1945中原内戦15
黄海沿いに北平から脱出していた戦車隊、というよりもその残滓に接触するものがあったのはそれほど前の話ではなかった。主に交信を担当していたのは戦死した大隊長だったから崔上尉には詳細はわからなかったが、最初の通信内容は山東半島方面への脱出を促すものであったらしい。
当初は北平から脱出した部隊をおびき寄せるための共産主義勢力による偽電ではないかと考えられていた。北平で国民革命軍主力を捕捉した共産主義勢力が残る戦力を分断撃破する事を狙っているのではないかと大隊長などは判断していたようだ。
逃げ場のない山東半島に残存戦力を集中させたところで後方から「蓋」をして殲滅するつもりではないかと思われていたのだ。
必ずしも大隊長が実態のない恐怖に怯懦していたと決めつける事は出来なかった。実際に北平から脱出した部隊を追尾する共産主義勢力が確認されていたからだ。
強引に鉄道を使って北平から脱出した部隊は共産主義勢力によって封鎖された主要駅で殲滅されていたし、徒歩や牛馬で密かに逃れた集団も機動力に勝るT-34と跨乗歩兵で構成された戦車隊に行く手を阻まれている間に後方から追いついてきた敵歩兵に捕捉されて無力化されていた。
北平の包囲網から何とか脱出することが出来たのは、戦車隊の様に機械化された極小数の精鋭部隊を除けば、敵部隊をすり抜けて行動出来る程の少集団、軍服を捨てて自らの才覚のみで脱走を図る兵だけだった。
だが、偽電と通信を決めつけて無視していると、国民革命軍支配地域を目指して南下していた戦車隊に直接の接触があった。
それ以前から少しばかり状況に変化が現れていた。大陸全土に向けて盛んに北平での偽りの大勝利を報じていた国民革命軍の報道が止んでいたのだが、その代わりに共産主義勢力への徹底抗戦を訴える報道が増えていた。
もちろん撤退する部隊では大都市で発行される新聞などは入手しようもないのだが、傍受したラジオ放送などの内容から国民革命軍が敵勢力を単なる匪賊の集団から明確に共産主義勢力と定義を変えてきたのが分かったのだ。
同時に上空でも動きがあった。
内戦勃発時から共産主義勢力もろくな航空戦力は確認されていなかった。ソ連も高価な航空機やその整備部隊を供与する事はできなかったのか、どうやら連絡機や近距離迎撃用の戦闘機程度しかないらしい。
尤もその点では国民革命軍も大きな事は言えなかった。戦車の場合はまだ匪賊退治に投入することも出来るが、高性能の航空機を持っていた所で統一を成し遂げたということになっている国民革命軍には使い道がなかったから優先度が低かったのだ。
やはり国民革命軍の航空隊も僅かな数の輸送機を除けば列強と比べると旧式化が著しい戦闘機隊の整備が精々だった。東北部の満州共和国では比較的機械化装備が充実しているというが、それでも空軍は戦闘機中心であったはずだ。
ところが、北平会戦が終わる頃になってから何度か大空を飛ぶ偵察機らしい姿が目撃されるようになっていた。偵察機の飛行高度は相当高いらしく、双発の大型機らしいが距離があるせいで詳細は分からなかった。
ただし、大きく伸ばされた主翼には奉天の満州共和国軍所属を示す標識が記されていたらしい。共産主義勢力の戦闘機が迎撃を行っているかどうかは分からないが、飛行高度、速度からして迎撃どころか交戦状態に持ち込むのも難しいのではないか。
国籍標識が満州共和国軍のものであったとしても、戦闘機や軽飛行機を転用した短距離偵察機ならばともかく、そんな高性能機を所詮は地方軍閥の集合体に過ぎない奉天政権が保有しているとは思えない。
供与されたか、あるいは単に国籍標識だけを書き換えられているのかは不明だが、あの高高度偵察機は日本製のものか、満州共和国軍に偽装した日本軍機そのものである可能性もあったのだ。
奉天政権は日本や英露などの傀儡政権であると国民革命軍士官達の多くが考えていたからだ。
今回の内戦では両勢力とも奉天政権の扱いは慎重になっていた。共産主義勢力は下手に手を出して2正面作戦となる事を避けていたのだろうし、国民革命軍も傀儡政権扱いしている奉天政権に参戦を要求して借りを作るのを恐れていた。
