表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
508/815

1945中原内戦20

 中国国内で発生した内戦に対応するために急遽行われたにも関わらず、第7師団の輸送は計画的なものだった。予め定められた計画に従って2万名近い師団の大半の将兵は困惑する間もなく整然と客船改装の兵員輸送船に乗せられていた。

 計画で定められた通りの将兵を乗せると手早く兵員輸送船は出港していった。原型が大西洋横断航路に就役していた客船である兵員輸送船は速力が高く、戦時中のように対潜哨戒や船団を構築する必要もないからインドや中東などで何度か給油のために寄港しても短時間のうちに日本本土に達するはずだった。



 このように重装備を欧州に置き捨てて殆ど将兵だけを輸送する事になったのは、経験豊富な精鋭部隊である第7師団を中国国内に急速に投入するためだった。

 勿論、将兵だけを中国に送り込むわけではなかった。日本本土で生産されたものの停戦なった欧州に送られていなかった重装備を再度装備する予定だったのだ。

 日本本土では欧州派遣部隊の補充や各国から国際連盟軍に派遣された部隊に配備するための各種装備を生産し続けていた。一部では企画院などの指導で欧州大戦終戦の気配を察して生産体制の縮小や軍需工場の民需への転換を図りつつあるらしいが、それでも積み上げられた在庫はかなりの数になるらしい。


 だが、日本陸軍の中でも第7師団は重装備の機械化部隊であったから、定数一杯まで再装備するとすればそう簡単なことではなかった。場合によっては師団の半分、1個旅団に若干の支援部隊を配属させた程度の戦力で中国国内に送り込まれる位は覚悟したほうが良いのかもしれない。

 何れにせよ重装備を日本本土で受け取ることが出来るのであれば、将兵だけを送り込めば短時間で再編成が可能なはずだった。



 だが、全ての将兵が兵員輸送船に乗せられていたわけではなかった。師団や旅団の指揮官や司令部要員は兵員輸送船よりも更に移動速度の早い輸送機で一足早く日本本土に帰国していたのだ。


 導入当初から日本陸軍の輸送機は飛行戦隊のうち整備や管制などの任務に当たる地上勤務者を乗せるために整備されていた。シベリアーロシア帝国で有事が発生した際に内地からシベリアまで航空部隊を迅速に進出させるためだった。

 それに今次大戦では人員だけではなく空中挺身部隊や重要貨物の急速輸送の為に大型の貨物輸送機までもが実用化されていた。

 昨今の日本陸軍が保有する輸送力からすれば師団司令部や通信隊等が装備する現地に置き捨てるわけには行かない重要機材や人員を日本本土まで輸送することは十分に可能だった。


 師団や旅団の司令部要員を一足先に日本に返すのは、統合参謀部などから情勢の説明を受けて中国国内で実施する作戦の研究や予想戦場となる箇所の兵用地誌の収集などを師団主力の到着前に行う為だろう。

 しかし、そうして一足先に帰国する面々がいる一方で、その逆に兵員輸送船を追いかける形で欧州を立つ部隊もあった。それが池部大尉達の戦車中隊だったのだ。



 欧州を離れる直前になって、池部大尉達の戦車中隊は原隊である戦車連隊を離れて師団司令部の直卒とされていた。

 旅団から大隊に至るこれまで中隊が所属していた指揮系統の結節点を飛び越えた独立部隊とされたわけだが、試作車輌を押し付けられた時点で彼らの行動には陸軍技術本部から派遣された技術将校も強く関与していたから、実際には現状を追認されたというだけの話だった。

 普段から中隊が生活の単位である下士官兵ではそれほど違和感がないかもしれないが、連隊将校団から切り離された若い小隊長達にしてみればたまったものではなかった。


 しかも戦車連隊の段列からも正式に切り離されてしまったものだから、これから先の整備や補給の手当など不明な点は多かった。四五式戦車の実戦投入には陸軍技術本部の意向が強く働いていたらしいが、彼らが補給の手間まで見てくれるかどうかは分からなかった。

