1946重巡洋艦八雲2
第一次欧州大戦は、航空機や潜水艦といったそれまで実験的な段階にとどまっていた新兵器が組織的に投入された初めての戦争だった。
そうした派手な新兵器と比べると、第二次欧州大戦で同様の位置付けにある新兵器とも言える数々の電子兵装は、些か見栄えの点で見劣りするのは否めなかった。
しかし、当初華奢な空中線の構造から花魁の簪と呼ばれたり、出力された電磁波を遠距離から探知されることから闇夜に提灯などと嫌悪されていた電探を始めとする電子兵装は、大戦期間中に長足の進化を遂げていた。
性能面での進化はもちろんだが、周囲の環境も変化していた。例えば、艦載型同様に空中線がむき出しとなっていた航空機用の電探は、新鋭機であれば空中線を囲む樹脂製の覆いが設けられるようになって空気抵抗の削減に寄与していた。
電子兵装の空中線だけではなく、電源や表示面、周辺機材などに関する研究が包括的に実施されるようになったために戦場での実績が積み重ねられてきたのだ。
だが、電子兵装の機材としての性能面が充実する一方で、運用面においては整備が十分になされていなかった。未だ個人芸と指揮官の個人的な理解に頼っていたとも言える。
大戦中には、何隻かの艦艇に電子兵装や各種見張りからの情報を集約する中央指揮所が設けられていた。当初は単に指揮所とだけ呼ばれていた場所は、元々は陸上の司令部を模倣したものだった。
電探を駆使した戦闘が大規模に行われた嚆矢は大戦序盤に繰り広げられていた英国本土防空戦だった。大挙して侵攻するドイツ空軍機に対して、英国空軍は適切とは言い難かった軍管区の区割りや縄張り争い、高級指揮官層の戦術理論の衝突など様々な理由から前線の防空戦力に不足を来していた。
ところが、寡兵であった英国空軍は防空司令部の高い能力によって、その戦力を効率よく運用して防空戦闘を有利に導いていたのだ。
当時の英国空軍防空司令部では、英国各地から送られてくる自軍航空部隊の状況や各種監視哨などから送られてくる情報を一元的に管理して指揮官に提供する画期的な体制が取られていた。
中央指揮所は、英国本土に派遣されていた義勇軍部隊経由で日本海軍が知り得たこの防空司令部の機能を水上艦に取り入れるための機構であると言っても良かった。
初めて日本海軍で指揮所が設けられたのは正規の戦闘艦では無かった。建造中の豪華客船から改装された特設巡洋艦興国丸に各種電探や大出力発電機等と共に大規模な指揮所が設けられていたのだ。
錯綜する対潜戦闘を図示化して船団護衛部隊の指揮官に提供する為に指揮所が取り入れられたということだったが、実際にはアフリカ経由の南米航路という長距離航路に投入される大型貨客船の広大な船室でないと指揮所を収容できないと当時は判断されていたからではないか。
戦時中に運行されていた船団とその護衛部隊の数からして、すべての船団に広大な指揮所を設けた大型艦を旗艦に充当させることが出来るとは村松中佐にも思えなかったからだ。
特設巡洋艦興国丸で指揮所が設けられた空間は、元設計の配置図で通常の船室が配置された空間では無かった。村松中佐は豪華客船などには縁がなかったから詳しくは知らないが、上部構造物の更に上階にあった空間は、元々上級客向けの食堂や講堂といった饗応に使用する為の共用空間であったらしい。
そこにさらに隣接する船室分を加えた空間に設けられたのが日本海軍初の指揮所だった。
興国丸でここまで指揮所が肥大化したのは、当時の日本海軍は技術や戦訓の蓄積が十分ではなかったために、英国空軍が陸上に置いた施設を忠実に模倣しようとしていたからだった。
指揮所の側壁などには電探表示面や通信機などが操作員と共に配置されていたのだが、室内の中央には多くの伝令と共に巨大な海図盤が置かれていた。正確には海図盤では無いのだが、興国丸自体を中心にして海図盤の上で各種模型が伝令の手で操作されていた。
