1945中原内戦21
日本陸軍が開発した揚陸艇である大発が実戦投入されたのは、実用化からまださほど間がない時期だった。中国大陸の玄関口とも言える上海において中国共産党の武装蜂起が発生していたのだ。
だが、今回の大規模な内戦とは違って1930年代に発生した上海における武装蜂起は小規模なものだった。
当時の中国共産党は、国府軍主力が北伐にかかり切りであった時期に、現地勢力の警察権が曖昧な租界の知識人達を中心に勢力を広げていたのだが、英国情報部などの支援を受けた国民党政権が本格的な摘発を行うとその勢力が激減していた。
だからこの時は武装蜂起といっても追い詰められた中国共産党が破れかぶれに起こしたものといっても良かったのではないか。
本来であれば、これは日本陸軍が本格的に介入するような事態ではなかった。精々国府軍に派遣されていた軍事顧問団の陣容強化や兵器類の輸出増加程度で済んでいたはずだ。
その頃はまだ池部大尉も軍とは全く関わりない学生だったから報道された内容以外の詳細は知りようも無かったのだが、当時は軍の中にも派兵に慎重な意見もあったらしい。
だが、中国共産党が武装蜂起を起こした場所が各国列強の租界が集中する上海近郊であったことが政治的な圧力となっていた。最終的に租界に権益を持つ各国からの要請による租界防衛行動という形で陸戦隊の増強と陸軍の派遣が行われていたのだ。
この上海事変自体は短時間のうちに終結していた。その後も内戦自体は戦場を変えつつも続いていたが、やがて国府軍に敗れた中国共産党はソ連の支配下にあるモンゴルに逃れていた。彼らが再び戦力を蓄えて今回の内戦でその存在を顕にするには10年のもの月日が必要だった。
上海租界の防衛にあたっていた日本軍も駐留する陸戦隊を残して早々に帰還していたのだが、展開に際しては大発自体ではなく迅速な泛水作業を行う母艦が必要との認識を陸海軍に与えていた。
そうした戦訓を反映して陸軍の予算で建造されたいわば第1世代の大発母艦は、上部構造物が長大であることを除けば外観は概ね一般的な貨物船に似せていたものの、船体内部には特異な構造を有していた。
喫水線近くの船内に設けられた大発格納庫は、床面に軌条が敷かれていた。軌条の上に収容された大発は、船尾に設けられた扉から天井に設けられたワイヤーに牽引されて軌条を滑り降りるようにして迅速に泛水されるのだ。
密かに建造されていた神州丸を嚆矢とする陸軍特殊船は、今次大戦の開戦前後に行われた何度かの実戦投入で大きな成功を納めていたが、同時に限界も明らかにしていた。
確かに大発を載せた軌条は、積荷を載せたままでも迅速に泛水作業が可能だったものの、軌条という形状のせいで既存の大発に運用機材が限られるという欠点もあったのだ。
既に母船の必要な日本軍の揚陸機材は大発だけでは無かった。大発よりもより大型の揚陸艇である特大発に加えて、上陸時の火力支援に用いられる装甲艇などの多種多様な機材を輸送する必要があったのだ。
それに最近ではシベリア地方の湿地帯で運用することを前提に本来は開発されていた各種の水陸両用車輌が上陸戦闘の第一波に投入されることも増えていた。揚陸艇と違って上陸後の内陸部への浸透に置いてもそのまま投入できるからだ。
こうした揚陸艇以外の機材が増えたのは、上陸作戦における火力支援の難しさが理由となっていた。
大規模な上陸戦では、戦艦から駆逐艦まで数多くの戦闘艦が備砲の特性に従った配置で艦砲射撃を行っていたが、この中で最小の駆逐艦でも海岸線に接近するのは限度が大きかった。
日本海軍に限らずに昨今の駆逐艦は外洋航行能力を重視して大型化しているから喫水も深く、上陸作戦に適した砂浜が広がる地形では海岸線に接近し過ぎると座礁する危険性が高かったのだ。