 池部大尉にしても、大学を出たからと言って強引に幹部候補生試験を受けさせられていた自分のような陸軍生え抜きではない士官を独立部隊の指揮官に任命するなどというのはいい加減な措置としか思えなかった。


 このような措置が取られたのは、池部大尉達だけは自分たちの戦車を持ち帰る事が求められていたからだろう。要するに現行の主力である三式中戦車は日本本土に戻れば生産中の在庫があるが、実戦を経た最新の四五式戦車は貴重品ということなのではないか。



 師団の他隊から離れた池部大尉達に指定された行き先は正確には港ではなかった。師団の将兵が乗り込んでいったフランス西岸に位置する港近くの海岸に集結していたのだ。

 事情がわからなかったものだから、そのときは池部大尉達も重量級の四五式戦車を混雑する港の中に置けなかったから仮の待機場所として何もない海岸が指定されたのだろうと考えていた。


 そこは、平時の夏場であれば女子供が海水浴でもしていそうな、まず風光明媚と言っても良い場所だった。おそらくは今次大戦でもこの海岸は戦場とならなかったのだろう。

 フランスの大西洋岸は英国本土から出撃する国際連盟軍航空隊の爆撃を受けた箇所もあったし、逆に占領地帯に進出したドイツ軍の手で防護施設が築かれていた海岸もあったそうだが、ドーバー海峡から距離があるせいかこのような平和そうな海岸を狙うものはいなかったようだった。

 由良軍曹などは久々の休暇だとはしゃいでいたが、すぐに彼の顔は真っ青になっていた。



 平穏な海岸に無粋なエンジン音が響いていた。空中からではなかった。海岸に向けて航行してくる船舶があったのだ。

 池部大尉達とは全く無関係に近隣の港に向かう船ではなかった。舳先は真っ直ぐに海岸に向けられていたからだ。しかもその舳先は航行に適した形状とは言えなかった。通常の船舶とは違って、航行の為に波を切り裂くよりも別の目的で形状が決定されていたからだった。


 それは池部大尉達も見慣れた揚陸戦用機材の大発動艇だった。大発と呼称される揚陸用の船舶は海岸に自ら座礁して積荷を下ろすものだから、船首は船内とつながる道板を兼ねた板構造となっていたのだ。

 大発のそのように特異な構造は迅速な揚陸には適していたものの、純粋に船舶としてみると不条理極まりないものだった。平板を重ねただけのような船首は抵抗が大きいし、海岸に座礁した際の安定性を考慮して船底は川船のように喫水が浅く平たい構造になっていたから凌波性は著しく低かった。


 当然のことながら大発では外洋の航行は不可能だったのだが、大発を大型化したような特1号輸送艦や二等輸送艦の場合は一応の外洋航行能力を有していた。

 どちらも大発を拡大したようなものだから喫水の浅い船底の構造は平たくはなっているのだが、船首には道板を覆うように観音式の扉を用いて抵抗を削減していたのだ。


 ただし、600トン級の汎用貨物船を原型とした二等輸送艦は勿論、駆逐艦以上の排水量である特1号型輸送艦であっても航行能力の低さは単なる程度問題でしか無かった。

 池部大尉達はそのことを以前の揚陸作戦で特1号型輸送艦に詰め込まれた経験から思い知っていた。特に船酔いする質らしい由良軍曹が大発の舳先を見ただけで顔を青くしていたのはそれが原因だった。



 海岸に接近してくるのは正確に言えば大発ではなさそうだった。汎用型の揚陸艇である大発動艇ではなく、その拡大型とも言える特型大発動艇らしい。

 元々は英国で考案されていたものらしいが、英国本土では限られた生産設備を陸戦兵器や航空機に集中させるために後回しにされた揚陸戦機材は日本に生産を委託していた。

 結局、日本国内で生産するにあたって日本標準規格品への置き換えや既存大発からの設計、部品の流用といった改設計が行われた結果、大発を大型化したような外観となったと聞いていた。


