1945中原内戦12
自分がこんなところにいるのは間違っているのではないか。幕舎の隅で控える陳は、ぼんやりとそう考えながら目前で延々と言い争う男たちを眺めていた。
軍司令部の作戦会議で発言しなかったのは、同席を許されたくせに早々とつまらなそうな顔で会議から出ていったフリードマンと隅で突っ立つているだけの陳を除けば、上座の賀龍将軍だけだった。
陳が従兵として仕える事になった賀龍将軍は、元々孫文が起こした革命に参加した古参の国民革命軍軍人だった。それが孫文亡き後の国民党を現総統の蒋介石が牛耳る様になってから共産党に寝返っていたのだ。
賀龍将軍は国民革命軍の軍人というよりも、中国で初めて発生した組織的な共産党の武力蜂起を主導し、現在の工農紅軍に繋がる組織を作り上げたということで筋金入りの古参党員にも一目置かれる経歴を作り上げたと言えた。
その武装蜂起でさえ陳が生まれるよりも前のことだったのだから、賀龍将軍が古強者扱いされるのも当然のことだった。
ただし、賀龍将軍の指揮の元で行われた南昌の武装蜂起は、圧倒的な正規軍の数と質の前に短時間で鎮圧されており、戦闘に破れた将軍達は這々の体で逃げ出さざるを得なかったらしい。
それに賀龍将軍には、筋金入りの革命人という経歴から想像できるような線の細い理論家の教養人といった様子はまるで伺えなかった。陳には幕舎の中で議論を続ける参謀たちにはそのような知識人と言った印象を覚えたのだが、賀龍将軍の厳つい容貌は事前の想像を裏切るものだった。
賀龍将軍は、国民党にいた頃から軍閥を率いていたとはいえ、元々正規の軍人らしくはなかった。貧農の家に生れた将軍は、年若い頃から革命に参加していたもののその行動は軍人というよりも非正規組織の馬賊や匪賊のそれに近しいものであり、国民党の中でも主流派とは言えない軍閥の長であったのだ。
軍歴は長いものの正規の軍事教育を受けたことはないらしく、それ以前に貧農出身ではまともな学校教育でさえ受けていたとは思えなかった。
豪快な性格からしても、理論的な指揮官として後方にふんぞり返るのではなく、その指揮は最前線で兵の先頭にたって自ら銃を撃つことも厭わないというまるで古代の英傑のようなものだったのではないか。
陳に従兵を引き継いだ古参の兵士から聞いた話では、長征と呼ばれるモンゴルへの撤退行においても賀龍将軍は単に口うるさく規律を守らせるのではなく兵たちを鼓舞して彼らの中に分け入っていくことで、士気の低下を招く長期間の逃避行でも統率をはかっていたらしい。
だが、そうした軍閥の親分然としたやり方が通用するのは師長位までだった。大規模な部隊となると一人の指揮官ではいくら能力が高くとも全軍、全部隊にまで目が届かなくなるからだ。
工農紅軍では純然たる高級指揮官の数が不足していた。長征に前後する時期に党の方針を巡って党の指導者層で熾烈な派閥争いがあった為だ。親ソ派と土着派の2大派閥の争いは親ソ派の勝利という形で終わったが、その過程で数少なくない党幹部が粛清や除籍の形で表舞台から姿を消していったらしい。
だが、賀龍将軍はどちらの派閥でもなかった。というよりも政治的な事には興味がない賀龍将軍は、派閥争いには全く関与しなかったのだ。
下手をすれば両派から睨まれるか、意に反して強引に派閥に引き入れられそうなものだが、無骨な賀龍将軍は権力闘争を拒否してひたすらに兵達と共に過ごす事で苛烈な論争に加わらずに粛正の嵐をしのいでいた。
中国共産党内では親ソ派が主導権を握っていたが、彼らも賀龍将軍の存在を無視できなかった。兵たちの間で人気の高い将軍を粛清すれば数少ない戦力となった古参の兵達に広がる動揺を無視できないし、今更派閥に引き入れるには余りに彼は政治に無頓着過ぎた。
結局は党中央は賀龍将軍を一軍の司令官に据えた一方で、正規の軍事教育を受けていない将軍の配下に党に忠誠を誓った若手の参謀達ばかりを配属させていた。