つまり電探や無線、見張り員からの情報を集約して兵棋演習の様に現実を再現されていたのだ。
だが、実際にはそこまで現実を写実的に再現する必要は無かった。というよりも装置が巨大すぎて各種兵装や機材を所狭しと詰め込んだ戦闘艦にそのままの形では指揮所を取り入れる事が出来なかったのだ。
模型を用いた巨大な海図盤は、透明な樹脂板に反対側から書き込みがなされる態勢表示板によって代替されており、これであれば大型駆逐艦程度でも初期設計から盛り込めば指揮所の増設は可能のはずだった。
実は、電探や無線機からの情報を集約するという機能面に限れば、興国丸のような本格的な指揮所が設けられる前に先進的な考えを持ち合わせた指揮官達によって現在の指揮所に近い試みを行おうという動きがあった。
村松中佐が以前に通信長を務めていた重巡洋艦鳥海においても、通信指揮所に開戦に前後して増設されていた電探などの情報を集約して総合的に状況を把握しようとする試みがなされていたのだが、そこには態勢表示板すらなく汎用の機材を流用して手探りで作業を行っていたのだ。
いわば完全版とも言える興国丸のものを原型としてこれを簡略化する形で実用化され始めていた中央指揮所は、すでに一部戦艦など主力艦でも改装工事の際に増設されていたから日本海軍でも一定の信頼と実績を得ていると言えた。
その一方で現在の指揮所の機能は、必ずしも運用者側を完全に満足させるようなものではなかった。
例えば、態勢表示板にせよ海図盤を用いるにせよ情報の更新は人力に頼っていた。対空戦闘などの錯綜した環境で盛んにこれを更新しようとすると、情報の集約と更新に膨大な労力が必要となって破綻してしまうのだ。
結局、人力装填で連続射撃を行う時のように継続的な運用を行うのであれば更新速度を下げなければならないのだが、やはり戦闘局面によっては戦況の変化に更新速度が追いつかなくなって情報を集約する中央指揮所の意味そのものが無くなってしまうのだ。
だが、機能面での問題の影で、本質的な矛盾が生じていた。それは指揮権の問題だった。
中央指揮所はこれまでの日本海軍にとって全く未知の施設だったから、その指揮官に誰を充てるかは定まっていなかった。そういった法的な問題を解決する前に実用化のほうが先行して進んでしまっていたのだ。
陸上の施設であれば大きな問題はなかった。元々迎撃部隊の指揮官に情報を提供するための施設だからだ。電探も従来の監視哨の機構に組み入れてしまえばいいのだ。
ところが、艦載電探の場合はそうもいかなかった。それ以前に電探そのものを誰が運用するのか、従来に無い装備体系であったために消極的な責任所掌の押し付け合いもあったらしい。
常識的には電波を発振する電気機器であるのだから通信科が運用するのが道理であると思うのだが、過去には通信機ではなく電探開発の源流の一つに霧中航海における衝突防止装置があったためか、航海科で運用してはどうかという意見もあったようだ。
尤も電子部品の塊である電探を装置面から見るのではなく、電波を用いた見張り装置と考えれば見張員が所属する航海科が運用する兵器となってもおかしくはなかった。
最終的には電子兵器の運用に一日の長がある通信科が運用する事になっていたのだが、従来通信科が運用する無線機や暗号などとは全く異なる体系の機器であったために大戦中に電探や関連機器の操作、補修などに関わる技術教育を専門に行う電測学校が通信学校から独立する形で設立されていた。
それで中央指揮所においても操作に関しては電測学校を修了した電測員が行う事になったのだが、問題は中央指揮所の指揮官にあった。
