1945中原内戦13
議論が続く軍司令部の幕舎で、モスクワ帰りの若い参謀が山東半島周辺が記載された地図を見つめながら言った。
「一度敵部隊への正面攻撃を避けて迂回攻撃を行ってはどうでしょうか。T-34が撃破されたのは間違いないでしょうが、国府軍にそんなことが可能な兵器が数多く残されているとは思えません。北平からここまでの追撃戦で我々は乗り捨てられた帝国主義者の戦車を多数鹵獲しているではないですか。
どんなに優秀な火砲であったとしても、北平会戦のように包囲されてしまえば殲滅を待つのみです」
若手参謀の意見に同調する声は多かった。北平会戦では賀龍将軍率いるこの軍は敵主力の拘束という包囲作戦の助攻しか担当出来なかったものだから、ここで派手な機動戦を行うことに魅力を感じているのではないか。
半ばそれに同意しつつも、生え抜きの共産党員でもある年嵩の参謀長が困惑した表情で言った。
「だが、国府軍は一体どんな手段で我が軍の戦車を撃破したというのだ。あの重戦車を正面から撃ち抜いたという話が事実なら、相当の威力を持つ火器を保有しているということだぞ……」
「国府軍が日本帝国主義者から恵んでもらった貧弱な戦車では不可能でしょうな……」
思案顔の参謀長に同調するように別のものが言ったが、若手の参謀は慎重論を一蹴していた。
「相手が機動力のある戦車や対戦車砲であると決めつけるのは早すぎるでしょう。重砲の近接射撃であれば、どんな戦車でも対抗できるものではありません。国府軍といえども重砲や野砲を多少は持ち合わせているでしょう。
確かに、我々は重装備を戦車以外ほとんど有しておりません。我らに物資は少なく、遠距離火砲で無駄弾を撃つ余裕はないからです。貧弱な敵拠点は戦車で接近して撃てば良い、それが我々の戦法です。
しかし、我々には堕落した国府軍にはない熱意と情熱があります」
若手の参謀に対する反応は、同意の声と強引な精神論にどことなく白けた表情に二分されていた。だが、参謀の声は止まらなかった。
「なるほど、確かにこの戦場の国府軍には我が戦車を撃破しうる重装備が存在するのかもしれません。しかし、どんな大威力砲でも無限の射程があるわけではない。
一方で我々は国府軍をこの狭い山東半島に押し込めつつあります。彼らの作戦は、我々をここで足止めしている間に半島の先端付近まで一気に後退して戦線を整列させることにあるのではないでしょうか。
我々はここで国府軍の策略に嵌ることなく、敵拠点に中途半端に拘泥せずに一挙に国府軍の後背を遮断しうる位置に進出すべきです。大胆な機動で鈍重な敵軍に対して主導権を握り続ける事こそ近代戦の極意であると考えます」
若手参謀の勇ましい意見に今度は多くのものが同意の声を上げていた。同時に、黙して端座し続けていた賀龍将軍に視線が向けられていた。
賀龍将軍は参謀達から問い詰めるような視線を向けられていたが、のんびりとした様子で幕舎の隅に控えていた陳に振り返っていた。今度は参謀達の戸惑ったような視線が陳に向けられていた。思わず後退りしかけた陳に賀龍将軍の大きくはないがよく響く声がかけられていた。
「従兵。どうだ、お前はどう思う。どんなことでもかまわんから言ってみろ」
若手の参謀達が険しい表情を浮かべているのに気がついたのか、むしろ陳をかばうように参謀長が戸惑ったような顔でいった。
「将軍、お戯れが過ぎますぞ」
だが、賀龍将軍は首をかしげただけだった。
「何、兵士の声を聞くのも将軍の仕事だ。何でも構わんから言ってみろ従兵」
陳は困った顔で賀龍将軍と参謀長の顔を交互に見たが、将軍の圧力に屈して頷いた嫌そうな顔の参謀長に内心でため息を付いていた。
「まず、我々の前にいるのは何なのでしょうか。何というのか……その、偵察、がいるんじゃないかと思うんですが……」
刺すような大勢の視線を浴びながら陳は慣れない様子で言ったが、若手の参謀の誰かが皮肉げな様子で返していた。
「君が北平で活躍した時のようにかね」