軍指揮の実務は共産党の中枢とも言えるモスクワで軍事教育を受けた参謀たちに担わせて、賀龍将軍は彼らが担ぐ神輿にすればよいと考えていたのだろう。
だが、モスクワで教育を受けたといっても思考が硬直しているのか参謀達は突発的な事態には弱いらしい。それが会議の様子を傍観していた陳の印象だった。あるいは、序盤は劣勢に追い込まれていた対独戦の影響でソ連軍も近年は外様の中国人に軍事教育を施すどころではなかったのかもしれない。
実際、古参兵の中にはモンゴルに逃れていた時期にソ連軍の一員として志願する形で対独戦に従軍していたものもいるらしい。それだけ兵力不足が顕著であったのだろう。
そして陳はある意味では右往左往する参謀達よりもよほどの有名人になっていた。先の北平外縁での戦闘中に従軍写真家であるフリードマンによって撮影された一連の写真が米国の通信社に送られて世界中にばらまかれていたからだ。
労働者の党である共産党を代表するような貧農出身の若年兵が創意工夫で抑圧者達を打ち負かすという分かりやすい内容の報道記事は、重装備ではソ連軍から供与を受けた工農紅軍の方が大戦勃発で列強からの支援が途絶えていた国民革命軍を圧倒しているということや、北平市内の戦闘は国民革命軍を市街地に縛り付けておくための陽動に過ぎなかったという事実を吹き飛ばしていた。
労せずして国民革命軍から装備を鹵獲したとはいえ、分隊からはぐれた陳は勝手な行動をとったことで分隊長達から制裁を受けていたのだが、フリードマンの報道写真が出回ると隊内で冷遇されていた陳の処遇は一変していた。
陽動となった北平周辺に展開する部隊の指揮をとっていた賀龍将軍に分隊ごと呼び出された陳は、遥か雲上の人々だと思っていた将軍と直々に面会する姿をまた撮影されていたのだ。
報道写真の末尾を飾ったのは、賀龍将軍から褒美として手渡されたソ連製の煙草を厳しい顔で吸い込む陳の姿だった。よくは知らないが、この写真も世界を駆け巡っていたらしい。
実際には、陳は生まれて初めて吸う煙草の煙があまりに苦々しくてむせそうになるのを必死でこらえていただけの話だった。その後何故か労働者達からという名目で煙草の差し入れがあったのに辟易していたほどだった。
それから陳を取り巻く環境は激変した。本隊に帰還する分隊から、フリードマンと共に陳は軍司令部に残されていた。何が気に入ったのかは知らないが、賀龍将軍が陳を従兵に指名していたからだ。
そのついでのようにフリードマンにも軍司令部に同行する許可が出されていた。
将軍の世話役となるのが陳の従兵としての仕事だったが、合間に入ってくる情報量は編成表の端にあるようだった偵察隊とは桁違いだった。今のように会議の脇で控える事もあった為だ。
これは妙だった。何も口に出しはしないのだが、賀龍将軍は意図的に従兵に過ぎない陳を多くの場面に連れて回っているような気がしていた。
北平から脱出した少数の国民革命軍残党を追撃していた賀龍将軍率いる軍は、広大な範囲に展開して包囲網を構築していた為に集結と再編成に時間がかかっている主力部隊から離れて山東半島近くにまで達していた。
それまで順調に残党を追い詰めていた前衛部隊の一つに大きな損害が生じたのは昨日の事だった。歩兵部隊に随伴していたT-34戦車が相次いで撃破されていたのだ。
こんなところで唐突に軍議が行われているのはそれが原因だった。
これまでにも工農紅軍が主力とするT-34が撃破された例が無いわけではなかった。北平周辺で発生した戦闘でも何両かが擱座していた筈だった。
ただし、これ迄撃破されたT-34はいずれも余程の幸運が敵に味方していたか、念密に計画された奇襲の結果だった。国民革命軍の貧弱な戦車や対戦車砲であっても、T-34が不用意に側面を晒していた場合は討ち取られてしまうこともあったのだ。