中華民国の離反を警戒した日英露などの慎重姿勢を反映して奉天政権は政治的には中華民国本国の地方政権という立場に甘んじていたが、彼らが本格的に参戦した場合、近代兵器の質と量で勝る奉天政権が完全なる独立を要求する可能性は高かった。
ただし、共産主義勢力の戦力が予想外に高かった場合はどうなるかは分からなかった。中国人にとって面子は重要だが、それで共産主義勢力に殲滅されてしまっては元も子もないのではないか。
実際、国民革命軍の上層部はあらゆる方面に支援を求めているのかもしれなかった。撤退中の部隊が反応しないのに業を煮やしたのか、直接満州共和国軍機が接触していたからだ。
周辺に滑走路などないから、難民同然でひたすら南下する戦車隊の上空を通過した航空機は通信筒をこれみよがしに戦車の前方に投下していた。これは危険な行為だった。戦車隊にとって偵察機と思われる航空機が脅威というわけではなかった。
遥か上空を通過していたという双発機と通信筒を投下した機体は全くの別物だった。こちらは日本製ながら簡易な単発偵察機だったからだ。確か九八式直協機と言う名前の航空機は、国民革命軍でも使い勝手の良い短距離偵察機として使用されていたはずだった。
単発単葉ながら固定脚で機体規模の割に異様なほど風防の大きな九八式直協機は飛行性能だけ見れば大した航空機ではなかった。
直協という名前が示すとおり陸上部隊と共に行動する機体だけに整備不良の野戦飛行場でも運用できる悍馬のような荒々しさはあるが、一線級の戦闘機や爆撃機と比べると地味だし性能諸元だけ見ればひどく劣る機体だった。
しかも、地上部隊の直近に通信筒を投下する行為は一見すると地上銃撃と動作の見分けがつかなかった。奉天軍閥時代から続く満州共和国軍の五色旗がこれ見よがしに記載されているにも関わらず、戦車隊でも練度が低い兵の一部が敵機と誤認して逃げ出したりひどいものになると銃撃を加えようとしていた。
だが、大多数の将兵が呆気にとられている間に、一航過で鮮やかに通信筒を投下し終えると、戦意のない事を示すように主翼を揺さぶりながら九八式直協機は迅速に戦車隊に機尾を見せて去っていった。
通信筒の中身は、無線の内容と同じだった。無線だけならばともかく、通信筒を投下した九八式直協機までが共産主義勢力の欺瞞とは思えなかった。国籍標識が示すとおり奉天政権の指揮下にある部隊なのではないか。
単に日本製の機体だけならば何処かで鹵獲した機体で偽装する事もできるかもしれないが、あそこまで鮮やかな操縦をやってのけるほど機体の挙動を知り尽くした熟練した搭乗員が俄作りの共産主義勢力にいるとはおもえなかった。
奉天政権を軍閥と侮る気分とは矛盾しているのだが、そのようなことにまで崔上尉達の考えが及ぶことはなかった。そして、狐につままれたような気分のまま山東半島に向かっていた戦車隊を待ち受けていたのは更に奇妙な事態だった。
いつの間にか山東半島には黄色を基調とする満州共和国軍の軍旗を掲げた部隊が上陸していた。
満州から突き出した遼東半島から黄海と渤海を分ける群島を縫うように最短距離で航行すれば山東半島までは百キロ程度でしかない。大連港から上陸に適した山東半島の港湾までの迂回した航路にしても精々二百キロというところだから、高速船なら一日で楽々と往復できるのではないか。
しかも満州共和国軍の上陸は未だに続いていた。桟橋に着岸する貨物船だけではなかった。日本製の特殊な輸送艦などは海岸に直接乗り上げて船首を開くと続々と重車両を艦内から吐き出していた。
ただし、崔上尉達の前に現れた部隊が全て満州の奉天政権が派遣したものとは思えなかった。確かに到着した崔上尉達を案内した将兵などは満州共和国軍の軍衣が馴染んでいる様子だったが、妙に真新しい装備を手にした部隊の中には軍衣は新品なのに目付きの鋭い古参兵らしいものばかりのものもあったのだ。
―――大連に駐留する日本軍、か……
崔上尉はそう考えたのだが、すぐに物事をあれこれと考えるだけの余裕はなくなっていた。
山東半島に誘導されてきた国民革命軍は崔上尉達の部隊だけではなかった。
