1945中原内戦19
―――また俺達だけ貧乏くじを引いちまった……
四五式戦車の展望塔の天蓋から身を乗り出した池部大尉は、嫌そうな顔でまだ前方で燻り続けているT-34の残骸を見つめていた。
先程の戦闘では池部大尉が乗り込む中隊長車もT-34を撃破していたが、大尉自身は中隊指揮に専念していたから中隊長車の指揮は砲手の由良軍曹に任せていた。
由良軍曹は普段は軽口を叩いてばかりの男だったが、砲手としての腕は確かだった。そうでなければ自車の指揮と砲手の仕事を両立させて命中弾を出すことなど出来ないはずだった。
池部大尉が中隊指揮に専念しなければならなかったのは、敵戦車隊も同数程度の中隊規模であったからだが、同時に大尉達が戦車中隊単独で行動していたからだった。
一式装甲兵車に乗り込む機動歩兵小隊が中隊に配属されてはいたものの、池部大尉達を取り巻く環境は信頼できる歩兵部隊に乏しいものだから、彼らは出撃してきた陣地の守りに残していかざるを得なかった。
どのみち敵戦車隊と交戦した後は離脱して攻撃発起点に帰投することになっていたから、機動戦に徹する限り陣地の占領を行う歩兵は不要だった。
本来は、池部大尉達の戦車中隊は第7師団隷下の戦車第71連隊内にある中隊の一つでしかなかった。
日本陸軍でも重装備の機甲化師団である第7師団は、2個戦車連隊と同数の機動歩兵連隊を基幹戦力としていた。さらに機械化された各種支援部隊が配属された第7師団は、ソ連軍によるシベリア―ロシア帝国への大規模侵攻を想定して編制されていた日本陸軍の切り札とでも言うべき部隊だった。
今次大戦に日本帝国が参戦した際も、第7師団は重装備でありながらシベリアでの有事を想定して平時から高い即応態勢が保たれていたことから、北アフリカ派遣の第一陣として遣欧軍に配属されていた。
だが、欧州戦線の長い戦歴に比例するように第7師団の損害は大きかった。
相対的に見ると重装備故に兵員の損耗は国際連盟軍に参加した各国軍の師団の中では低い方だとはいう話だったが、最前線での苛烈な戦闘を前提に設計された重量級の戦車は、仮に戦闘がなくとも長距離を走行するだけで消耗する過酷な機械でもあった。
戦闘によるものを含めて、小規模な局地戦が連続するイタリア半島における山岳戦で消耗した装備は多かった。池部大尉達の中隊も装備していた三式中戦車の半数以上を失うほど損耗が激しく再編成が必要だった。
おそらくはそこに目をつけられたのだろう。池部大尉達の中隊は三式中戦車の補充を受ける代わりに残存する同車を返納させられていた。
しばらく後方で無為に過ごしていた池部大尉達に与えられたのは新鋭の四五式戦車だった。軍中央の考えはよく分からないが、日本陸軍は四五式以降は中戦車という括りを外して、しばらく新規生産の無い重戦車と中戦車の機能を統合することでこれからは単に戦車と呼称するつもりらしい。
だが、池部大尉達が乗り込んでいる現在の四五式戦車は種別を越えた革新的な存在とは言えなかった。中隊に配備された車輌はいわば初期生産型かそれ以前の増加試作車輌とでも言うべきものであるらしい。
四五式戦車の足回りなどの車体部にはいくつかの新技術、新発想が盛り込まれていたが、砲塔の形状は三式中戦車のそれを流用したと思われる箇所も少なく無かった。
何よりも四五式戦車の主砲は三式中戦車と同型の長砲身75ミリ砲だったのだ。
三式中戦車と同型とはいえ、長砲身75ミリ砲は現状でも十分な火力を有していた。それは目前で撃破されたT-34を見ても明らかだった。その一方で池部大尉達の前に現れたT-34は、欧州の激戦を潜り抜けた彼らからすると些か物足りない相手にも思えていた。
評価試験の延長ともいえる試作車両を押し付けられたにも関わらず、池部大尉率いる戦車中隊はチェコ国境付近で躊躇いなく対ソ戦に投入されていた。そこではT-34の85ミリ砲装備型に加えて噂のスターリン重戦車とまで交戦していたのだ。
だが、先程現れたT-34は野砲弾道の76ミリ砲を装備した今では旧式化した型式であったし、各車の動きも何処か遠慮しがちで連携も取れていなかった。その証拠に中隊の中には被弾した車両もあったが、自走が不可能になる程の損害を被ったものは無かった。
