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1945中原内戦14

 ―――今回の戦闘に大隊を投入したのは拙速だったのではないか……

 苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた崔上尉は、砲塔側面に巨大な破口を生じさせた目前に横たわる三式中戦車を見つめていた。



 被弾痕も生々しい三式中戦車は、先の戦闘に参加した崔上尉が乗り込んだものではなかった。展望塔付近に生じている砲塔側面の貫通孔位置からして、砲塔内部の車長席周辺はもぎ取られているはずだから、これに乗り込んでいたら今頃上尉はここにはいられなかった筈だった。

 実際、この戦車の車長は戦死していた。戦車が攻撃発起点まで後退することが出来たのは、地形の関係から被弾が砲塔に集中しており車体前部に位置する操縦手が無事だったからだ。

 尤も戦車をここまで持ってきたことで操縦手を単純に称賛することは憚られた。射撃陣地から不用意に突出したのは戦死した車長の命令かもしれないが、視界の開けた昼間の戦闘であるのに地形の把握も疎かになって不用意に側面を晒したのは操縦手の技量が未熟であったためでもあったからだ。


 その戦闘では崔上尉も自分に与えられた中隊を指揮して撃破された戦車の後方に位置していた。

 日本から供与された三式中戦車の性能は優れていた。特に備砲である長砲身75ミリ砲は高射砲を原型とするだけに初速が高く、これまで上尉が乗り込んでいた九七式中戦車の短砲身57ミリ砲とはその貫通力に雲泥の差があった。

 三式中戦車の性能を持ってすれば、相手がT-34であっても突出する必要など無かった。事前に構築されていた射撃陣地からでも、T-34の有効射程外から一方的に撃破する事が出来るはずだったのだ。


 三式中戦車の供与と同時に、日本軍はT-34の性能も示していた。詳しくは知らないが、欧州では一部でソ連軍と国際連盟軍が衝突したというから、その際にソ連軍戦車の詳細な数値が確認されていたのだろう。

 もしかすると現地に進出した日本軍によって鹵獲されたT-34もあったのかもしれなかった。


 その性能表を信じる限りでは、三式中戦車はT-34を圧倒していた。初期生産された野砲弾道の短砲身75ミリ砲搭載型三式中戦車と逆に最新鋭の85ミリ砲搭載型のT-34との戦闘ともなれば不利であるらしいが、ソ連軍も現行の85ミリ砲型を中国共産党に供与する余裕はないらしい。

 本来であれば高初速の長砲身75ミリ砲を搭載した三式中戦車であれば悠々と敵戦車を長距離から撃破できるはずだった。ところが実際には不用意に接近戦を挑んだ友軍戦車が複数撃破される醜態を晒していたのだ。



 共産主義勢力が投入してきたのは、野砲弾道の76ミリ砲を搭載する旧式化した型式のT-34だった。性能諸元を比較すれば現行型とは搭載砲の口径が僅かに増大しているだけに見えるが、実際には額面上には現れない程の戦力差が生じていた。

 最新型のT-34が装備する85ミリ砲は、三式中戦車と同じく高射砲を原型とする高初速砲だった。そのような大口径高初速砲を必要とするほどソ連軍と相対していたドイツ軍戦車の性能が高いということなのだろうが、備砲の拡大以上に砲塔は原型と比べて大型化していた。


 正確に言えば、短砲身の野砲弾道76ミリ砲が搭載されたものだとしても初期型T-34の砲塔は容積が過小であるらしい。あのように巨大な戦車の砲塔が過小というのは奇妙な話だが、実際には砲塔内部は備砲の機関部がかなりの容積を占めており、乗員は二人しか配置できなかった。

 砲手が大口径砲の砲弾を装填するには姿勢からして無理があるらしく、本来は周囲の監視と指揮に専念しなければならない車長が装填手を兼ねなければならない歪な配置となっていた。

 九七式中戦車のような砲弾重量の軽い短砲身57ミリ砲ならばともかく、野砲や高射砲級の大口径砲の装填作業を狭い車内で連続して行うのは重労働だからこれは不条理な構造と言えるのではないか。



