1919シベリア遡行3
「揃いましたね」
そう言うと水野大尉は、会議室を兼ねる艇長室のテーブルを片付け始めた。
通信筒の中身を広げさせようというのだろう。
しかし、伊原中尉は、通信等から手を話そうとしなかった。
片付け終わった水野大尉だけではなく、ケレンスキー大尉も、動こうとしない伊原中尉を怪訝そうな目で見ていた。
だが、彼らの視線にたぢろぐこともなく、伊原中尉がいった。
「まだ一人、国枝兵曹長が来ておりません」
水野大尉は、それを聞いても眉をしかめただけだったが、ケレンスキー大尉は一瞬、唖然とした表情になった。
直後に伊原中尉を睨みつけたが、中尉は気にもしなかった。
「兵曹長は、カッターの揚艇中か」
大賀艇長もさして気にした様子もなく尋ねた。
「乗員を手伝っていましたが、すぐにすむでしょう。出したのは一艇だけですし」
「ならすぐに来るだろう。それでは国枝兵曹長が来てから始めるとしましょうか」
後半は水野大尉に顔を向けて、大賀艇長は言った。
「下士官の同席は認められない」
ケレンスキー大尉は、険しい表情で、それだけをぶっきらぼうに言うと、顔を背けた。
伊原中尉は、ケレンスキー大尉以上に物騒な表情になっていた。
「国枝兵曹長は、自分の副官だが、陸戦小隊の次席指揮官でもある。勿論小官が指揮不能となれば、代わって国枝兵曹長が指揮をとることになる。作戦内容の説明を行うのは当然と思うが」
だが、ケレンスキー大尉はそっぽを向いたまま反論さえしようとしなかった。
すでに、今回の作戦中の行動方針は水野大尉とケレンスキー大尉が乗艦したときに説明してある。
だからここで改めて説明する必要はない。そう考えているようだった。
ここで、険悪な雰囲気を吹き払うかのように、ケレンスキー大尉と井原中尉に交互に顔を向けながら、水野大尉が乗り出してきた。
「今回の作戦行動中は、作戦会議及びそこで決定された事項、これらの情報は原則、士官にのみ情報を開示する。
これは規定の作戦方針です。勿論シベリア派遣軍の海軍代表もこれを承知しております。
この作戦は、我が帝国と、ロシア帝国、それに連合国すべての国運を左右しかねない重要なものなのです。
防諜対策としても異常と思うかもしれませんが、どうか納得していただきたい」
丁寧な口調だったが、水野大尉は、陸海軍上層部まで持ちだして有無を言わせず規定の方針を貫くつもりのようだった。
伊原中尉は、雲上の上層部まで持ち出されて嫌そうな顔になったが、大賀艇長は平然としていた。
「下士官以下に与える情報を制限するという規定の方針は、陸戦小隊長も小官も理解していますよ」
水野大尉は、それを聞くとにこやかな表情で頷いた。
ケレンスキー大尉もそっぽを向いていた顔を元に戻した。ようやくこれで話ができる、そう考えたのかもしれない。
だが、伊原中尉は、一瞬目を見開いたあと、意地悪そうな顔になった。
大賀艇長が何を言いたいのか理解していたからだ。
ほとんど言い掛かりか、詐欺に等しいような気がしていたが。
その時、艇長室の扉をノックする音が聞こえた。
大賀艇長が素早く入れというと、のっそりと熊のようにがっしりとした体格の国枝兵曹長が入ってきた。
「小隊長、揚艇作業終わりました」
それだけ言うと、国枝兵曹長は、伊原中尉の斜め後ろに立とうとした。
それを妨げるように水野大尉がいった。
「申し訳ないが、国枝兵曹長、貴官には出席資格がない。退席して待機してもらいたい」
国枝兵曹長は、怪訝そうな顔で水野大尉を一瞥してから、伊原中尉に顔を向けた。
陸軍の士官から命令されるいわれはないから、これは要請でしかない。だとすれば直属上官の伊原中尉がなにか言うだろうと思ったのだろう。
だが、伊原中尉はニヤリと水野大尉に笑みを見せたが、無言のままだった。
