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1946重巡洋艦八雲4

 既存の造船所を見慣れていた村松中佐の目には、巨大なブロックがいくつも並ぶ大神工廠の風景は異様なものに映っていた。


「これではまるで……」

 子供の頃に読んだ児童書の内容を思い出して村松中佐は途中までつぶやいたが、気恥ずかしさを覚えて止めていた。だが、耳聡い運転席の下士官はエンジン音の中から中佐の独り言を聞きつけていた。

「まるで巨人の国、ですか」


 揶揄するような下士官の言葉に村松中佐は眉をしかめていたが、隣の助手席に座る中佐の顔が見えたわけでもないだろうに、下士官は取り繕う様にいった。

「大神に訪れる方は、結構な確率でそうおっしゃるんですよ。ここは同じ工廠といっても自分らが海兵団にいた頃の佐世保工廠とは別世界に見えますなぁ」


 地元九州の出身らしい下士官は笑みを浮かべていた。大戦中は飛躍的な兵員数の増大によって新兵や下士官の教育を行う海兵団が幾つか新設されていたが、古参らしい下士官が海兵団で揉まれていた頃は佐世保工廠に隣接する鎮守府内の一つしかなかったはずだ。

 大神工廠の所在地は九州であったが、中国大陸を向いた佐世保鎮守府ではなく太平洋に進出する拠点となる呉鎮守府の管轄下にあった。だから本来であれば呉海兵団出身の下士官兵が配属されるはずだが、佐世保から異動して来た兵も多いのだろう。



 鎮守府や工廠が設置されてから半世紀近くが経つ佐世保は、同時期に鎮守府が置かれた呉と同様に入り組んだ地形の奥にある天然の良港として知られていたが、それだけに工廠設備の配置は前時代的なものに留まってるのではないか。

 村松中佐が難しそうな顔でそう考えていると、下士官は中佐の気分を害したままだと思ったのか顔色をうかがうように続けた。


「私も古手の将校さんに聞いただけで詳しくは知らんのですが、この工廠が最初に計画されていた時はもっと違った形だったらしいです。それが工事が始まる頃になってから艦政本部とかの横やりで土地の買取やら埋め立てやらがだいぶ増えたそうですな。

 それに何百トンもあるクレーンがこれからもまだ追加されるという話です。それで信じられん位に工廠が大きくなったのはいいですが、今度は人が足りなくなって私のように佐世保から引っ張られる主計の事務屋も増えたという次第でして……

 しかし、妙な話ですな。戦争は終わったというのに戦艦や空母の建造は遅れはしても止まらないんですから。これでもこの工廠の仕事は終戦前に比べれば減ってるんだそうですが、変わったのは夜間勤務が無くなった位ですから昼間に走り回る車の数は全く減りはしませよ」


 護衛艦艇の建造は終戦とほぼ同時に中断していたが、大型艦の場合は建造中止の判断を早期に出すのは難しかった。

 予算が大きいから急に建造を止めると艤装品の納入業者などの裾野を含めて多数の失業者が出てしまうし、戦時中も米海軍は拡張を続けていたから戦闘力の高い大型艦は抑止力としても一定数の建造が求められていた。

 新設の大神工廠は戦時中に大量建造が求められていた護衛艦艇や戦時標準規格船に関しては建造実績は殆どなかった。精々が開設時の習作程度だったのではないか。一方で大神工廠は大型艦の建造に集中していたから、残業の抑制などによる工数の低減が行われた程度だったのだろう。



 村松中佐は下士官の言葉を半ば聞き流して眉をしかめながら工廠周辺の地形を思い出していた。

 維新後に各藩の海軍をかき集めて統一した日本海軍が誕生した頃は、日本そのものの造船規模も小さかったから工廠は防御を優先した入り組んだ地形の鎮守府に付属させても問題なかったが、ここまで巨大な工廠となると広大な平地が必要だった。


 すでに軍令、軍政機能を担う鎮守府と広大な敷地が必要となる工廠を併設するような時代ではなくなってきていたのだろう。あるいは軍艦の建造を行う工廠だけではなく、これから先大型化する船舶の建造を行う造船所は、効率を追い求めて変革する時代が来るのではないか。

 大神工廠の様に効率を重視して仕事が絶えないところもあれば、終戦による需要の減少と大型化による費用増に耐えきれずに消え去っていく造船所も出てくるのだろう。

 先の欧州大戦後は単に需要の激減だけが造船所を倒産させていったのだが、今度は新技術に対応できるか否かも造船所の淘汰に関わってくるのだ。



 ただし、村松中佐には鎮守府に隣接する工廠が廃止されるとも思えなかった。工廠に要求される機能は造艦だけではなかったからだ。鎮守府には数多くの艦艇が在籍していた。それらの艦艇の補修も工廠の重要な職務だった。