北平から脱出してきたのは貴重な機械化部隊ばかりだったが、三々五々個人で脱出してきたようなものや、中には上海近郊からかき集められて慌ただしく編成された直後に鉄道で北上を開始していたところ、北平での敗北を受けたのか急遽山東半島に列車の行き先を変えられた部隊まであった。
概して崔上尉達戦車隊の様に装備で優遇された部隊は少なく、小銃と菅笠だけを背負った前時代的な歩兵部隊の姿もあったのだ。
装備も境遇も全く異なる部隊ばかりだったが、崔上尉達のように狐につままれたような顔をしていることだけは共通していた。
無論彼らがいつまでも放置されていたわけではなかった。集められた指揮官の前に姿を表したのは一人の将軍だった。崔上尉は名前までは覚えていなかったが、軍の重鎮の一人で蒋介石の信任厚い将官のはずだった。
だが、彼の言葉はごく短かった。蒋介石総統の特命により、奉天政権から派遣された部隊も併せてこの方面の指揮を彼がとることになったこと、集結した国民革命軍は原隊を問わずに山東軍に再編成されること、そして受領した新装備を使いこなせるよう訓練すること。精々この程度だった。
慌ただしく将官は立ち去っていたが、その理由を崔上尉が知ったのはしばらくしてからだった。彼は彼で日本軍などと政治的な折衝の予定が山積みになっていたのだ。
ある意味で崔上尉達の予想通り、国民党政権はなりふり構わず支援を日満などに求めていた。彼らがどのような条件をつけてそれに応じたのかは分からないが、表向きは援軍として山東半島に現れたのは満州共和国軍だけだった。
対外的にも仕様がない部分があった。これは内乱であって戦争ではなかった。共産主義勢力を侵略する外国軍と定義する事は何かと不都合があったのだろう。
その一方で政治的には満州共和国軍は中華民国の一地方軍だった。実質的には独立国であっても中国国内だけに通じる論理ではそうなっているのだ。だから満州共和国軍が中華民国の正規軍である国民革命軍の指揮下に入るのは国内法的には何の問題も無かった。
尤も装備面では国民革命軍と満州共和国軍には格段の差があった。指揮官不足から中尉から上尉に戦時昇進させられた崔上尉は、以前の愛車である百式砲戦車から三式中戦車に乗り換えていた。
射界が制限される固定式の戦闘室に甘んじてまで百式砲戦車が装備した砲と比べて、通常の全周旋回砲塔に備えられた三式中戦車の主砲はあまりに強力だった。適当に膂力の大きそうな兵をかき集めて追加の装填手を用意したものの、発射速度を上げると彼らも砲弾重量に苦しそうな表情を見せていたほどだ。
勿論即席の兵隊達に与えられたのは戦車だけではなかった。やはり膂力の大きいものや学の有りそうなものをかき集めて砲兵隊までが新編されていた。
砲兵隊にはやはり日本製の野砲や榴弾砲が支給されていたが、とりあえずは部隊の原型だけはあった戦車隊以上に彼らが使い物になるとは思えなかった。短時間で砲兵隊に必要な知識を教え込む事など不可能なのだ。実際には砲兵隊の指揮官や司令部は日満軍の将兵が代替わりをすることになるのではないか。
従来どおりだったのは歩兵ばかりだったが、足りない員数を補うように小銃も渡されていた。
出来上がったのは奇妙な軍隊だった。菅笠や鉄鍋を背負った伝統的とも言える古臭い兵隊達の姿の後ろに最新鋭の戦車や砲兵が控えているのだ。
国民革命軍の中には装備劣悪な軍閥の他に中央の統制に従う崔上尉達戦車隊のような西洋式軍隊もあったのだが、今回与えられた装備はそうした西洋式軍隊よりも充実しているのに、軍衣などは元のままだから余計に違和感があったのだ。
厳しい訓練の中でも次第に崔上尉の中で違和感が育っていた。
―――もしかすると、単に日本人達は内戦の枠に収めるためだけに国民革命軍を利用しているだけなのかもしれない……
それを知っても何も出来ない自分にもどかしい思いをしながらも、崔上尉は訓練に励む他なかった。初戦で戦死した大隊長の代わりに大隊長代理を命じられてからは特にそうだった。
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