尤も、僅か1両か2両のT-34を撃破する代償に無謀な攻撃を行った多くの敵部隊は撃破されていた。側面とはいえT-34を撃破可能な距離まで接近していた敵部隊は、一撃の後に離脱を図っていたとしても速力にも優れる後続のT-34が怒りに燃えて追撃を行えば容易に捕捉されてしまったからだ。
多くの場合は、敵戦車も対戦車部隊も投降も許されずに殲滅されていたのだ。
だからこそ、ここに来て唐突にT-34の方が一方的に撃破されたとの報告が軍司令部にまで衝撃を持って伝わっていたのだ。予期せぬ損害によほど慌てていたのか、前衛部隊では敵種別の確認も出来なかったらしい。
それでも撃破されたT-34が複数車あったのは間違い無かった。しかも最初の一撃でT-34は比較的脆弱な側面ではなく正面から分厚い傾斜装甲を撃ち抜かれていたらしい。
陳はそれを聞いて一瞬呆然としていた。陳の村にも現れたT-34は小山のように大きく、鉄牛と呼ばれていた国民革命軍の戦車よりも一段と際立った存在感を見せていたからだ。
そのT-34に対して弱点をつくのではなく、正面から打ち破る事ができるものが存在しているということが陳には想像出来なかったのだ
その一方で、落ち着いて何度か国民革命軍の戦車隊が実戦で動く姿を見た後だと、T-34自体は立派なものでも戦車兵の練度では自軍が劣っているのではないかとも陳には思えてきていた。
巨大なT-34戦車は、障害物が何もない平野などで直進する時は恐ろしいほど素早い動きを見せるのだが、市街地や丘陵地帯の曲がり角など機動を阻害するものがあると途端にぎくしゃくとして亀のように動きが遅くなるものが多かった。
工農紅軍では戦車兵は精鋭とされて優遇されているのだが、それでも練度は国民革命軍よりも劣っているようなのだ。
装甲と火力で圧倒する一方で操行装置は日本製の軽量級戦車の方がT-34よりも勝っているのかもしれないが、曲がり角で何度も切り返す様子を見ると戦車の性能以前に操縦士の思い切りが足りないような気がしていた。
これまで何両かのT-34が無防備な側面をつかれて損害を出していたのも、戦車兵達の周囲への警戒がおざなりであったからではないか。
もっとも戦車兵の練度が低いのも無理もないのかもしれなかった。賀龍将軍の従兵となってから陳は初めて知ったのだが、ソ連が中国共産党に対する本格的な兵器の援助を開始したのはごく最近のことであったらしい。
それも当然だった。ソ連はドイツの奇襲を受けてつい最近まで欧州正面で激戦を繰り広げていたからだ。多少旧式化していたところで貴重な戦車を対独戦と関係ない方面に割り振る事が出来るほどの余裕はソ連軍にも無かったのだ。
ここにきてソ連が大量の戦車を惜しげもなく中国共産党に与えたのは、彼らにしてみればそれが余剰戦力に過ぎなかったからだ。おそらくソ連軍にはT-34以上の戦車がごろごろしているのだろう。
だが、欧州では旧式化していても、中国国内ではT-34は無敵の存在だった。逆に言えば、T-34が強力であったからこそ、これまでは工農紅軍では戦車兵の質はそれほど重要ではなかったのだ。
T-34に求められていたのは数少ない為に貴重な兵士達の盾となり、さらに部隊に火力を提供する事にあった。錯綜する対戦車戦闘ではなくT-34本来の歩兵直協任務であれば複雑な動作は不要だった。極端なことを言えば前進して砲撃する事さえできれば事足りるのだ。
現在の状況は危険なものだった。工農紅軍の攻勢は、大量に供与されたT-34戦車の大火力と重装甲によって貴重な兵力を補う事で成り立っていたからだ。
陳のように周辺の村々からかき集められてきた兵隊もあったが、人口の多い北平などから兵を徴募して鍛え上げるまでは、工農紅軍の兵力は貴重なものだったのだ。