1946重巡洋艦八雲6
終戦から半年経ってもドイツ人難民の苦難は続いていた。ドイツ本土に残された居住面積や生産力を考慮すると、少なくとも一千万人は発生するであろう実質的な棄民である移住者を揃って受け入れられるような国はどこにもなかったからだ。
積極的なドイツ人の移住受け入れを表明した国がないこともなかった。その中でも意外なのは極東の満州共和国だったのではないか。
馬賊出身の満州族系軍閥の手で中華民国から実質的に独立した満州共和国だったが、国内の人口比率では土着の満州族よりも長い歴史の中で大量に入植してきた漢人のほうが大きかった。
だから、満州共和国は比較的高い教育を受けたドイツ人難民を受け入れることで相対的な漢人の比率を下げようとしていたのだ。
大戦では満州共和国は有力な部隊を欧州まで派遣していたが、国際連盟軍全体で見ればその数は少なく国内に置ける反独感情も少なかった。そもそも国民国家としての歴史が浅いものだから、大半の住民は遠隔地のドイツ人に対しては単なる外国人以上の思いはないのではないか。
実際に満州への移民に対する障害があるとすれば、それはドイツ人側にあった。住環境や言語が徹底的に異なる上に、昨日まで侮蔑の対象ですらあったアジア人の中に埋没して生きることへの抵抗は大きいだろう。
人種という意味ではスラブ人であるシベリアーロシア帝国の方がまだ敷居は低かった。
ロシア帝国も移民の受け入れを表明していた。シベリアーロシア帝国は、人種に関わりなくソ連との人口格差に悩んでいたから、以前より移民の受け入れには積極的だったからだ。
昨今の土木工事に関する機械化によって未開であったシベリア森林部の開拓も徐々に進んでいたから、移民の増加に合わせて宅地の造成なども行われる可能性も高かった。
そのためにシベリアーロシア帝国には一定数の移住が既に決まっていたが、自然環境の厳しさやソ連との絶え間ない小競り合いの続く情勢などから二の足を踏むものも少なくなかった。
実は米国への移民の流れは途絶えていたものの、ドイツから米大陸に向けられた視線は消えてはいなかった。
ドイツ人が米国より北のカナダに大挙して移住する可能性は低かった。戦時中ずっと英国本土を支え続けたカナダ国民の反独感情は高かったからだ。
それにドイツ人が大量に流入した場合は、カナダ人の少なくない割合を占めるフランス系住民を刺激する恐れもあった。だからフランス語圏のケベック州独立派などを勢い付けるのを避けるために、カナダ政府は難民受け入れには慎重な姿勢を示していたのだ。
ドイツ人達が次に視線を向けたのは南米大陸の諸国家だった。米国政府を通じたソ連の妨害も中米を挟んだ南米にまで至れば防げる可能性が高い上に、そもそも大地主の多い南米諸国の指導者層は共産主義者には比較的不寛容だったのだ。
言語に関しても欧州からの移民も多かったから壁は低かった。そうした理由で南米への移民は一定の需要があったらしい。
ただし、南米諸国に関してはある種の疑惑もあった。難民に紛れて戦犯に指定されるナチス党の幹部が密かに南米に逃れているのではないかというのだ。しかも、その中にはナチス・ドイツを率いていたヒトラー総統本人が含まれるという噂まであったのだ。
俄には信じ難い話だったが、ヒトラー総統が暗殺されたと言われる東プロイセンの総統大本営の近くから出港した潜水艦が所在をくらましたのは事実であるらしい。
国際連盟とドイツとの講和が成立する前に行方不明となったその潜水艦は、戦時中に大量建造された沿岸用の7型ではなく、本来中距離用として設計されていた9型潜水艦だというから、消耗物資を切り詰めれば無補給でもドイツ本国から南米にまで到達している可能性は否定出来なかった。
総統大本営のあった地域はソ連軍の占領下にあったが、ソ連からナチス党幹部達の消息に関して正式な発表は無かった。暗殺事件後に総統大本営を脱出した守備隊将兵も詳細は把握していなかったが、大本営の地下会議室で爆発が起こっていた為にそもそも遺体の判別は難しかったようだ。