 それに日本海軍でも艦艇の建造を民間造船所が受注することも少なくないが、民間で建造を行う場合も艦艇一隻分全ての部材を造船所側で調達する事はできなかった。


 主機関や兵装、射撃指揮関係の機材といった専門性の高い軍需品は海軍が別個に調達して官給品として造船所に支給していたのだ。他に需要がない大砲の製造機械などを民間の造船所が抱えても費用効果がつり合わないからだ。

 実は大神工廠にも兵装などを製造する造兵部は存在していなかった。兵装関係は近接の呉工廠からの供給に頼っていたのだ。だから艦艇の建造自体に特化した大神工廠に対して、これからの呉工廠は造機、造兵部門の充実と修理部門の維持を図っていく事になるのではないか。



 色々と考え事をしていた村松中佐に唐突に運転席から声がかけられていた。いつのまにか目的地の桟橋に到着したらしい。

 だが、顔を上げた村松中佐は係留されていた艦の姿を見て唖然としていた。そこにあったのはどう見ても日本海軍の艦艇では無かったからだ。取り繕うように舷門や軍艦旗が日本海軍が正規に使用しているものである事がむしろ違和感を際立たせる結果に繋がっていた。


 目の前の艦艇を呆然として眺めている間に、運転手は後席からそさくさと村松中佐の荷物を下ろしていた。この艦が重巡洋艦八雲で間違いないらしい。首をかしげたまま荷物を担いだ下士官を連れて中佐は桟橋に降ろされた舷梯を上がっていた。

 舷梯を上がった先の舷門に詰めていた当直衛兵は平服姿の村松中佐に怪訝そうな顔を向けていたが、中佐が名乗ると慌てて伝令に当直将校を呼びに行かせていた。

 その間も不思議そうな顔で村松中佐は船体を眺めていた。舷門近くは日本海軍仕様の軍艦色で塗装されていたが、どこか斑になっていた。戦時中に慌ただしく行われていた損害復旧工事と元の塗装色からの上塗りで歪になってしまったのだろう。

 バルト海で発生した戦闘ではこの艦も損傷を負っていたはずだった。その前に僚艦と衝突したとも聞いていたから、船体にも少なからず破損箇所があったのではないか。


 ―――そんな状態の元敵艦を艦隊に編入して意味があるのだろうか……

 そう考えながら村松中佐は重巡洋艦八雲ことドイツ海軍重巡洋艦プリンツ・オイゲンの艦橋構造物を見上げていた。



 計画通りに就役しなかった艦も含めればドイツ海軍のアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦は5隻が建造されていたが、終戦時にドイツ海軍に残存していたのはプリンツ・オイゲン1隻だけだった。

 ドイツ海軍全体を見渡して見ても、戦闘可能な状態で最後まで残っていた大型水上艦はプリンツ・オイゲンのみと言っても良かった。終戦近くまでバルト海で温存されていた僚艦も、東プロイセンにおける難民移送作戦の際に生じたソ連海軍バルト海艦隊との交戦でその姿を消していたのだ。


 だが、デンマーク国境までソ連軍に侵攻されてしまったことでドイツ海軍はバルト海を失ったも同然だった。この状態ではドイツ海軍に大型戦闘艦は不要となっていた。

 国際連盟もソ連軍の数に備えるために停戦後も一定の陸空戦力の保持をドイツに要求していたが、ドイツ海軍に向けられた視線は冷ややかなものばかりだった。


 日英海軍に加えて、講和時にもかなりの戦力を残存させていたイタリア王国海軍艦隊が合流したことで、国際連盟軍は海軍ではソ連軍を圧倒していた。少なくとも黒海やバルト海にソ連軍を押し留めておくことは可能と判断していた。

 ドイツ海軍は、国際連盟に復帰した後は使い道の無い潜水艦隊を講和条約で全廃させられていたが、水上艦も保有を認められたのは小型の駆逐艦や哨戒艇を中核とした警備部隊に限られていた。僅かにドイツに残された大西洋に面する海岸を警戒するならその程度で十分だったのだ。


 その一方でプリンツ・オイゲン他の大型艦は稼働状態に無いものを含めて賠償艦として国際連盟加盟国に引き渡されていた。ドイツと国際連盟軍は講和条約を締結したという形であったが、ドイツ海軍に関しては完全に敗戦国の扱いを受けていたのだ。

