1946重巡洋艦八雲1
―――本当にここが大神工廠の最寄り駅なのか……
目の前の掘っ立て小屋のような大神駅の駅舎を唖然とした目で見つめながらも、村松中佐はそう考えていた。中佐が降り立った駅のホームからは、日豊本線の列車が勢いよく発車していった。
まるで自分ひとりが異郷へと置き去りにされたような気分だった。村松中佐は心細くなりながらも意を決して駅舎を後にしていた。
大神駅は建設されたばかりの駅だった。元々はすれ違いや急行列車の追い抜かしの為に設けられていた信号場に旅客乗り降り用のホームと急増の駅舎を設けただけらしい。
これまで村松中佐は鎮守府と工廠が存在する横須賀や呉を訪れたことが何度もあったが、海軍関係者の乗り降り客の多さからよく整備されていた横須賀駅や呉駅と比べると大神駅の駅舎などが貧弱なのも当然だった。
ただし、現状が大神駅の完成した姿というわけではないらしい。大神工廠が新設されたことで急遽設けられた大神駅は、工廠の規模に合わせたように拡張計画が持ち上がっていたのだ。
すでに国鉄による用地買収や区画整理の段階にあるらしく、整然と並んだ駅周辺の用地には建設資材らしき荷物が置かれていた。
それに最寄り駅となっているのは大神だったが、付近には古くから温泉地としても有名な観光地である別府もあった。工廠勤務の若い士官などは料亭なども多いそちらに直接乗り付けると村松中佐が聞いたのは後になってからの事だった。
近くの大都市から乗り込んできた目敏い業者によって、駅前には駅舎の規模には到底不釣り合いな屋根付きのタクシー乗り場が設けられていた。最近では都会なら自家用車も多いが、このあたりでは業務用車を除けばまだ珍しいのではないか。
一台だけ止まっていたタクシーに乗り込んだ村間中佐は、工廠に向かう道のりの間に新築らしい家を何軒も見つけていた。自家用車を軒先に停めている家も少なくないようだし、小洒落た様式は筑豊本線の車窓から見えたこのあたりの家屋とは随分と雰囲気が違って見えていた。
村松中佐がよほど気になっているように見えたのか、タクシーの運転手が言った。
「お客さんも工廠に御用なんでしょ。この辺は新しく出来た宮原村ですよ」
タクシー運転手は村松中佐を出入りの業者か何かだと誤解したようだった。前任地の東京からは鉄道を乗り継いだ長旅だったから、村松中佐が横着して私服で来ていたからだろう。
それ以前にしばらくは海軍省付で書類仕事ばかりであったものだから、潮気も抜けてタクシー運転手には海軍軍人には見えなかったのだろう。
中佐は苦笑しかけたがすぐに首をかしげていた。海軍省付きであった頃に大神工廠の用地買収に関わる書類を閲覧したことがあったが、この辺りに宮原という名前の市町村は存在しない筈だった。
村松中佐の不思議そうな顔に気がついたのか、愛想の良い運転手が続けた。
「この辺の新しい家は皆工廠の職工さんの家ですよ。何でも前に住んでいた場所が宮原村だったそうですがね。それでこの辺も同じ名前で呼び出したんだとかききましたな。まあ以前は野原が広がっていた様な所らしいですけどねぇ」
それでようやく疑問が解けていた。どこにでもありそうな地名だったが、確か呉鎮守府の近くに宮原村だったか呉市宮原地区だったがあったはずだ。
村松中佐が地名を覚えていたのは、以前見た呉工廠の防諜体制に関わる書類に名前が出てきていたからだった。宮原から工廠が一望できることを懸念する内容だったと思うが、要所要所には工廠内部を伺えないように壁が建てられているし、住宅地も窓の配置などに制限を設けていた。
書類を見る限りでは呉工廠よりも高い位置に宮原地区があるようだったが、それ以前に明治以後に宅地化された地区の住民は大半が工廠の関係者だった。防諜に関して油断するのは危険だが、宮原地区の住民は海軍からすれば身内のようなものだったのだ。
