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1946重巡洋艦八雲5

 ドイツ人難民問題が顕になり始めたのは、彼らにとっての東部戦線が旧ポーランド国境に接近して東プロイセンが脅威に晒された頃だった。

 ヒトラー総統率いる当時のドイツ首脳部は、東プロイセンを死守する為に一大機甲部隊をバルト海沿いに集結させていたのだが、その戦略をあざ笑うかのように機甲部隊を引き抜かれたドイツ軍前線中央部を易易と突破したソ連軍は、殆どポーランド全域を舞台とする巨大な包囲網を構築していた。

 東プロイセンに残留する難民は、急遽講和に持ち込んだ国際連盟軍が協力した輸送作戦もあってドイツ本土に逃れていたのだが、そこももはや安住の地とは言い切れなかった。



 じっくりとポーランド国内の包囲網を平らげたソ連軍は、将兵と弾薬の補充を受けつつドイツ本土への進攻を開始していた。戦車と火力を押し立てたソ連軍の戦力は膨大なものだった。しかも彼らは開戦前のドイツ軍を遥かに上回る機動力を長期間支える重厚な兵站線を有していた。

 ドイツ、ポーランド国境付近で前線が立ち止まっている間に、開戦後にドイツ軍によって欧州標準軌に改軌されていた鉄道網はポーランド国内にあるものを含めてロシア広軌に再改軌作業が行われていた。

 皮肉なことに開戦直後に得られた大量のソ連軍捕虜を用いて行われた改軌作業は、四年後に今度はポーランドで獲得されたドイツ人捕虜の手で元に戻されていたのだ。


 東プロイセンからの撤退戦時にドイツ海軍は壊滅的な損害を受けていた。また、ドイツ海軍に協力していた国際連盟軍も立ち去ったことでバルト海の航路は辛うじて残存していたソ連海軍バルト海艦隊が抑えていた。

 海運と鉄道輸送を背後にしたソ連軍の物資は膨大に蓄積されており、ドイツ国境に敷かれていた防衛線はソ連軍の火力の前に無力だった。



 国境線を突破したソ連軍は、ヒトラー総統無きドイツ政府を無視するかのようにドイツ軍が集結するベルリン周辺を迂回してバルト海方面の制圧を優先していた。

 パリで発生したドイツ特使を狙った爆破テロの影響で正式な講和が遅れていた為に、国際連盟軍はソ連軍に先んじてドイツ国内に展開する法的な根拠を欠いていた。

 国際連盟軍がドイツ国内に進出してソ連軍の進攻が停止した時点で、ドレスデン、ライプツィヒ、キールを結ぶ線より北東部は、デンマークからチェコ国境に至るまでソ連軍の占領下に置かれていたのだ。


 ただし、怒涛の勢いでソ連軍が進攻したにも関わらずドイツ民間人の被害は少なかった。自決したゲーリング総統代行が組織的な疎開の実行をドイツ国鉄などの諸機関に命じていたからだ。

 東プロイセンから逃れてきた難民も、上陸後に収容されたベルリン近郊が戦場となることが予想されていたためにドイツ南西部へと移送されていったのだ。



 停戦時にドイツ国内で生じていた難民は膨大な数になっていた。人口密集地であるベルリン周辺から効率よく移送されていったものだから、ドイツ南西部の各都市には短時間のうちに合計すれば一千万を遥かに超える数の難民が移動してきていたのだ。

 しかも彼らの数は今後も増大することが予想されていた。ナチス・ドイツに占領されていた欧州諸国が国内の治安維持を名目にドイツ系住民の追放を行っていたからだ。


 ドイツ系民族の国家であるオーストリアを除いても、民族ドイツ人は戦前からチェコやポーランドなどに一定数が居住していた。停戦後チェコなどからその民族ドイツ人が追放される形でドイツ国内に流入していたのだ。追放される民族ドイツ人はチェコだけでも三百万人程度に達していた。