その代わりに、大賀艇長が口を開いた。
「構わん、陸戦隊副官が退席する必要はない。
陸軍のことはよくわかりませんが、海軍では、兵曹長は特務士官にあたります。
つまり、国枝兵曹長は下士官以上の位なのだから、作戦会議に出席する資格を有しています」
にこやかな顔の大賀艇長に、水野大尉は呆気に取られた顔になったが、すぐに苦笑いを返した。
実際には伊原中尉が、副官である国枝兵曹長に作戦会議の内容を説明してしまえば一緒なのだから、水野大尉自身には、出席者の制限にたいしたこだわりは無いのだろう。
ただ、杓子定規なケレンスキー大尉の手前言わざるを得なかったのではないのか。
国枝兵曹長は、事情がよく飲み込めない様子だったが、伊原中尉が、頷くのを見て、押し黙ると中尉の後ろについた。
ケレンスキー大尉一人が、忌々しそうな目で国枝兵曹長を睨みつけていたが、歴戦の陸戦下士官がその程度の視線でたじろぐことなどありえなかった。
伊原中尉は、何事もなかったかのように、通信筒から中身の紙を取り出すと手早く卓上に広げた。
通信筒に詰められていたのは、ところどころに鉛筆書きのある一枚の地図だった。
伊原中尉は、最初に意外なほど丁寧な鉛筆書きに感心していた。
おそらく、この地図上の書き込みは、機上での作業となったはずだ。
飛行機に搭載できるサイズと重量の無線機は、未だ空想のものでしか無いから、上空からの偵察による情報を、手早く陸上の部隊に知らせるためには、それが一番簡単で、確実な方法だった。
だが、そのために専用の機材が開発されたわけではないから、せいぜい画板に紙を固定するくらいではないのか。
それならば、手早く殴り書きのようになっても不思議はないが、この地図の書き込みは、殴り書きとは思えないほど丁寧だった。
単に字が上手い下手だというのではない、閲覧者の事を第一に考えた搭乗員の丁寧さが感じられるのだ。
あるいは、これまでの経験から、飛行機による偵察能力を地上部隊に伝達するためには、そのように丁寧に書かないと信用されないと思っているのかもしれない。
だが、伊原中尉がこのような事を考えていられたのは、ごく短時間のことだった。
伊原中尉だけではなく、艇長室に集まった全員が、食い入る様に地図に見入っていた。
それだけ価値のある地図だった。
地図と、搭乗員のものらしき書き込みを加えれば周囲の状況が手に取るようにわかるのだ。
勿論、搭乗員が目撃できなった情報を得る手段はないから、航空偵察のみを情報源とするのは危険だった。
しかし、人口密度の低いシベリアでは、大部隊を飲み込む市街地がないから、少なくともある程度以上の規模の部隊が分散せずに移動していれば、搭乗員が観測できる可能性は高かった。
やけに正確な地図だった。
少なくとも、シベリアへの出動前に本土で受領したアムール川の河川図よりもは、ずっと正確だった。
本来、不知火と陽炎はニコライエフスク周辺で行動するはずだったから、河口域はともかく、こんな上流域の地図が必要となるのはずっと先のことだと思われていたからだ。
ハバロフスクでの短期間の補給でも、現地の地図を派遣軍司令部から入手することは出来なかった。
幸いなことに、まだそんな事態には陥っていないが、更に上流に遡行していけば、本流と支流を取り違えて駆逐艦二隻が迷子になることも考えられた。
だが、この地図は、不知火が航行できそうもない細い支流まで記載されていた。
さすがに水深は不明だが、これがあれば迷子になることだけは避けられるのではないのか。
その支流の中でも、比較的大きなものの中州に、目印が付けられていた。
それが「目標」とロシア人部隊なのだろう。
中洲はシベリア鉄道のからそれほど離れていなかった。