そこで日本陸軍では、水陸両用戦車を上陸戦闘に転用するのに加えて、大発などの揚陸艇が海岸に到着する最後の瞬間まで随伴して火力支援を行う装甲艇やその拡大型である駆逐艇を建造していた。
戦車砲や大口径機関砲を30トン程度の船体に据えた同種船艇の使い勝手は予想以上に高く、河川砲艦や海軍の港湾警備艇などにも転用されていた程だった。
だが、軌条式である限り神州丸等の格納庫に搭載できる船艇は大発に限られていた。搭載艇の船底に軌条の寸法を規定されてしまうからだ。しかも厄介なことに大発であっても軌条と寸法が違って使用できない艇もあった。
汎用型の揚陸艇である大発は建造数が多かった。程よい搭載量などから使い勝手が良く需要が高かったということもあるが、戦闘によるものだけではなく座礁式という船体に与える損害が予想される方式であったために損耗分が高く見積もられていたのだろう。
その結果、日本国内で建造された分だけでも大発の製造会社は多かった。大型艦の建造には携われないような中小規模の造船所も数多く建造に参加していた上に、造船業が未熟な日本以外のアジア圏で建造された同規格船も少なくなかった。
そうした非公式に近いものを除いたとしても、正式に戦訓を反映した改設計も少なくないから、同じ大発といっても多様な型式が同時期に存在する形になってしまっていたのだ。
揚陸艇母艦に必要なのは汎用性だったが、ここで特型大発と同様に英国の技術者からの提案があった。格納庫を神州丸で採用された軌条方式ではなく、船体に設けられたバラストタンクへの注排水によって喫水線を上下させることで格納庫を海面と一体化させようというものだった。
この方式であれば搭載挺は水面と化した格納庫から自力発進する事ができるから、格納庫に収まりさえすれば軌条などの船体構造物に制約を受けることはなかった。
新たな方式を採用して改神州丸型として実用化された母艦は、外観は従来のものとさほど変わりなかったものの、実際には船体後部は浮揚式の船渠に近いものであり船内は強力な注排水用ポンプ、配管やバラストタンクが追加された結果として相応の変化があった。
就役後の浮揚式船渠方式の揚陸艇母艦は多種多様な機材を運用できる利点から重宝されたが、この方式もまた問題がないわけではなかった。軌条式と比べると巨大な船体を上下させる機構などに多くの船内容積を取られてしまったために、揚陸部隊の収容人数などが減少する傾向があったのだ。
このままでは建造された船渠式母艦は揚陸艇等の輸送に特化したものにしかならなかった。短時間の乗船程度ならばともかく、長時間多数の揚陸部隊を乗せ続けるのは無理があったのだ。
新たな問題を解決する手段はある意味で単純なものだった。揚陸艇格納庫に関わる機能を十分に満たした上で搭載量を確保しようとするのであれば船体の大型化は避けられなかったのだ。
ただし、陸軍で船舶関係を管轄する部門である船舶司令部ではこれ以上の大型船を維持管理する能力は無かった。拡大する一方の戦線に展開する雑多な船舶部隊に宇品の船舶司令部から集中して指示を行うのは現実的ではないし、それ以前に陸軍の中で船舶兵ばかりを増やしてもしょうがなかった。
何度かの会合の結果、これ以上大型化した揚陸艇母艦は海軍が輸送艦として建造して運用するという陸海軍の協定が結ばれていた。元々海軍も陸戦師団の輸送用に陸軍と同規格の特殊船を建造していたし、そもそも特殊船の嚆矢である神州丸の時点で海軍の関与があったらしい。
この協定を受けて海軍の大隅型輸送艦として建造された揚陸艇母艦は巨大なものだった。中途半端な拡大をせずに、一挙に巡洋艦並みの巨体になっていたのだ。構造的には改神州丸に類似したものだったが、船体後部の船渠構造を除けば原型となったのは潜水母艦だった。
潜水母艦は外洋に進出して潜水艦の支援に当たる艦種だったが、最近では中型潜水艦を支援する為に対空火力と母艦機能を強化した大鯨型潜水母艦が就役していた。
