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1946重巡洋艦八雲3

 急成長する技術体系に対応するために日本海軍に誕生した役職である戦術長は、中央指揮所の指揮官であると同時に、どの科からも独立した艦の指揮中枢である戦闘幹部の一人だった。

 まだ本格的に定数表に戦術長が加えられた艦はなかったが、今後戦術長が追加して配置される艦では艦長、副長に次ぐ立場になるのではないか。場合によっては艦長の権限を移譲されて戦闘中の指揮をとることもあるからだ。


 管轄する中央指揮所と同様に取ってつけたような名称となったのは、実際に艦長を補佐して純粋に戦術的な判断を行うことが期待されていたからだが、同時に科長ではなく艦内の分隊からは外れているから新たな名称をつけなければならなかったせいでもあった。

 だから艦内の配置に戦術長が追加されることがあっても、今の所は戦術長を補佐する中央指揮所配置の士官として各科から独立した戦術士という配置は存在していないし、あっても通信科内で電測士とでも呼ばれる事になるのではないか。



 ただし、戦術長という役職に関して実際には海軍省内部でどのように評価されているかは村松中佐も分からなかった。人事局などでは中堅士官の人材プールとでも考えているだけかもしれなかった。

 副長から先任分隊長の間に挟まることになるだろう戦術長の階級は大型艦であれば少佐から中佐あたりにあるはずだが、この階級はこれから先急速にポストが減少していくだろう駆逐艦長に相当することになる。

 海軍省では予備役艦となる駆逐艦から降ろされた中、少佐を大型艦の戦術長に送り込むことで、将来における大型艦艦長や将官の候補となるだろう中堅士官の数を今後の軍縮でも減らさないように目論んでいるのではないか。


 何れにせよ中央指揮所という概念自体が大戦の影響で誕生したばかりのものであるのだから、戦術長という役職を設けたことがこれから先どのように評価されるかは村松中佐のような戦術長を拝命した人間に懸かっているのではないか。

 そう思うと村松中佐は柄にもなく身が引き締まる思いを抱いていた。



 大神工廠の管理棟の前でタクシーから降りると、村松中佐は懐から辞令を取り出していた。何度見ても重巡洋艦八雲の副長兼戦術長に任ずるという文句は変わらなかった。

 やはり違和感があった。副長兼戦術長という与えられる役職そのものは容易に受け入れられるものだった。村松中佐はすでに重巡洋艦の通信長を経験しているから、巡洋艦の副長に任命されるのは不自然ではなかったからだ。


 それに副長と戦術長の兼任というのも、新たな役職をいきなり独立して与えるのではなくまずは既存の役職である副長と兼任という形であれば戦術長という役職に慣れていない乗員達にも分かりやすい形になるはずだった。

 そこまで海軍が細やかな人事を考慮しているとも思えないが、実験的に戦術長という制度の利点を確かめたいのであればおかしくはないだろう。

 そう考えると同格の重巡洋艦の通信長を経験している村松中佐は戦術長という役職に打って付けの人材だったのかもしれなかった。海軍省で制度改変に伴う書類を処理していたときには自分では全く思い至らなかったのが不思議なほどだった。


 それでも辞令の不自然さは残っていた。そもそも昇進から間もない村松中佐が重巡洋艦の副長にいきなり任命されるというのはおかしいのではないか。大戦の終結によって予備艦や修理艦となる艦が多かったから、海軍省などでの事務仕事についているものを除いても佐官の数はむしろ余っているはずだった。

 普通なら重巡洋艦のような大型艦であれば砲術長か航海長あたりであれば古参の中佐が居てもおかしくはないのだ。そうした科長よりも村松中佐の方が先任になるとは思えなかったのだ。



 それ以前に、村松中佐には八雲という重巡洋艦そのものに心当たりがなかった。

 八雲という名前だけは記憶にあった。半世紀前の日露戦争の頃に就役した装甲巡洋艦だった。就役時は有力な戦闘艦であり赫奕たる戦果も上げていたが、装甲巡洋艦という艦種ごと陳腐化して久しいから晩年は巡洋艦から海防艦に艦種を変更して練習艦や宿泊艦などの2線級任務に就いていた筈だった。