おそらく、シベリア鉄道から降り立ったロシア人部隊は、防御に適したそこまで移動したのではないのか。
周辺の地形を見るかぎり、アムール川を遡行する艦艇と連絡が付きそうな地形で、ここは最も防御に適した地点だった。
反対岸からは、小銃の射程外となるし、中洲への渡河点さえ抑えてしまえば、相当の大部隊でもない限り突破は難しそうだった。
だが、地図上で気になる点は他にもあった。
シベリア鉄道と、その中州の中間地点ほども印が付けられていた。
そこでは、かなりの兵力が移動しているらしかった。
印のすぐ下に、移動方向と、予想敵戦力が記載されている。
それを見るなり、伊原中尉は絶句していた。
この記述を信じるならば、この地点で移動しているのは、日本軍の基準で言えば一個大隊を優に超える戦力となるだろう。
勿論、これだけの戦力が、まとまって動いている以上は、単なるボルシェビキ側パルチザンなどではありえない。
このあたりは海岸から遠くはなれているし、冬季にはアムール川は凍結しているから、人口密度は極端に低かった。
シベリア鉄道の沿線といっても良い土地だが、めぼしい駅は無いから、市街地を形成するほど大きな都市は殆ど無い
ブラゴヴェシチェンスクのような要塞都市があるだけだ。
だから、行動半径の小さいパルチザンが大兵力を用意できるとは思えなかった。
それに、移動方向と共に記載された移動速度はかなり早かった。
観測期間がそう長く取れたとは思えないから、速度観測の信頼性はさして高くないが、少なくとも鈍重な補給部隊を随伴しているとは思えなかった。
このままの速度で進んでいるとすれば、不知火が現場に到着する前に、この部隊は中州に到着しているだろう。
勿論、根拠地を遠く離れて機動中の部隊が、補給部隊を有していないとは考えられない。
つまり、補給部隊は別個に存在していると考えるのが自然だった。
これは根拠地からの出撃を繰り返すパルチザンとは、性質が異なっているような気がした。
むしろ、正規軍のような、後方に補給廠を置く野戦軍に近い
―――これが噂の赤軍、なのか
かつて赤衛隊と呼ばれていた赤軍は、パルチザンがボルシェビキ派のいわば民兵であるのに対して、正規軍に当たる軍隊らしい。
完全に志願兵で編成され、階級も士官もなく、指揮官は選挙によって選ばれるというから、他国の正規軍とは性格の異なる組織であるらしい。
赤軍、あるいは赤衛隊は、対ドイツ戦に投入されているらしく、これまでシベリアではその存在は、確認されていなかった。
だが、党の軍隊とも言える赤軍は、ボルシェビキ中枢にとって、政治的に信頼性の高い戦力の筈だった。
これを投入するということは、ボルシェビキにとっても「目標」は奪還か、破壊するだけの価値のあるものだといえるのではないのか。
伊原中尉は、そっとケレンスキー大尉の顔を見た。そして少なからぬ衝撃を受けた。
ケレンスキー大尉の顔には、これまで意図的に押さえ込んでいた感情がありありと浮かんでいたからだ。大尉の顔は、青を通り越して白くなっていた。
水野大尉は対照的に、表情を消し去っていた。
おそらく脳裏では何らかの計算がなされているのではないのか。
その処理を行うために、にこやかな表情を作り出すためのリソースを計算に振り向けた。
機械のような冷たさが水野大尉からは感じられた。
伊原中尉は、ケレンスキー大尉の顔を見つめると、尋ねた。
「この…中州にいるロシア人部隊はどの程度の戦力を有しているのですか」
聞きたいことはそれだけではなかった。重火器は有しているのか、高い士気を維持しているのか、それとも烏合の衆なのか。
だが、何よりも兵力が過小であれば、大兵力にもみ潰されて一瞬で終わってしまうだろう。
ケレンスキー大尉は、不安そうな顔で、伊原中尉に向き直っていった。
だが、意外なほどケレンスキー大尉の持つ情報量は多かった。