潜水母艦は、長期間の支援活動を行うために潜水艦乗員用の宿泊施設やある程度の潜水艦の補修作業を支援する為に充実した工作室を備えていたが、大鯨型では航続距離の短い中型潜水艦をより前線に近い海域で支援するために自衛用の対空火力も強化されていた。
戦時中の設計となった為に新たな揚陸艇母艦は建造が急がれていたから部分的にでも基礎的な設計の流用が行われていたのだろうが、その原型となったのが潜水母艦になったのは充実した船内施設や、危険な海域に躊躇いなく進出可能な自衛火力が決め手となったのだろう。
尤も対空火力は日本本土に帰還する今回の航海には必要なかった。それに海軍の輸送艦の居住区は収容される部隊の人数に合わせてある筈だから、部隊規模の割に人数の少ない戦車部隊だけならば相当に余裕があるのではないか。
少なくとも池部大尉達を当時の愛車である一式中戦車ごと北海道から輸送してきた重量物輸送用の戦時標準規格船に比べれば快適に過ごせると期待しても良いはずだった。
接近する特型大発を見ながら池部大尉はそんなことを考えていたのだが、実際には沖合の母艦にたどり着くことすら困難だった。
海岸に滑り込むように次々と座礁した特型大発は、船首扉を開けて何人かの将兵を吐き出していた。やはり彼らが池部大尉達の戦車中隊を輸送する任務を帯びていたのだ。
特型大発乗員との打ち合わせは簡単なものだった。よほど時間がないのか特型大発の乗員に急かされながら池部大尉達は四五式戦車をそろそろと特型大発に載せていた。
満潮まで時間が限られていた。理想を言えば干潮時に陸から最も遠くなる地点で座礁して荷物を積込めば、満潮時には揚陸艇の周辺を海水が満たす事になって自然と重くなった船体も浮き出して来るはずだった。
出航を急ぐのか戦車中隊を載せるのにそれほど時間はかけられないらしい。それで不規則なやり方となる満潮前に特型大発に四五式戦車を搭載して強引に離礁する方法が取られたらしい。
通常は、その原理から言っても座礁式の揚陸艇は上陸には使用されても、中身を満載して離礁することは少なかった。揚陸艇に重量級の車両を搭載する場合も設備の整った港湾部などで搭載する事のほうが多かったのだが、戦車を持ち上げることの出来る大型クレーンを備える港は限られていたのだ。
一応この海岸の満潮時の水位からすると計算上は2両の戦車を搭載した状態で離礁可能という話だった。四五式戦車を積み終えた特型大発の群れは満潮を待ち構えていたかのように盛大に主機を吹かして後進を開始していた。
だが、無事に離礁した特型大発は少なかった。乗客に過ぎない池部大尉達はぼんやりと見ていただけだったのだが、半数以上の特型大発は海面を荒らすだけでぴくりとも動かなかったのだ。
様子を伺っていた様子だった離礁した何隻かの特型大発が母艦に向かうのを見て、さすがに池部大尉達も異変に気がついていた。
計算に致命的な誤りがあったらしい。乗員達の意見を総合するとそういう結論に達していた。設計当初から特型大発は中戦車2両を上陸させる能力を要求されていた。そして設計時に想定されていた中戦車とは自重が約35トンの三式中戦車が想定されていた。
ただし、将来における余裕は十分に考慮されていたから、45トンにも自重が達する四五式戦車を搭載しても大きな問題は生じないはずだった。
ところが、戦車を抱えたままの離礁という今回の不規則な事態に際して特型大発や母艦の乗員が計算に用いた値は、三式中戦車の35トンという重量であったらしい。
軽戦車や装甲兵車よりよほど重い2両合計すると20トンという重量の差によって特型大発は陸地に乗り上げてしまったのだった。
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