 先の大戦では、彼ら民族ドイツ人が果たした役割は決して小さくはなかった。併合された地域ではナチス・ドイツに積極に加担してユダヤ人などへの迫害に関与したものが多かったし、武装親衛隊に志願して最前線に赴いていた若者もいたのだ。

 新生ドイツ政府は追放政策に対して欧州諸国に抗議していたが、戦時中に発生していたドイツ系民族による数々の利敵行為を前にしては説得力はなかった。



 出生国から追放された民族ドイツ人はもちろん、ソ連軍に占領されているドイツ北東部に元の住民を帰還させるのは絶望的だった。

 大規模な疎開によって人口密度が著しく低下していたドイツ北東部は、工場設備や資材などのめぼしい資産が根こそぎ略奪された後に、早くもソ連が移民を送り込み始めていたからだ。

 ドイツとソ連、国際連盟加盟国との包括的な講和条約は未だにエレノア・ルーズベルト元米国大統領の仲介で交渉中であるのだが、ソ連としては国際連盟側のドイツ復帰を決して認めようとはしなかった。

 近い将来ドイツが国際連盟側とソ連占領地帯とに分断されるという事態は、多少国際情勢の知識がある人間であれば容易に予想できることだった。


 ただし、今のドイツ北東部には国家を成立させられるだけの「国民」が居なかった。

 新たなドイツ国民とするためにソ連側の占領地帯に移送されてくる移民の構成は雑多なものであるらしい。

 大戦終結時にソ連の影響下に置かれたハンガリーやポーランドから追放されたドイツ系住民だけではなく、ウクライナや中央アジアから移送されるものもいるというが、詳細はまだ国際連盟側では掴んでいなかった。いずれにせよソ連にとって都合のいい住民構成を目指すのではないか。



 ドイツ南西部に疎開した国内難民の数は明らかに過剰だった。ドイツ総人口六千万人の二割もの人間が何の財産も持たずに難民と化している計算だったからだ。

 しかも、ドイツの農業は比較的平坦な地形が連続する東部に集中しており、アルプス山脈付近で行われている酪農を除けば、難民が集中するドイツ南西部は工業化が進んだ地域であり食糧生産量は少なかった。


 その工業地帯も今では生産は止まっていた。

 戦時中は現状では必要ない兵器の生産に工業地帯が集中していたためでもあったが、それ以前に損害対策として占領地域を含むドイツ勢力圏内に部品生産や組み立て工場を分散させていたものだから、国際連盟軍による交通遮断を狙った戦略爆撃やソ連軍の進駐によって部品供給が途絶えていたのだ。


 国際連盟軍との講和会議が開始された頃には戦略爆撃は停止していたが、今度は講和条件であった捕虜の返還やイタリア、フランス人労働者の帰国がドイツの労働環境に劇的な変化をもたらしていた。

 多くの青年層を戦地に送り込んだ為に、純粋なドイツ国民による労働力は激減しており、捕虜を含む外国人労働者がいなければ各産業界が立ち行かない所まで来ていたのだ。

 終戦前もドイツ政府は東部戦線以外から引き上げてきた将兵を即座に復員させて労働者に転換させていたが、それも優先して農業労働者として送り込んでいたものだから停戦前から操業を停止していた工場も多かったらしい。



 閉鎖された工場まで宿舎に割り当てられた難民達は、すでに何の役に立たなくなっていた工作機械や仕掛品を押しのけて寝起きする空間を作り上げようとしていた。

 わずかに残った平地は、もれなく急増の畑に作り変えられようとしていたが、どんな品種であってもそんないい加減な耕作ですぐに収穫できるわけが無かった。彼らに必要だったのは明日の収穫ではなく今日の食糧だったのだ。

 膨大な難民を前にして出されたなりふり構わぬ支援要請を受けて、国際連盟軍は復員する将兵を乗せて帰る予定の船に、アジア諸国から供出された食糧を満載して送り込んでいた。