この情勢でヒトラー総統が生存していた所で、大勢に影響が出るとも思えないが、南米に移住を希望する難民の中にも親衛隊などの党関係者が多いという噂もあった。
それ故に戦犯扱いを避けたい反ナチスの一般的なドイツ人は南米をむしろ避けるのではないかという観測もされていたほどだった。
南米に並んで人気があったのは英連邦加盟国の南アフリカ連邦とオーストラリアだった。両国はどちらも現地人に対して白人の人口が増加することを望んでいたからだ。
南アフリカ連邦は元々宗教的な迫害を逃れたドイツ系住民が多かったし、戦乱の続く中国から流入する単価の安い中国人移民労働者の脅威に晒されているオーストラリアも白人の増大には積極的だった。
特にオーストラリアは欧州大戦における主戦場から遠いこともあったためか、あるいは周囲に次々と独立の機運を見せるアジア人国家に囲まれているためか、反独感情よりも移住者が白人であることを重要視しているようだった。
こうしたドイツ人難民に関しては、日本帝国は国際連盟の主要加盟国ではあっても殆ど蚊帳の外に置かれていた。
白人達の作った国家と違ってドイツ人達にしてみれば移住の敷居が高かったし、台湾などを除いて日本本土の人種は殆ど日本民族ばかりであったから、満洲共和国などのように積極的に移民を誘致することもなかったからだ。
一部ドイツ人孤児の救援活動が赤十字社主導で行われていたが、やはり言語や国民感情の点から日本への移住を選ぶ一般のドイツ人は少なかった。
他国のように高度技術者に関しては日本帝国も例外的に誘致していた。明治期のお雇い外国人のように技術を学ぶというよりも単にドイツの先端技術が他国に流出するのを恐れたのではないか。
村松中佐の前に現れたドイツ人もその類であるようだった。というよりも、プリンツ・オイゲンあらため重巡洋艦八雲に同行してきた本艦乗員の教育にあたっているのだろう。
舷門まで駆けつけてきた本艦乗員は水雷長の駒形中尉と名乗っていた。同時に二人のドイツ人が八雲に派遣された顧問だと村松中佐に説明していた。二人共日本海軍の士官服を着ていたが階級章や記章の類はなく、士官待遇の軍属となっているらしい。
本来奏任官扱いの軍属には別個制服等が定められているはずだが、ドイツ人の軍属という異例に対処しきれていないのではないか。
ドイツ人は両名とも元ドイツ海軍軍人だった。年嵩の方のクリューガー元少佐は、実際に戦時中はプリンツ・オイゲン乗組の幹部を務めていた。一時期は艦長代行まで務めていたらしいから、八雲の運用顧問としては最適な人材だったのだろう。
それに対してヴェルナー元大尉は技術将校だったから、八雲の運用面ではなく機関部を中心とした技術面の指導を行っているらしい。ヴェルナー大尉は本艦乗員の経験こそなかったが、大戦終盤は工廠の監督官を務めていた機関の専門家だった。
プリンツ・オイゲンの修理工事に携わっていたことから技術顧問として日本海軍から声がかけられたという話だった。
八雲の主機関は蒸気タービンだったが、搭載されるボイラーで発生する蒸気圧は高かった。効率化を求めて日本海軍のボイラーも段階的に高圧化が図られていたが、ドイツ海軍はそれ以上の高圧化がされていたのだ。
ただし、現在の八雲では定格まで昇圧することはないらしい。性能諸元どおりまで圧力を上げると大戦中に損傷した箇所が構造的に破断する可能性があるというのだ。
八雲が元通りの機関性能を発揮するには、機関部の徹底した点検と整備が必要だったが、実際にはドイツ海軍でもボイラーの高圧化には慎重な意見もあったようだ。
ドイツ海軍における蒸気圧の高圧化が行われたのは、技術的な革新があったからではなかった。機密の蓋を開けて見れば、単純に要求された機関性能を発揮するには高圧化が必要不可欠であったと言うだけの話で実用性が高いものではなかったのだ。
日本海軍にプリンツ・オイゲンが引き渡されて各種調査に従事していたここ半年間の運用でも細々とした問題が多発しているらしく、窮屈そうに着込んだ士官服を汚したヴェルナー大尉は、挨拶もそこそこに慌ただしく機関室に戻っていた。
無作法な様子のヴェルナー大尉に駒形中尉は眉をしかめていたが、クリューガー少佐は肩身が狭い様子だった。どうやらドイツ人顧問といっても随分と立場は違うらしい。