欧州における戦雲の気配を察して計画されていた大神工廠は完全に新設の工廠だったから、班長級の職員や併設される工廠職員用の学校に勤務する技術指導者には既存の海軍工廠から要員が引き抜かれて配置されていた。
この辺りに新築のモダンな家が立ち並んでいるのも呉工廠から家族を帯同して異動して来たものたちが建てたものだからなのだろう。
タクシー運転手の話は続いていた。巨大な大神工廠が俄に出現したことは周辺地域に大きな変革を迫っていた。新たな雇用先が誕生する一方で、農地などが買収され、この運転手や工廠職員の様に他所から流入する住民も多かった。
元々の住民からすれば「宮原村」の存在はどのように映るのだろうか。そんな事を運転手の話を半ば聞き逃しながら村松中佐は考えていた。
村松中佐自身は大神に移住するわけではなかった。単に配置された艦が大神にいたというだけのことだ。
中佐の懐には辞令が入っていた。それは中佐を大神工廠に在泊中の重巡洋艦八雲の副長兼戦術長に任ずるといった内容のものだったが、辞令の文面はいくつかの疑問点を抱かざるを得ないものだった。
巡洋艦の副長という配置は不自然なものでは無かった。中佐昇進は殆ど終戦直後に行われた一斉昇進のようなものだったが、少佐の階級で過ごした年月からすると村松中佐の昇進速度はまず兵学校出としても標準的な部類だった。
それに陸上勤務の長さからするとそろそろ艦隊勤務を命じられてもおかしくはなかったのだ。
村松中佐は、先の第2次欧州大戦の中盤以降は欧州派遣の海軍部隊を統括する遣欧艦隊司令部で通信参謀として勤務していた。大戦中に何度か通信参謀職のまま実戦部隊に同行していたが、遣欧艦隊自体は実戦部隊ではなく欧州に展開する各部隊の管理を陸上から行う為の組織だった。
言ってみれば、平時においては日本本土周辺に大半が存在する日本海軍の戦力が世界中に散らばってしまったために、これを指揮する連合艦隊の機能を欧州に範囲を限って分離したようなものだったのだ。
当然のことながら遣欧艦隊が管理すべき範囲は広く、通信参謀の職務は重要だった。前線に投入される第1航空艦隊はもちろんだが、船団に随伴してアジアから欧州まで延々と航行する船団護衛部隊まで遣欧艦隊の指揮下にあるからだ。
遣欧艦隊司令部は、大戦中に現地の海陸軍の統一指揮を行う遣欧統合総軍に吸収される形になっていたが、大多数の司令部要員と共に村松中佐も総軍司令部に横滑りしていた。
むしろ遣欧統合総軍が出来てからのほうが通信部門に係る負担は大きかった。実施部隊としては大規模な総軍付きの海陸軍共同の通信部隊があったが、参謀の職務も増大していた。
終戦によって遣欧統合総軍はようやくその規模を大きく縮小させていた。通信参謀職を後任者と交代した村松中佐も久々に帰国して海軍省付きとなっていたのだ。
遣欧艦隊司令部の通信参謀を命じられる前には、村松中佐は重巡洋艦の通信長を勤めていた。つまり大型艦の科長経験者であり、その後は艦隊司令部勤務が続いていたのだから、再度艦隊勤務を命じられるとすればその配置は駆逐艦長か大型艦の副長というのが妥当な線だったのだ。
だが、艦隊の中で足軽の様に様々な任に充てられる駆逐艦は、終戦後は予備役となる艦が増えていた。特に船団護衛に投入されていた松型駆逐艦は同様の任務に就いていた海防艦と共に急速に現役を離れていた。
第1、第3艦隊の指揮下にある水雷戦隊配備の大型駆逐艦はその限りではなかったが、数の上では船団護衛部隊などに投入された中型から小型の護衛艦艇の方が多かった。
戦時中に建造された松型駆逐艦などは、量産性を考慮した構造や何よりも需要の増大から建造数は従来の駆逐艦の比ではなかったが、その一方で艦長に充当すべき中堅指揮官の不足が深刻化していた。
村松中佐自身もこの層に当たるのだが、この世代の海軍士官が海軍兵学校に入学した頃は、丁度軍縮条約の締結によって採用者が激減した時期に相当するからだ。
駆逐艦長の階級は定数表の改定が行われるたびに低下し、駆逐艦よりも小型の海防艦では大尉の階級で艦長を勤めることが珍しくもなくなっていたし、海軍兵学校出身ではない予備士官の艦長も増えていたのだ。