それに敵戦車隊は積極性にも欠けていた。練度は置いておくにしても何が何でもこの場所を維持するか、あるいは山東半島を東進するつもりならば1両や2両を撃破されたところで素直に撤退するとは思えなかったのだ。
この戦闘結果を見る限りでは山東半島の戦闘では新鋭の四五式戦車の能力がどうしても必要とは思えなかった。池部大尉がそんなことを考えてしまうのは、彼らが相当の無理をしてこんな所に運ばれて来たからだった。
池部大尉達の原隊である戦車第71連隊は、帰国に際して重装備の大半を欧州に置いてきていた。正確には欧州に進出していた野戦兵器廠に戦車や火砲を返納するという形をとっていたのだ。
対独戦、そしてなし崩し的に始まっていた対ソ戦が終結した後も第7師団が配属されていた遣欧統合総軍は欧州にとどまっていた。対ソ戦は停戦したのであって未だに終戦を保証する何らかの条約が結ばれたわけではなかったからだ。
第7師団も、しばらくはチェコからドイツ南部にいたる領域に布陣して欧州で待機していたのだが、中国国内で唐突に始まった内戦に対応するために急遽帰国の途に就く事になっていたのだ。
だが、師団を通常の手段で輸送していては中国の内戦が危機的な状況に陥る前に間に合わない可能性が高かったらしい。
しばらく船上にあった池部大尉達に入ってきたのは断片的な情報ばかりだったが、中華民国の政府筋から発せられる楽観的な情報とは違って、実際には満州共和国からも程近い北平までが早い段階で奪取されていたらしい。
以前は北京と呼ばれていた北平は清朝時代には首都だったというから、日本でいえば古都である京都や大阪が占領されたようなものではないか。
この風雲急を告げる事態に対応する為に第7師団の急速輸送が行われていたが、重装備師団である事がここで足を引っ張っていた。まともに重量級の装備を日本本土近くまで船舶輸送すると膨大な手間暇がかかるからだ。
何十トンもあるのは戦車だけでは無く、機械化された部隊だけに第7師団の装備には自走砲や装甲兵車も数多くあった。装甲兵車はともかく、重量級の戦車を輸送するには戦時標準規格船の中でも建造数の多い汎用形貨物船では不可能だったのだ。
船底構造やデリックの強化を行った重量物輸送用の派生型でなければ戦車を輸送することはできないが、アジア圏と欧州を結ぶ航路における輸送量全体からすると需要が低いためにこの型式の輸送船は建造数が少なかった。
汎用形と比べると、重量物輸送形は運航の効率が悪かった。大重量を支える為に強化された構造は高価な上に重量も大きくなるからだ。だから重量物輸送形の建造数を増やすことは出来なかったのだ。
それだけでは無かった。日本本土から当時改変されたばかりの新装備である一式中戦車を持ち込んだ時しか池部大尉達は乗船したことがなかったのだが、実は重量物輸送用の型式には事故が頻発していたらしい。
俄には信じ難いが、イギリスまで航行して荷卸した後に静かな港内で待機していた貨物船の船体が真っ二つに折損してしまうという事故が発生していたらしい。
汎用形でも同様の事故が起きているというから、派生型特有の構造に原因があるとは思えないらしいが、その事故でただでさえ建造数の少ない重量物輸送用の戦時標準規格船が数を減らしていたのは事実のようだ。
しかも殆ど陸軍の需要だけで建造されているようなものだから、重量物輸送用の貨物船の運行計画が空くのを待っていては日本本土周辺に師団が集結するまで何ヶ月かかるか分からなかったのだ。
ところが統合参謀部から出たらしい指示は意外なものだった。第7師団の特徴とも言える重装備すべてを現地の兵器廠に返納しろというのだ。
第7師団隷下の戦車連隊は麾下に大隊を持つ定数表一杯の編制だったから、2個戦車連隊だけでも200両を越える三式中戦車を装備していた。実際には定数を割り込んだ隊も少なくないが、随時補充も受けていたから保有数には桁が変わるほどの減少はなかったはずだ。
戦車隊に加えて装甲兵車や自走砲まで含む数百両もの重量級車輌を押し付けられた野戦兵器廠は停戦を迎えたにも関わらず多忙を極めることになっていたが、困惑していたのは愛車を手放すことになった師団の将兵も同じだった。
もちろん三式中戦車をはじめとする重装備は現地で屑鉄にされるわけでは無かった。損傷が激しく修理不能として屑鉄にするしかない車輌もあるはずだが、それらも部品取り用に活用して野戦兵器廠では可能な限りの再整備が行われる予定だった。