揶揄するような声に陳は縮こまっていたが、賀龍将軍は楽しげに言った。
「良いではないか。彼を知り、己を知れば、百戦殆からずとも言うだろう」
「孫子の教えですな。確かに現代でも通じる至言ではあります」
ほっとしたような声で参謀長が助け舟を出すように言った。ただし、そこには山賊のように粗野な男と思われている賀龍将軍が急に孫子の兵法などを持ち出してきたことへの驚きも含まれていた。
だが、論争に慣れた若い参謀達は、苦労人らしい老練な参謀長程素直ではなかった。
「今は科学万能の20世紀ですぞ。機械化された機動戦に黴の生えた孫子など通用しません。我々は同志トハチェフスキーの機動戦理論の如く即断即決で動かなければなりません」
幾人もの賛同する声に調整役の参謀長は困った顔をしていた。主流派であるソ連帰りの若手参謀の作戦案を握りつぶすことは出来ないのだが、神輿とはいえ指揮官である賀龍将軍の意見も無視はできなかった。
そんな途方にくれた参謀長に気が付かないように賀龍将軍が言った。
「機動戦と言うが、この山東半島で機動戦が行えるような無尽蔵に広い土地はあるのか。正面の敵陣を放置するとすれば、一度南下して青島方面に迂回する必要があるが、半島北部にいるこの敵部隊が左翼を広げて来たらどうする。敵陣を放置すれば国府軍は増長して自由に動くぞ」
北平の包囲網を抜け出して海岸沿いに天津から南下していた敵部隊は、山東半島の付け根の辺りで反撃を行っていたが、付け根の所でも半島を横断するには差し渡し百キロ以上もあるから、まだ膠州湾に接する南部は開放されている筈だった。
ただし、山東半島南部にまで国府軍残党が勢力を伸ばしていれば寡兵といえどもこちらの機動力は削がれるのではないか。もちろん敵陣の突破に衝撃力が削がれて北部の敵軍を包囲するのも難しくなるだろう。
若手の参謀は一瞬言葉に詰まったが、すぐに小狡そうな笑みを浮かべていた。
「我らの軍にはこうした任務にうってつけの部隊があるではありませんか。敵陣の包囲と……」
そこで一旦口を閉じると、若手参謀は陳の顔に視線を向けながら続けた。
「将軍の従兵が言う偵察には国府軍から投降した新たな同志達を投入すればよいでしょう。後は少数の督戦、もとい支援部隊さえあれば、これまでの誤った経歴を反省して真の革命に尽くす為に彼らは死力を尽くすでしょう」
若手参謀の言うとおりに賀龍将軍の配下には、本格的な包囲網が構築されるより以前に早々と北平で投降していた国府軍の捕虜達を再編成された部隊が含まれていた。
数は少なくないが、最後まで立てこもっていた部隊と違って早々と投降してきた彼らは機を見るに敏なものばかりだから、安易に不利な状況で前線に出すと再度寝返る可能性も高かった。
これまでは戦場掃除をさせるか苦力代わりに輜重部隊に配属されていたのだが、若手の参謀は彼ら恭順した兵の後ろに督戦部隊を並べて死地に向かわせようというのだろう。モンゴルから帰って来た子飼いの兵と違って、恭順した兵が消耗しても共産党中央からすれば痛くも痒くもないはずだった。
陳は僅かに嫌悪感を抱いたが、参謀達から出たのは概ね好意的な声ばかりだった。決を取るように参謀長が振り向くと、賀龍将軍もつまらなそうな顔で頷くといった。
「よかろう。それで作戦案を作っておけ。南下する機動部隊は作戦参謀が指導せよ」
それだけを言うと、賀龍将軍は議論はもう飽きたと言わんばかりの表情で立ち上がっていた。
慌てた様子の陳を従えて、のそのそと賀龍将軍は軍司令官用に徴用された民家に引き上げていた。司令部用の幕舎には意気揚々を作戦案を練る参謀達が残されていた。
すぐに外で兵士達の日常を撮影していたフリードマンが目敏く近づいてきていた。賀龍将軍は、司令部用幕舎を出た時のつまらなそうな顔のままフリードマンに言った。