 それに装甲巡洋艦として就役していた八雲は何年も前に廃艦とされていた。軍縮条約の改定で日本海軍の保有枠が拡大された事による整理だったから、もう10年近く前のことになるのではないか。


 そうなるとこの八雲というのは先代の名前を受け継いで新たに艦隊に編入された新造艦となる筈だが、村松中佐にはやはり聞き覚えがない艦名だった。

 確かに再度の欧州大戦勃発に前後して日本海軍では防諜体制が強化されていたものだから部内の人間に与えられる情報も限られていたが、重巡洋艦のような大型艦の就役を完全に軍内部にまで秘匿するのは難しいのではないか。

 しかも村松中佐はつい最近まで軍政の中枢である海軍省に勤務していたのだから、新造艦の名前くらいは聞こえてきそうなものだった。



 さらに言えば八雲という名称は今では艦種ごとの命名基準からも外れていた。日本海軍では一等巡洋艦、重巡洋艦は山岳名から、二等巡洋艦、軽巡洋艦であれば河川名から命名されていた。

 実際のところ巡洋艦の種別が規定されたのは、軍縮条約の条文に細かな制約が定められて艦種が固定されてからのことなのだが、1万トン級の大型軽巡洋艦となった最上型や、軍縮条約の巡洋艦規定を大きく越えてしまった石鎚型でも、命名基準に従って命名されていた。


 現行建造されている重巡洋艦は、軍縮条約下で最後に建造された伊吹型よりも格段に大型化していた石鎚型だった。軍縮条約の制限がなくなったことから本当に日本海軍が巡洋艦に要求する性能を盛り込んだことで従来の重巡洋艦よりも排水量が増大していたのだ。

 だが、軍縮条約の無効化後に建造が開始されたものだから、地中海戦線の終盤でようやく1番艦が戦力化された石鎚型重巡洋艦の建造は、初期の建造計画よりも遅れていた。

 ドイツ潜水艦隊の脅威が大きかった大戦中盤は、船団護衛部隊の拡充や船団を構成する戦時標準規格船そのものの建造に日本本土の造船能力が費やされていたからだ。


 米国は第二次欧州大戦においても中立を保っていたが、その一方で米国海軍は軍縮条約が無効化された後に大型重巡洋艦、軽巡洋艦の大量建造を行っていた。

 日本海軍の新鋭重巡洋艦である石鎚型もこれに対抗するために欧州で戦火が収まった後も建造が進められていたが、その中に命名基準から外れた八雲という艦はなかったはずだった。



 工廠の管理棟でも村松中佐の疑問は解けなかった。管理棟で事務を行う職員も重巡洋艦八雲の詳細を知らなかったからだ。室内で作業をしていた何人かの古参らしい下士官は顔を見合わせて意味有りげな表情を浮かべていたが、中佐に対応したまだ若い士官は何も知らない様子だった。

 それでも八雲が工廠の外れにある桟橋に係留されているらしい事は分かっていた。一応は艤装作業用の桟橋であったのだが、係留中の艦船が無いときは油槽船や貨物船から部材を荷卸する際にも使われるらしい。


 あまり良い扱いをされていなさそうな艦の様子に村松中佐は眉をひそめていたが、こういうことには慣れているのか総務部勤務の士官は愛想よく案内の下士官と乗用車を用意すると言った

 村松中佐もつられたように曖昧に笑みを浮かべていたが、案内はともかく乗用車まで出してもらうのは過剰だった。それよりも長距離列車を乗り継いで来たものだから、少しは歩いておきたいとも思っていたのだ。

 だが、村松中佐が穏便に断る前に手回し良く車が総務部の前に用意されていた。そして困惑したままの中佐を乗せると滑り出すように乗用車が走り始めていた。


 工廠総務部が用意したのは、陸軍が制式採用した九五式小型乗用車だった。元々は側車の代替として偵察、連絡用の車両として要求されていたものだから、車格の割に搭載量が不足する一方で、四輪駆動による不整地走行能力は高かった。

 搭載量を除けば使い勝手の良い連絡車両だったから、偵察部隊だけではなく大戦によって戦域が拡大する一方の海陸軍内では便利に使われていた。工廠でも連絡用に使用しているらしい。