 配給制度が続くのは英本土などでも同様だったが、熱量換算でもドイツ国内に食糧を行き渡らせるのは困難だった。主に荷卸される港のあるオランダやベルギーでさえも食料は不足していたからだ。

 欧州諸国では見慣れないタロ芋やら高粱、米といったアジア圏の食材に文句を言うものもいたが、大多数の難民は気にもしなかっただろう。腹を満たさなければ文句を言う前に餓死するだけだった。



 だが、生産に寄与しない難民をいつまでも支援し続ける余裕は国際連盟にもなかった。復員船として用意された船舶の空の往路を使用した為に援助食糧の輸送費用は最低限に抑えられていたが、人道の為に地球を半周して送り込む食糧の買付予算だけでも膨大なものだった。

 農業生産量を考慮するとドイツ政府に残された領域に留めるには難民の数は明らかに過剰だった。アジア諸国から派遣された将兵が立ち去った後は、再び人員輸送用の船舶を回航して、今度は難民となったドイツ人の中から大規模な移民を送り出さなければならないのは確実だった。


 しかし、移民の受け入れ先を探すのは簡単なことでは無かった。周辺諸国は難民受け入れどころか民族ドイツ人の追放政策をとっていたからだ。

 陸続きではない英国も、旧交戦国国民の大量受け入れには慎重な姿勢を示していた。ドイツ周辺諸国と同様の思惑もあるのだろうが、移民となったドイツ系住民に対する迫害が起こった場合に世論が分断されるのを恐れているのではないか。



 尤もドイツ人の中でも高度技術者だけは例外だった。噴進弾や航空技術、それに一部の物理科学といった先端技術に関わっていた研究者や技術者は、半ば拉致される形で国際連盟に招聘されて各国に移住していた。

 彼らの大半も、困窮した祖国では到底望めない先端技術の研究を行う為と割り切って移住を受け入れていたらしい。その多くはシベリアにあると噂される研究都市に向かったというが、詳細は不明だった。

 裏を返せば、ここから先に移民となるのは高度技能者ではないということではないか。



 難民自身の多くが当初移住を目指したのは米国だった。今次大戦でも中立を保って戦火を逃れていた上に、米国は現地民を押し退けて建国された移民の国だったから、これまでに移民してきたドイツ系住民の数も少なくなかったのだ。

 だが、豊かな米国を目指した移民の流れはすぐに途絶えていた。米国と蜜月関係にあるソ連が出入国管理局で今次大戦におけるドイツ人戦犯の逮捕を目論んでいるという噂が流れていたからだ。

 これは仮想敵国である米国に向かう移民の流れを阻止するために英国の諜報筋が意図的に流した情報ではないかという噂もあったが、実際に戦時中の犯罪歴を問われてソ連に移送されたドイツ人が居たのは確からしい。


 確かなことではないが、難民の中には解散された武装親衛隊の隊員も含まれているようだった。

 武装親衛隊の中でも古参の機甲師団などは陸軍に編入されていたが、俄づくりで隊員も外国人ばかりの義勇師団などは武装解除の上で戦時中に解散させられていた。

 解散した部隊の将兵は、ドイツ本国に帰還して外国籍であれば送還されるか、国籍がソ連軍に占領された国であれば国際連盟に預けられたというが、混乱した前線で武装解除を要求された武装親衛隊の将兵の中には脱走者もかなりの数がいたようだった。

 中には東プロイセン包囲網の中で民間人に偽装した脱走兵が陸軍にもいたようだが、公式には包囲網に取り残された全部隊は住民を守って最後まで奮戦して捕虜となったことになっていた。


 一千万の難民、しかも公的機関が壊滅していた地域から退避してきただけに、その身分を保証するものには乏しかった。

 ソ連が米国への難民流入に目を光らせていたのもそれが分かっていたか、或いはそれを理由に占領地帯の住民とするドイツ人を連れ去るつもりだったのかもしれなかった。

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