 ただし、これは迅速な再装填が勝敗に密接に関わってくる対戦車戦闘に限った場合だった。相手が機関銃巣や塹壕といった不動目標ばかりとなる歩兵直協任務に限れば装填速度の優先順位は下がっていた。

 速度も前進する歩兵に勝る程度であればとりあえずの用は足りるし、必要なのは速度ではなく歩兵が移動できる範囲であればどこでも行ける不整地走破能力の高さだった。


 T-34は当初歩兵支援用として計画されていたというから、開発当時は装填速度の要求は低く抑えられていたのだろう。専門の装填手が増えるということはそれだけ砲塔は大型化するし、訓練された乗員の数も増えるということになるからだ。

 これに対して日本軍の中戦車は一式中戦車の時点で既に専用の装填手を設けていた。大陸中央で数に勝るソ連軍戦車と対峙する事が予想されていた為に、九七式中戦車以降の日本軍中戦車は対戦車戦闘を優先して開発されていたからだ。


 乗員の数は少ないほど無駄が省けるはずだが、三式中戦車の場合はこれは前方機銃手の廃止という形で現れていた。車体前部に配置された前方機関銃は使用機会が少ない割に車体前面に開口部を設けるために防御上の弱点となるからだ。

 強化されていく一方の敵戦車主砲に耐久するためには、開口部ができるだけ少ない分厚い一枚板の装甲板が必要だったのだ。


 多くの戦車の乗員配置では前方機銃手が無線手も兼ねているのだが、日本軍では戦闘中に無線を使用する頻度と防御力の上昇、さらには使用するのに専門技量が必要ではない扱い容易な無線機の採用といった条件を考慮して機銃手を廃止したらしい。

 おかげで車長を兼ねる崔上尉は無線を駆使した中隊と自車の指揮で多忙にさせられていたのだが、前方の防御を疎かにして車体を撃ち抜かれるよりもましと我慢するほかなかった。



 だが、どれだけ戦車の性能が優れていたところで、乗員の練度と何よりも意識が追いつかないことには宝の持ち腐れにしかならなかった。そのことを臨時編成された部隊の大隊長は理解していなかった。

 山東半島方面に脱出してきた国府軍将兵の中から、さらに九七式中戦車に乗り込んでいた乗員の数少ない生き残りを選抜して中核に再編成された部隊は、九七式中戦車とは隔絶した火力を持つ三式中戦車を与えられたものの短期間の講習ではまだ乗員がその高性能を活かせずにいた。

 乗員の練度が低かったとしても、この場合は長距離砲戦に徹底して敵戦車の撃破よりも撃退を試みるべきだったと崔上尉は考えていたのだが、実際には演習でも中々実施できない長距離砲撃で命中弾が得られないものだから、接近戦を挑むべく突出した部隊が集中射撃を受けて撃破されていたのだ。


 崔上尉は思わずため息をついていた。実は撃破された三式中戦車は臨時編成された大隊の指揮官車だった。指揮官自ら率先して突撃を敢行した大隊長は、勇気には不足していなかったかもしれないがそれは蛮勇というものだった。

 再編成された国府軍戦車大隊は初陣で指揮官を失っていたのだ。



「こいつはここでは修理出来んね。砲塔だけでも取り払って本国送りにするしかないなぁ……」

 唐突に後ろから聞こえてきた声に、一瞬崔上尉は驚いていたが、何でもないかのように装いつつ振り返っていた。

「この場で修理するのは不可能、ですか」


 思ったとおり崔上尉の背後で興味深げに撃破された三式中戦車を見ていたのは、臨時編成大隊の将兵に対して行われた促成教育で技術指導を行った日本軍の服部少佐だった。

 元々は三式中戦車の開発にも携わっていたらしく、欧州でドイツ軍などに関する技術情報の収集を行っていた最中に日本本土近くにまで呼び戻されていたという話だった。



 これも妙といえば妙な話だった。階級はさほど高くはないが、三式中戦車の開発にも携わっていたというから服部少佐は戦車隊付段列の整備士官などではなく陸軍中央の技術者、あるいは技術官僚として活躍すべき人材であるはずだった。

 どちらが立場が上だという話ではなく、服部少佐は前線の技術者というよりも研究者に近い存在だった。何故そんな人物が素人ばかりをかき集めた俄作りの大隊段列に対する技術指導などという裏方の仕事に勤しんでいるのかは分からなかった。