「正規軍の編成は取っていないし、重火器は殆ど無いが…約一個中隊程度といったところだろうか、ただし士気は高い。おそらく相手が大部隊であっても最後の一人まで戦うのではないのか」
伊原中尉は、最期まで聞いていなかった。
ロシア人部隊は、とりあえず士気が高い、装備が貧弱な一個中隊であるらしい。
詳細はどちらも不明だが、接近中の部隊に対して1:3の兵力差は大きかった。
ただし、攻防三倍則などといわれるように、防御側が有力な陣地を構築できれば三倍程度の戦力と互角に渡り合うことは可能だ。
今回の例で言えば、防御側は特に人為的な陣地を構築しなくとも、予め中洲への渡河点という防御上優位な地形を抑えている。
だから、陣地構築の手間は最小限で済むはずだ。
彼らが予め敵部隊の襲来を予測していれば、すでに陣地を構築している可能性も低くはないはずだ。
伊原中尉達陸戦隊は一個小隊規模でしかないが、不知火と陽炎による艦砲射撃の支援を加えれば、防御側の戦力は格段に向上する。
兵力差は大きいが、必ずしも絶対的なものではなかった。
ただし、防御側のロシア人部隊と、こちらの部隊が綿密な連携を取る必要があった。
それが可能なのか、それは分からなかった。
ロシア人部隊の正体さえ分からないのだから、連携が取れるかどうかなどわかるはずもなかった。
結局は、情報を小出しにするから、戦術的な選択肢をも狭める結果になるのだ。
伊原中尉は、そう結論を出すと、ケレンスキー大尉にさらに尋ねようとした。
精神的なショックを受けているらしいケレンスキー大尉ならば、今は警戒心が低下しているはずだ。
案外あっさりとこれまで秘密にしてきたことでも喋るのではないのか、そう考えていた。
だが、伊原中尉が口を開くよりも早く、国枝兵曹長が怪訝そうな声を上げた。
「これは敵の…増援なのでしょうか」
伊原中尉は、怪訝そうな目で兵曹長が指さす先を見た。
そこには、一隻の船舶が行動中であること、その推測諸元が書かれていた。
例の中洲がある支流への分岐点よりも、更に上流を航行していたらしい。
ただし、アムール川はこのあたりではかなり蛇行しているから、距離はさほど離れているわけではない。
シベリア鉄道から出発したであろう敵部隊から分岐したと仮定しても、距離の面からはさほど無理がなさそうだった。
ただし、国枝兵曹長がこの船舶の書き込みを敵部隊と判断した理由はもっと単純だった。
書き込みに、銃撃を受けるとあったのだ。
その書き込みのみが、その場で慌てて書いたのか、殴り書きになっているのが周囲とやけに浮いていた。
通信筒を投下した飛行機には、敵味方識別のためか、主翼に大きく赤い日の丸が描かれていた。
それに、この周辺で飛行機を運用するほどの支援部隊を投入する事ができる勢力がいるとは思えないから、そんなものがなくとも、飛来した飛行機が日本軍のものであることは、常識で考えればすぐに分かるのではないのか。
それがわかって飛行機に銃撃してきたとすれば、誤射などではありえない。
自衛した地域住民や、白衛軍などの諸勢力である可能性は低いだろう。
これが赤軍の別動部隊だとすれば、どの程度の戦力なのだろうか。
伊原中尉は、丹念に書き込みや、周辺の地形から、船舶の諸元や発信地などを推定していった。
結論はすぐに出た。
書きこまれた情報をや地形は判断すれば、少なくとも不知火と陽炎に載せられる陸戦隊よりもずっと大規模な部隊が行動しているのではないのか。
もしかすると、河川を利用した柔軟な機動力を発揮することのできる、この部隊の方が敵の主力なのかもしれない。
だが、伊原中尉は、違和感にとらわれて食い入るように地図を見つめた。
そして、あることに気がつくと、無意識のうちに、水野大尉の方を見やっていた。