 不整地での偵察行動も考慮して開発されていたためか、特に大戦中に生産された型式では九五式小型乗用車の足回りは強固なものになってはいたが、それにしても無骨な軍用車の割には先程まで乗っていたタクシーよりも滑らかな走りだった。

 ただし乗用車の走行性能が優れていたわけではなかった。戦時中に建造されたと言う割には、大神工廠の敷地内には縦横にコンクリートを多用した高規格で舗装された道路が設けられていたのだ。



 工廠内の道路を行き交う車輌は意外なほど多かった。もちろん走行しているのは大半が乗用車ではなかった。

 大都市でなくとも最近では市中で見かけることも少なくない汎用型の自動貨車に加えて、重量のある資機材を載せた架台を引く牽引車の姿もあった。自動貨車でも構内の運用に限定しているのか番号標の付いていない車輌も多いようだ。貨物の移動量は構内移動だけでも相当あるのだろう

 村松中佐を乗せた乗用車は様々な自動貨車を避けながら走っていた。工廠内部では人間を乗せた乗用車よりも部材を運ぶ自動貨車や作業機械を移動させる方が優先されるのだ。人間の移動を遅らせるよりも機械を遅らせる方が工廠全体の作業効率が悪化するという考えなのだろう。


 遠目では総務部を出てからも随分と道路の間に建屋が多いように見えたのだが、それは中佐の誤解だった。

 あまりに大きいものだから建屋のように見えたのだが、実際にはそれらは建造中の船体の一部であるブロック構造だったのだ。中には実際に建屋の様に起重機付きの天井が被さって作業中のブロックもあるようだった。


 戦時中に建造が進められた大神工廠では完全にブロック工法が取り入れられていた。船殻の一部を切り分けて作業をすすめるブロック工法は、言い換えれば先行艤装が進むということでもあるから、もしかすると艤装作業用の桟橋が多用されないのはそれが理由だったのかもしれなかった。

 つまりブロック工法の場合は長々と進水後の艤装を行う必要がないのだ。


 舗装された平地で建造されたブロックを後から船渠内で組み上げていくブロック工法は、開戦前から計画されていた戦時標準規格船で本格的に導入されていたものだったが、古豪の造船所程ブロック工法の取り入れは中途半端なものに留まっていた。

 造船所側の意識だけの問題ではなかった。これはある意味で中央指揮所と同じ様なものだった。新たな手法に造船所の機能がついていかなかったのだ。



 船台や船渠内で一から組み上げていく従来の工法に比べると、船体をいくつかのブロックに分けて地上の工場で建造するブロック工法は効率が上がっていた。

 理由はいくつもあった。並行してブロックを建造して最後に結合していけば単価の高い船渠内の工数を抑える事ができるし、特に昨今密度が上がっている天井部の配管や配線作業もブロックの天地を反転して床面の状態で行えば作業効率が上がっていた。

 またブロック段階であれば天井のある工場内で建造することも出来るから、吹きさらしの船台工事と比べると作業環境が格段に向上させることも出来ていた。作業員の疲労度だけではなく、荒天時の塗装など従来では不可能だった悪環境でも作業をすすめることが可能だったのだ。

 むしろそのように極限まで建造効率を上げて連続建造を行わなければ、ドイツ潜水艦隊による損害を跳ね除けて欧州航路を維持するだけの船腹量を維持できなかったというべきなのだろう。


 ただし、ブロック工法を取り入れても急に建造量が増大するわけではなかった。というよりも効率の上がり方に幅があったのだ。

 従来型の建造法の場合は、極端に言えば飯場と船台さえあれば造船所として成り立っていたのだが、ブロック工法の場合はブロック自体の製造や艤装作業、更には巨大なブロックを移動させる為に広大な面積が造船所の敷地に要求されていた。


 ―――今後は大神工廠のように大資本で建設された巨大な造船所が増えていくのだろうか……

 周囲の光景を見ながら村松中佐はそう考えていた。

石鎚型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/caisiduti.html

伊吹型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/caibuki.html

戦時標準規格船の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji2.html

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[良い点] いつも楽しく読ませて頂いております。ありがとうございます。 [気になる点] 戦術長というのは,現在の海上自衛隊における船務長,本来であれば戦務長に当たると思います。CICのボスとして艦長を…
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