 そんな崔上尉の疑問に気がついた様子もなく、服部少佐は視線を三式中戦車から外すこと無く淡々とした口調でいった。

「三式中戦車の砲塔は前面と側面は一体化された鋳造構造で出来ているからね。適当な装甲板を持ってきても接合が難しいんだよ。元々溶接向けの組成じゃないから、強引に溶接しても巣の拡大や溶接不良を起こして耐衝撃性が低下するのではないかな。

 完全な修理を行うには段列ではなく本格的な野戦廠の設備が必要だが、ここにはそんなものはないからな。適当な修理をするくらいなら予備車両と交換したほうが良いだろう。

 それに、野砲弾道とはいえ3インチ級の砲弾がここまで連続して着弾する例は珍しいから資料として本国で詳細な分析を行いたいところなんだがね」


 崔上尉は眉をしかめていた。遠回しに貴重な戦車を初戦で撃破されてしまったことを服部少佐から非難されているのではないかと考えていたのだ。

 だが、服部少佐は気にした様子もなく三式中戦車に近づいて車体部分の検分にかかっていた。

「車体にも命中弾があるが、貫通は許していない。地形的に被弾時に装甲板に対する角度がついて跳弾となったのかもしれん。これは被弾した装甲板がたわんで衝撃を吸収した跡ではないかな。

 これなら操縦系統と機関部は問題ない筈だ。次は威海衛ではなく青島に入港船がある筈だから、そっちに送ってもらえんかね」

 服部少佐はそう言ったが、崔上尉は曖昧な表情を浮かべていた。大隊長を失ったものだから、誰に話を通せばよいのか分からなかったのだ。



 そもそも、山東半島に国府軍の少なくない兵力がたどり着いたこと自体が奇跡のようなものだった。

 共産主義勢力による北平包囲網は、当初はさほど厳重なものではなかった。機動力のある包囲部隊の数に対して北平から天津に至る包囲網内部の面積が広大であったからだ。

 それでも脱出できた国府軍将兵は少なかった。単純な数だけ見ればそれなりの数の将兵が脱出していたようだが、それ以上に会戦直前まで北平には多くの部隊が大陸全土から送り込まれていたから割合でいえば少数にすぎないようだ。


 ただし北平包囲網に取り残された将兵の数は分からなかった。移送に関する碌な書類も残されずに万の単位で次々と北平に部隊が送り込まれたうえに司令部が壊滅したものだから、会戦時に市内に残された兵力総数を正確に把握しているものはいなかったのではないか。

 しかも包囲網から脱出した兵の大半は離散して脱走兵となっていたから、脱出した兵の数すら数えられなかった。


 いずれにせよ、包囲網からの脱出に成功した部隊は何らかの機動力を残した部隊が多かった。強力なT-34戦車を装備するとはいえ、共産主義勢力の配置はまばらだったから、慎重に拠点をすり抜けるように機動できれば脱出の余地はあったのだ。

 崔上尉の戦車大隊もその一つだった。相次ぐ戦闘で中隊程度の戦力しか残していなかったのだが、それでも貴重な車輌に残り少ない燃料をかき集めて、更に段列の兵や愛車を失った戦車兵を鈴なりに乗せて市街地から脱出を図ったのだ。


 戦車隊は幸運だった。というよりも、彼我の戦車性能に差があるものだから共産主義勢力も崔上尉達を見逃してくれたのではないか。九七式中戦車の1両や2両を撃破するよりも包囲網を維持するほうが彼らにとっては重要だったのだ。

 そんな後ろ向きなことを考える程に北平会戦の結果は惨めなものだった。実際には包囲網は完璧なものである必要はなかった。有力な敵部隊によって交通網の結節点となる大規模鉄道駅の多くが占領されていたからだ。

 鉄道を利用して北平に乗り込んだ部隊の多くは脱出手段を奪われていたから、市街から逃げる事が出来たとしても部隊としてまとまった形で動く事は出来なかった。

 装備を捨てて、場合によっては軍服も脱ぎ捨てた将兵の姿は完全に敗残兵のそれだった。

三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03tkm.html

九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97tkm.html

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

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