すでに招集を解かれた予備士官も少なくないが、大型駆逐艦の艦長職も戦時中に松型駆逐艦などで経験を積んだ生粋の水雷畑の士官が充てられる可能性が高いのではないか。
司令部勤務経験者の村松中佐のような軍中枢に近い士官よりも、兵学校の席次は低くとも実戦経験によって老練さを手に入れた駆逐艦長たちの方がふさわしい配置は少ないはずだったからだ。
日本軍は海陸軍共に終戦からわずか半年の間に著しい勢いで軍縮を進めていた。肥大化した戦時体制のままでは軍の規模が大きすぎて際限なく予算を食い尽くしてしまうからだ。
欧州に派遣されていた海陸軍の各部隊は、ドイツ東部を占領し続けているソ連を警戒するために欧州に駐留することが定められたごく一部を除いて、続々と本国に帰還していた。
招集されていた将兵は動員解除で民間に戻り、戦時編成の船団護衛部隊も次々と解隊されていた。陸軍のことはよくは知らないが、予備師団などは大半の将兵を復員させていたのではないか。
遣欧統合総軍も例外ではなかった。組織としては残されているのだが、欧州に残された部隊が少なくなっていたために司令部の規模も縮小されていたのだ。村松中佐のように後任者に交代して帰国の途についたものも多かった。
将兵は動員解除によって民間へと戻ればよいが、予備役編入された駆逐艦の行方は様々だった。
一部では予備艦を経ずに終戦直後に退役となって解体されたものもあった。戦時中は、平時に設けられていた規則に違反する状態で運用されていた艦も少なくなかったからだ。
開戦前であれば即座に船渠に入れられるような損傷であっても、戦力が逼迫しているようなときには工作艦による応急修理のみで前線に投入されることも珍しくなかった。
それどころか、大戦中盤に護衛艦艇の不足と対潜戦術、機材が未熟であった時期には船団の損害が大きかったものだから、艤装も不十分なままで就役した艦もあったほどだった。
平時であれば連合艦隊から受け取りを拒否されるような状態であっても運用されていたものが、終戦によってようやく見直すゆとりが出来たのだとも言えるだろう。
尤も多くの艦艇は一部の機器を取り外された位でそのまま保管されていた。工数を極限まで減らした戦時建造艦とはいえ、艦齢はまだ十分に残されていたからだ。
或いは改装工事の上で諸外国に売却される艦も珍しく無かった。日本製の中古船舶の需要は大きかった。欧州諸国は英国を除いて海軍艦艇どころか商船までが壊滅的な損害を被っていたからだ。
日本だけではなく、英国海軍の新造艦を含む余剰艦艇は壊滅した欧州諸国の再軍備には欠かせなかったのだ。
ドイツ潜水艦隊によって撃沈された艦船は少なくなかったが、それ以上に大量建造されていた戦時標準規格船によって日本海運業の船腹は戦前と比べて明らかに過剰になっていた。
余剰の船舶は艦艇と共に欧州諸国などに続々と売却されていた。
日本海軍艦艇が第二の人生を送る先は欧州だけでは無かった。今次大戦で新たに独立国となったアジア諸国にも需要があった。
新たに海軍を設けなければならない旧仏印のベトナムやカンボジア、それに以前からの独立国とはいえ装備の旧式化が大戦中に露呈していたタイ王国などからも引き合いがあったらしい。
乗り込んでいた艦艇が予備役に編入されるのに合わせたように下士官兵の復員も続けられていたが、士官を縮小させる動きは鈍かった。そのままではバランスの崩れた配置になってしまうはずだが、一時的にせよ現在は士官の需要のみが増えていた。
新生独立国海軍の軍事顧問団などに派遣されたものもあったが、戦時中は見送られていた海陸軍一部航空部隊の統合、すなわち空軍の創設に加えて海陸軍省の合併による兵部省の再設立といった膨大な事務作業が必要な制度の見直しが行われていたのだ。
そして、村松中佐に兼役として与えられた戦術長という配置も制度変更の結果新たに生まれたものだった。