広大な敷地を持つ大神工廠の中でも端にある桟橋に係留されている八雲の舷門は訪れるものもなく侘しい雰囲気であったのだが、艦内は慌ただしく行き交う乗員が多かった。
士官居住区に向かう3人とすれ違うものはさほど多くはないのだが、係留中だというのにどことなく剣呑なものか、疲労した様子の乗組員が多い気がするのだ。
駒形中尉によれば、八雲の乗員数は少ないらしい。賠償艦であるから本艦には定数表など存在していなかったのだが、1万トン級の巡洋艦であれば一千人程度の乗員は必要であるはずだった。
実際にはアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦は千五百名程度が本来の乗員定数であるらしいのだが、現在の八雲に乗り込んでいる将兵は五百名程度しかいなかった。
村松中佐は首を傾げていた。定数からするとその3分の1という数は戦闘艦の運用面においていくら何でも少な過ぎた。
例えば、平時の安全な海域で実施される航海直の場合は総員直体制からみると4分の1を当直に充てていた。残りの乗員に休息をとらせて4交代制として長期間の運用に備えるためだ。
戦闘が直後に想定されている場合を除けば総員直体制など滅多に取られることはなかった。乗員全員が当直に立つ戦闘配備を発令した場合、乗員の疲労が大きすぎてその後の航海に差し支えるからだ。
長期間の緊迫した航海を強要される船団護衛任務では、長時間の戦闘における乗員の交代を見越して対潜戦闘時でも半舷休息をとらせていた豪胆な艦長もあったらしい。
だが、プリンツ・オイゲン時代の定数を大きく割り込んだ八雲では、航海時は常に直体制にあるようなものになってしまっているのではないか。それに慣れないドイツ様式の艤装である事を考慮すれば、乗員達が疲労するのも無理は無かった。
ふと気にかかって村松中佐は前任者からの引き継ぎを駒形中尉に尋ねていたが、中尉は首を振っていた。やはり前任の副長は存在していないらしい。短期間ならばともかく、大型の巡洋艦において副長不在というのはいささか異常だった。
この様な不利な状況で日本本土まで八雲を回航させて来たことを考慮すると、まだ顔を合わせていない本艦の艦長は指導力が極めて高いのではないか。厳格に規則を運用して規律を保たない限り事故が多発していた筈だからだ。
尤も八雲を欧州から回航するだけであれば乗員数も極限できる筈だった。極論すれば航海科と機関科さえ居れば最低限の航行は可能だからだが、その前提は現在の八雲には当てはまらなかった。駒形中尉によればここしばらくは主砲の発砲などの調査試験を行っていたというからだ。
人数の減らされた砲術科などは大忙しだったのではないか。戦艦や重巡洋艦のような主砲を中核に据えた水上戦闘艦であれば全分隊の半数が砲術科ということも珍しくないのだ。
割り当てられた士官居室に荷物を下ろしながら村松中佐はため息をついていた。もしかすると副長としての最初の仕事は、所要の人数を割り出して定数表を作成することなのではないかと考えていたからだ。
よく考えると案内に来た駒形中尉の配置や階級もおかしい気がしていた。重巡洋艦の水雷長というのは中尉の階級では低すぎる気がする。定数表が無いのだから艦隊の規則に反することにもならないが、進級したばかりには見えないが中尉にしては重荷なのではないか。
それだけでは無かった。村松中佐は、新任副長の案内にやって来た駒形中尉の立場を訝しんでいた。中尉の階級では当直将校ではありえないのだが、逆に副直将校だとそれはそれでおかしいことになる。
通常は、熟練の分隊長達が命じられる当直将校の行動を、副直将校となる初級の士官に間近で教育するという意味もあったからだ。駒形中尉はまだ若手の士官のようだったが、水雷長という立場のあるものが副直将校というのは異様ではあった。
―――思ったよりもこの艦の乗員構成は厄介なのかも知れない……
日本海軍の常識からすると大きすぎるような気がする舷窓から桟橋を見ながら村松中佐はそう考えていた。