再整備で新品同様になった車輌は新生ドイツ軍やチェコ軍などに売却されるという話だった。チェコ軍はドイツに併合された際に解散させられていたが、英国などのもとで戦っていた部隊が帰還するとこれを中核として新生チェコ軍が再編制されていた。
こうして新たに重装備を揃えなければならないチェコ軍などはもちろん、戦車などの生産工場を含む工業地帯が集中していた北東部をソ連に占領されたドイツも自国製の重装備の補充は難しくなっていたから、再整備された日本製装備の需要は高いらしい。
重装備を兵器廠に預けた事で個人装具以外は丸裸になってしまった第7師団の将兵達を港で待ち受けていたのは、何隻かの豪華客船だった。ただし、原型は豪華客船であっても豪華な部分は外観を除けば殆ど残されていなかったし、船体部も無粋な迷彩に塗りたくられていた。
開戦前に大洋を疾駆していた豪華客船は、単なる客船というだけではなくある意味では海軍の戦艦並みに国家の威信を背負っていた。各列強は高速で絢爛な仕様の客船を建造するだけの国力と技術力を世界に誇示することも目的として豪華客船の建造を行っていたと言ってもよいだろう。
そうした豪華客船の多くも戦時には徴用されてその姿を変えていた。日本海軍の特設空母のように原型がわからないほどに改造されたものもあったが、最低限の改造で兵員輸送船に転用されたものも少なくなかった。
平時には高価な運賃を支払うだけの余裕がある上流階級の乗客達を楽しませていたのであろう贅を尽くした装飾品は次々と撤去されて、むき出しとなった客室には多段ベッドが満載されていた。
また、多数の将兵を収容するものだから厠や給食設備なども増設されており、最大級の客船であれば1万人前後の将兵を一挙に輸送できる驚異的な能力を有していた。
戦時標準規格船の派生型の中にも兵員輸送船は含まれていた。単に効率だけを求めるのであれば戦時標準規格船を投入した方がよかったはずだ。
一隻あたりの収容人数は少ないが、戦時標準規格船は建造数も多いし客船からの改装費用を考慮せずとも建造費、運用費用は比較にもならないから、豪華客船改装船の収容人数分と数を合わせて何隻かで計算しても戦時標準規格船の方が費用的には圧倒していた。
実際に重量物輸送用の貨物船に戦車と共に乗船していた池部大尉達のような例を除いたとしても、国際連盟軍の各国将兵の大半は戦時標準規格船に乗船して欧州までやって来たのだ。
だが、豪華客船改装の兵員輸送船には他にはない強みがあった。その速力が極めて高かったのだ。第7師団の将兵が乗せられたのは英国海軍の兵員輸送船だったが、その原型となっているのは大西洋横断航路に就役していた大型客船だった。
欧州と北米を結ぶこの航路は戦前は速度競争が公式化されていたらしい。最速で航行した船には記念品だか賞だがが与えられるという話だった。
こうして速度を競っていた大型客船は巡洋艦並みの高い速力を誇っていた。しかも巡航速度が低く抑えられた軍艦とは違って、到達時間の短縮を狙って莫大な燃料を消費する代わりに大西洋横断航路に投入されるような豪華客船ともなると巡航速度も高かった。
戦時中はこの速力を利用して敵潜水艦による襲撃を無力化していた。潜水艦が仮に高速の兵員輸送船を発見できたとしても、水上航行を駆使しても側面を狙う雷撃点まで到達する前に高速で離脱することが出来るのだ。
だから旧式化した客船が一時的に所属した例を除けば、豪華客船改装の兵員輸送船は鈍足の船団に交じること無く単独航行するのが通常のやり方だった。
日本陸軍は、英国から借り受けた高速の客船を使用することで短時間で第7師団の将兵を一挙に輸送しようとしていたのだが、池部大尉達の中隊はその例外となっていた。
四五式戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/45tk.html
一式装甲兵車の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01ifv.html
三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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