「我が主力戦車部隊はすぐに南下を開始するぞ。写真家殿はどうするのだ。党からはアメリカさんには何でも見せてやれと言われているから、戦車部隊に同行したいなら便宜を図ってやっても構わんぞ。戦車砲を撃ちまくる派手な写真が撮れるんじゃないかね」
フリードマンは賀龍将軍と陳の顔を交互に見ながら訝しげにしていた。本人の言うとおりにフリードマンは語学能力が特に高かったのかいつの間にかこの辺りの方言も使いこなすようになっていたから、彼が賀龍将軍の言うことを理解できなかったわけではなさそうだった。
「将軍……と少年はどうするんですかね。どうも将軍は今回の作戦が上手く行くとは思っていないんじゃないか、そう私には思えるんですがね……」
陳は呆けた顔になっていたが、賀龍将軍は何も言わずに家に入っていた。元の家主だった地方役人はとっくに戦場となる土地から逃げ出していた。家の中に取り残された瀟洒な椅子に重々しく腰掛けると、将軍は無造作に取り出した紙巻き煙草に自分で火をつけていた。
安っぽい臭いの煙を吐き出してから、ようやく賀龍将軍は口を開いていた。
「写真家殿がここに留まるならそれはそれで構わん。何なら偵察隊について行っても構わんよ。司令部が動くとすればその結果次第だな……」
いつの間にかフリードマンも勝手に部屋の隅にあった来客用の椅子に腰掛けて煙草に火をつけていた。薄暗い室内に煙草の煙が充満して陳は一人で眉をしかめていた。
「なにか将軍には気に掛かる事があるのでは……」
突然そう言ったフリードマンに今度は賀龍将軍が思案顔になっていた。
「最近になって、はるか上空を何度も飛行機が飛んでいったのが気になる。目の良い兵によれば、飛行機には奉天の旗が描いてあったらしいが……」
「満州共和国の高高度偵察機ですか。だが、偵察機位はこれまでも確認されていたのではないですか。確か航空戦力で言えばこちらも国府軍も貧弱極まりないと聞いていますが」
ずけずけというフリードマンに賀龍将軍は苦笑していた。
「写真家殿の言うとおり、我々にもまともな戦闘機はない。だから制空権というべきものはどちらも確立できていない。実質的に鳥なき里の蝙蝠として偵察機をときたま放つのが精々だな。
それ以前に国府軍でも航空隊はエリート集団と言うやつだから、慎重に出目を見極めているはずだ。国府軍をこっ酷く叩いてしまえば、上手く行けばそっくりこちらに航空隊が寝返るという可能性もあると党中央は考えているらしい。
比較的奉天の連中は強力な航空機を持っているらしいが、これまで奴らは我々の戦いを静観していただけだ。それが日中の偵察に切り替えたのはなぜなのか……それに……」
口を閉じた賀龍将軍が深く考え込んだ様子にフリードマンは続きを促そうとしていたが、しばらくしてから将軍の口から出たのは全く違う言葉だった。
「従兵、そこにある俺の行李箱を開けてみろ」
煙に辟易しながら手持ち無沙汰にしていた陳が慌てて行李箱を開けると何冊かの本がこぼれ落ちていた。読み書きは得意ではなかったが、それでも孫子の文字が表紙に書かれていることだけは分かっていた。
ただし、兵法書の大家ということくらいは陳も聞いていたが、孫子の兵法書にしては本は薄いし小さすぎるからおそらく要約か解説本の類なのだろう。首を傾げながら陳は本を賀龍将軍に渡そうとしたが、将軍は手に取ること無くそのまま陳に本を押し付けていた。
「それは貴様が読み込んでおけ。その程度の本ぐらいは読める様に学を付けておくんだ。分からない所があれば引き継ぎをした前の従兵を捕まえて教えてもらえ」
戸惑っている様子の陳を構うことなく、賀龍将軍は誰に言うともなく続けて口を開いていた。
「毛の兄貴も劉も皆姿を消してしまった。党内の争いを見ていて思ったのだが、学があるだけでは生き延びられないらしいが、学だけでも兵隊が着いてこない。今の軍は歪だと言わざるをえんのだ。
今の俺達老兵共がいなくなった時、さてこの労働者の軍隊とやらはどうなっているかな……」
奇妙な独白にフリードマンと陳は何を言っていいのかわからずに顔を見合わせていた。