電探の有用性が明らかとなることで、その集中管制を行う中央指揮所もなし崩し的に実用化が進められていったのだが、電子技術の急速な進化に旧弊な組織体制は法的な面で全く追いつくことが出来なかった。
中央指揮所の統制を行う指揮官は、機器の操作を行うのが通信科員である以上は通信長がとるのが最も自然だった。
大戦中は艦長自らが中央指揮所で指揮を取ることもあったが、これは例外的な措置、というよりも艦長の個人的な判断によるものでしかなかった。本来の艦長の配置はどの艦でも艦橋と決まっているからだ。
小型で乗員も少ない駆逐艦程度の艦艇であれば、融通無碍に艦長が戦闘時に中央指揮所にいてもあまり文句は言われないだろうが、大型艦の場合は配置も厳密に守られている事が多いはずだった。
目視や他艦からの無線連絡程度がすべての情報源であった頃は、艦橋が最も情報が集約される箇所だったから艦長の配置が艦橋となるのも当然であるのだが、そのせいで中央指揮所は通信長が指揮官となっている場合が多かったのだが、厳密には配置上はこれもおかしな話だった。
本来は、戦闘や哨戒直における通信長の配置は無線通信や暗号を取り扱う通信指揮所だったから、通信科が運用するからといって中央指揮所に通信長を張り付かせるのは暗号通信の遅れなどの弊害をも招いていたのだ。
やはり電子技術の急速な発展が既存の指揮系統に強引に組み込んだことで矛盾を生じさせていた。中央指揮所に情報が集中することで状況を最も正確に把握しているはずの通信長が戦闘艦の指揮系統に直接介入することが出来ないのだ。
通信科は指揮権を有する兵科に含まれるから、村松中佐がマルタ島沖海戦時に損傷を負った鳥海の艦長代行を務めたように、艦長に代わって通信長が指揮官となる可能性はあった。
だが、通信長は艦長の下に並ぶ科長の一人でしか無いし、通信長が指揮権継承序列における上位にある艦も少なかった。艦長や副長の下は横並びとは言っても、砲術科や航海科の方が兵員数が多い分だけより上級の士官が科長に任ぜられることが多かったからだ。
昨今では通信科も電測員の分だけ将兵が増えてはいたのだが、大型艦の場合は砲術科だけで10個も分隊がある場合も珍しくないから、科長で先任となるのは砲術長となる方が自然だった。
尤も艦長の配置を中央指揮所に固定してしまうとそれはそれで別の問題が生じていた。確かに電子的な情報が集約される中央指揮所は便利な場所だった。少なくとも艦隊の指揮をとるには最適な箇所であるはずだった。
その一方で、個艦の指揮においては必ずしもあらゆる状況で中央指揮所で指揮を行う事が有利とはいえなかった。情報が集約されるといっても伝令や態勢表示板を通す形になるから、操作員の疲労を無視して更新頻度を可能な限り上げたとしても即応性には限界があるからだ。
通常の戦闘指揮においても情報を更新する操作が追いつかずに破綻する可能性もあるが、それ以外にも即応性を必要とする場合があった。出入港時や空襲時の回避行動などは、見張員による報告どころか艦長自身の目視によって微妙な操艦を連続して行わなければならないからだ。
艦長は定数表の規約に関わりなく戦闘、哨戒時の配置を自らの判断で変更出来る柔軟性が必要だったのだが、それには中央指揮所に場合によっては艦長の代役を務めることの出来る老練な指揮官が必要と考えられていた。
艦の最高指揮官である艦長が中央指揮所にいる場合の艦橋は操艦に専念することだけを考えれば航海長に指揮権を委譲出来るはずだが、艦橋の艦長に中央指揮所から適切な進言を行うには技能だけではなく権限が無ければ難しかったからだ。
村松中佐が副長と兼任することとなった戦術長は、その中央指揮所の指揮官となる日本海軍で最も新しい役職だったのだ。
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