 特型大発は通常の大発と比べて格段に大きな能力を有していたが、その一方で使い勝手という点では大発の方が格段に有利だった。

 元々開発段階に置いて大発は当時の陸軍主力であった八九式中戦車かその発展型ともいえる九七式中戦車と随伴する歩兵部隊を一挙に上陸させることを要求されていたのだが、今次大戦においてはその性能要求は過小なものとなっていた。

 国軍主力とされる中戦車は、歩兵支援用用の九七式から対戦車戦闘を考慮した機動戦に対応する一式中戦車に更新されていたからだ。

 高初速砲と大出力エンジンを搭載した一式中戦車は、九七式中戦車の倍以上の20トン級であったし、日本軍が参戦した当時すでに開発中であった三式中戦車は30トン級となることが既に予想されていた。



 言ってみれば戦車の大型化に取り残されていた形の大発だったが、実際には揚陸戦用の機材としては大発は未だに主力の座を保っていた。

 今次大戦で行われた上陸作戦では、揚陸第1波は殆ど大発で構成されていた。上陸が開始された時点でも海岸に陣取る防御側が火力を残していた場合は、のこのこと大型の輸送艦が接近しても良い的にしかならないからだ。


 上陸作戦における第1波は、艦砲射撃の援護のもとで、大発やそれよりも小さい小発の群れで一挙に上陸岸の広い範囲に押し寄せていた。それによって防御側の火力を分散させるのが戦訓から得られた最も効率の良い戦法だったのだ。

 揚陸直後の火力支援を行うために戦車を搭載した特型大発が上陸第1波に投入される可能性はあるが、それ以上の寸法を持つ輸送艦が揚陸作業を行うのは橋頭堡を確保して一定の安全が確保されてからになる筈だった。



 ただし、内火艇などの代わりに一部大型艦の搭載艇に使われることもあるように搭載量の大きい大発の使い勝手は良いのだが、外洋航行能力の不足は明らかだった。

 揚陸第1波に投入するにしても、上陸岸を埋め尽くすほどの量を一挙に投入しなければならないのだから母艦の存在は必要不可欠だった。


 当初大発の母艦に充当されていたのは徴用された貨物船だった。大発の自重は10トン程度でしかないから、要求性能一杯に戦車を搭載したりせずに最低限の乗員だけを乗せた空荷であれば、貨物船に装備される一般的なデリックでも海面に吊りおろしする泛水作業が出来たのだ。

 後は、貨物船に乗り込んでいた兵員は、舷側に垂らされた網や梯子などを伝って海面に降ろされた大発の艇内に乗り込む事になる。


 このやり方であれば、母艦を確保するのは容易だった。極端な話をすれば上甲板に大発を個縛さえできれば良いのだ。

 実際に今でも大規模な上陸戦ではこうした姿は日常的に見られていた。特殊な母艦が誕生した後も多数の将兵を輸送するには兵員輸送型の戦時標準規格船は必要不可欠だったからだ。



 だが、この手法には欠点も少なくなかった。予め将兵を大発の艇内に待機させる事が出来ない為に海面で待機する時間が長い上に、海面からかなりの高さのある大型貨物船の舷側を伝って海面に降りるのは危険を伴う作業だった。

 中には金槌の士官が溺れて上陸前に指揮官を失った部隊まであるという話もあった。真偽の程は定かではないが、船酔いしていた由良軍曹のみっともない姿を見たあとならありそうな話に思えていた。



 接近する特型大発の姿を無視する様にしながら、池部大尉は四五式戦車の砲塔天蓋から周囲を観察していた。探していたものはすぐに見つかっていた。水平線のすぐ近くに軍艦とも商船とも判断がつかない異様な大型船が何隻かゆっくりと航行していたのだ。


 ―――海軍の輸送艦か……随分と張り込んでいるな……

 池部大尉は渋い表情で自分達を乗せようとしているのだろう特型大発とその母艦の姿を交互に見ていた。

一〇〇式輸送機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100c.html

二式貨物輸送機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/2c.html

四五式戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/45tk.html

三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03tkm.html

大発動艇の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lvl.html

二等輸送艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji.html

特1号型輸送艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lsttoku1.html

九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97tkm.html

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