 そのうち日本海軍に引き渡されていたのがプリンツ・オイゲンだったが、村松中佐が欧州から帰国する頃はまだ最終的な取り扱いは決定しておらずに技術調査が行われている最中だったはずだ。



 だが、概してプリンツ・オイゲンに対する日本海軍の関心は薄かった。大戦中の経緯からドイツ海軍の技術が予想したよりも低い事がわかっていたからだ。

 ドイツ陸空軍の噴進弾や噴進エンジン、それに潜水艦隊の先進的な技術を盛り込んだ新型潜水艦といったドイツの新兵器群と比べるとドイツ海軍水上艦の技術力は既存のものに過ぎなかったのだ。

 高角砲や高射装置は船体部の動揺を低減する安定化装置の上に置かれていたことが技術的な特徴となっていたが、それも実際には複雑すぎて所定の性能を発揮していない上に重量が大きすぎて実用性は低かった。装置単体では十分研究に値するとされていたが、兵器としての完成度は低いのではないか。


 プリンツ・オイゲンの主砲はそれなりに高く評価されていた。射撃試験の計測結果からも列強諸国の同級砲と同等という評価が記載された書類を村松中佐も閲覧していた。特に初速が高く近距離では日本海軍の20.3センチ砲を上回る場合もあるらしい。

 その一方で船体設計の評価は芳しくなかった。排水量が過大な割に装甲厚は戦前に想定されていたものよりも低かったのだ。単に日本海軍の思想とは配置が相容れないという前提が評価を押し下げている原因の一つだったのかもしれないが、それ以上に船殻重量が過大であったのだろう。


 ドイツ海軍大型艦に関するそうした評価は、実は大戦中にタラント港で鹵獲されていた戦艦テルピッツの調査時から上がっていた。ドイツ海軍の大型戦闘艦は昨今の列強で定番となっていた集中防御思想とは異なり、主砲塔や船体重要部の装甲が控えめである代わりに装甲が施された箇所が広かったのだ。

 大雑把に言えば、ドイツ海軍の大型艦は主砲塔を撃ち抜かれて早期に戦闘力を喪失してしまう可能性が高い一方で、船体部の防御が充実しているために沈みにくいと言うことになるのではないか。



 だが、これは列強諸国海軍の主流からすると時代遅れの設計思想と言わざるを得なかった。兵装の大威力化が進んでいた為に万遍なく防御を施せば際限なく重量が嵩むからだ。

 兵器の大威力化は単に大砲が大口径になるという事だけを示している訳ではなかった。射撃指揮の技術が発達、洗練されていく事で可能となった長距離射撃の場合は着弾時の落角が大きくなるから、第1次欧州大戦まで軽視されてきた水平面の装甲が戦間期に建造された戦艦は軒並み強化されていた。


 つまり艦艇に適切な防御を考慮する際には、本来は単体の兵器だけではなく周辺技術まで考慮しなければならなかったのだ。

 ドイツ方式の防御では、大戦中に起こったマルタ島沖海戦で確認されていたように早々に戦力を喪失してしまうから、その後の戦局に寄与できなくなるのだ。マルタ島沖からタラントまで帰還できたにも関わらず虚しく同地で鹵獲されたテルピッツの最後がその証明だったのではないか。



 いずれにせよドイツ海軍の大型艦艇に対する日本海軍の関心はそれほど高く無かった。無理に艦隊に編入しても性能面では不満足なものだったし、そもそも規格や設計思想が根本的に異なるから運用費が高く付いてしまうのだ。

 日本海軍も半世紀前には日露戦争で鹵獲したロシア海軍の戦艦を本格的に運用していた時期もあったのだが、現在の状況で僚艦のない1隻だけの重巡洋艦を運用するのは利点が少なかった。

 村松中佐が最後に聞いた話では、技術調査が終了した時点で現地で廃艦か射撃目標とするか、あるいはしばらく予備艦としてほとぼりが冷める頃にドイツ海軍に返還して恩を売るという可能性もあるという話だったはずだ。


 この半年の間に何があったのか、村松中佐が首を傾げていると舷門に誰かが近づく気配がしていた。中佐が振り返ると、慌ただしく人を連れた若手の士官が向かって来るところだった。

 だが、村松中佐の視線は本艦乗員らしい士官よりもその後ろの二人に向いていた。彼らは揃って日本人離れをした相貌であったからだった。


 ―――この艦はドイツ人を乗せたままだったのか……

 唖然として村松中佐は日本海軍の軍装を着込んだ外人を見つめていた。

八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cayakumo.html

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