったのだ。


 拡大する工業界は貪欲に労働者を吸収していた。既に明治頃に行われていた過剰人口分の移民は完全に停止していた。それどころか南米などに移民していた日系人の中には親族を頼って一家ごと帰国したり、子女だけでも日本に帰すものが増えていた。

 例外なのは皇族と共に官僚や高度技能者が渡ったハワイ王国位のものだった。


 それ以前に工業界は農村から労働者を奪っていた。地主から田畑を借用して耕作する小作人の中からも農村を出て工場労働者に転職するものが増えていたのだ。地主に少なくない小作料を支払って汗水流して働くよりも、最新技術で作られた工場で働くほうが文明人だという風潮が出来ていたのだ。

 小作人どころか地主層でも家を継げない次男三男となると工場に就職する時代が到来したことで、農村は一時期の過剰人口どころか著しい労働不足に陥っていた。



 国家を上げて工業化を推し進めていた日本帝国だったが、予想される農業生産量の低下は許容できる範囲を超えていた。農工問わずに労働者が不足する中で農業生産量を増大させるには効率化を図るしかなかった。工業化によって製造される農業機械の投入で労働効率を上げるのだ。

 それに投入される労働力に対して効率よく農業が稼げるようになれば、適切な数の工場労働者も農地に帰ってくるのではないかとも考えられたのだろう。


 ただし、農業機械を投入するには解決しなければならない問題があった。耕運機やトラクターを効率よく運用するには農地の形状は四角く、更に一定以上の広い面積が必要だった。

 耕作作業を行う場合、トラクターの切り返し作業を減らせればそれだけ効率が上げられるし、曲がりくねった境界近くを小回りの聞かないトラクターで作業するのは難しかった。


 極端なことを言えば、無限に長い畑があれば切り返しを行うことも無く一直線に前進するだけで作業が済むことになるのだが、実際に後の満州共和国の一部で新たに開拓された畑などは機械の都合に合わせて広大な面積の集団農場となっていた。

 そこでは朝から一方向にひたすら前進して昼を食ったら隣を折り返して一日が終わるとまで言われていた。



 いずれにせよ機械化を推し進めるには日本中の農地を整理する必要があった。人間の都合で複雑に分割されていた農地を、今度は農業機械に合わせて形状を変えてしまうのだ。

 小作人が土地を返してきたことで地主層の大半は保有地面積で言えば十分に機械化の利点を活かせる規模だったから、あとの問題は区画整理だけだったとも言える。


 そうして農商務省の指導で半強制的な農地の改良が日本各地で行われていた。頻繁に地主達の農地が交換され、曲がりくねったあぜ道までもが整然とした形に作り変えられていた。

 勿論そうした事業を手作業で行っていた時間がかかってしまうはずだが、整地作業にはこれまで輸出されていた大型トラクターが使用されていた。

 効率化を図ったとはいえ、多くの農家にとってはまだ個人で使うには大型のトラクターは不相応なものであったが、農商務省の指導のもとに産業組合単位で購入された大型トラクターが必要に応じて各農家に貸し与えられる形で共同運用されていた。


 個人の農家単位で主に使用されたのは、日本の田圃に適した耕運機だったが、大規模化する農家の中には戦間期に小型のトラクターを購入して重作業の効率化を図るものも少なくなかった。

 農村の機械化の前提となった農地の整理が上手く行ったのは、おそらく時期的なものが大きかったはずだ。幼少期の頃を思い出しながら谷技師はそう考えていた。

 そしてあの頃と同じ風景が、サマラハン農園を皮切りにこのサラワク王国でも広がっていく筈だったのだ。

二式力作車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/02arv.html

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

大発動艇の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lvl.html

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