水野大尉は、地図から視線をそらすことなく、丹念に情報を読み取っているようだった。
自分の動きに気がついた様子のない水野大尉の姿に安心すると、今度は意識しながら地図に視線を戻していた。
敵部隊の動きはあまりにタイミングが合いすぎていた。
地図の情報を信じれば、地上から進撃する部隊が中洲に到着するのとほぼ同時に、例の船舶が支流へと侵入するのではないのか。
中洲の陣取る部隊から見れば、地上からの進行に対して防備を固めた次の瞬間に、無防備な背後を襲われる事態に陥るのではないのか。
これは攻撃側の赤軍にとって理想的な分散合撃だといえた。
しかも地形や保有機材の関係から、内戦の防御部隊が機動力を発揮して各個撃破を図るのは難しかった。
それどころか、赤軍もロシア軍部隊も共に航空機材を保有しているとは思えないから、防御側にとっては包囲されているという情報すら得られていないはずだ。
つまりこのような情報を得ているのは、自在な航空偵察が可能な日本軍のみということになる。
そう考えると、この分散合撃を図る赤軍の行動は上手く行きすぎているような気がした。
敵味方ともに偵察を放った状態で分散合撃を図っているわけではない。
一度出発してしまえば、河川上の船舶部隊と、地上部隊が連絡をとるのも難しいはずだ。
第一、この広大なシベリアの地で、一体どうやって目的のロシア人部隊の正確な位置を掴むことができたというのか。
船舶部隊が出発したのは、地形を考えれば、少なくとも不知火がハバロフスクを出発したのよりも前の時間になるだろう。
その時は少なくとも、赤軍は、ロシア人部隊の現在地か、日本軍との合流地点が中洲であることを把握していたことになる。
勿論、通常の偵察では、このような危険な分散合撃をとるだけの決断を指揮官にとらせるほど確度が高い情報を得ることは不可能だろう。
陸上部隊と船舶部隊による分散合撃など、正規軍でも困難ではないのか。
可能性はひとつしか無かった。
ロシア人部隊の側に、内通者がいるのだ。
その内通者からもたらされた情報によってボルシェビキは動き出したのだろう。
それも、虎の子であろう、根拠地から遠く離れたシベリアで運用できる赤軍精鋭部隊や船舶まで投入している。
ボルシェビキにとって、内通者の信頼性はかなり高いと考えられているのではないのか。
だが、情報を性格に把握しているはずのボルシェビキ側にとって、未知の存在が唐突に戦域に出現した。
他ならぬ不知火と陽炎だ。
しかも、赤軍のふたつの部隊と、不知火が中洲に到着するのはほぼ同時だった。
伊原中尉には、これが偶然だとは思えなかった。
不知火も赤軍も、そして、ロシア人部隊も、実のところ情報源は同一なのではないのか。
今度は確信を持って、伊原中尉は視線を水野大尉に向けた。
今度は視線に気がついたらしく、水野大尉も顔を上げた。
だが、伊原中尉には、再び作り上げられた愛想笑いの向こうの、水野大尉の考えまで読み取ることは出来なかった。
地図に見入っていた中で、最初に声を上げたのは、ケレンスキー大尉だった。
もしかするとケレンスキー大尉も、何か不審なものを感じていたのかもしれない。
大賀艇長と、伊原中尉に、向けた顔には、悲壮な表情が浮かんでいた。
ケレンスキー大尉は、呼吸を整えると、ゆっくりと、意識してはっきりとした発音で言った。
「本艦が、敵部隊の合流に先んじて目的の中洲に到着することは可能だろうか」
伊原中尉は一瞬、息を呑んだ。大賀艇長も、眉をしかめるといった。
「これだけの情報では、敵部隊の移動速度の推定が曖昧になる。だから概算しかできないが、おそらく中洲まで最短距離で航行すれば、陸上から接近する部隊と中洲の部隊が接敵する前に到着することは必ずしも不可能ではない。
しかし、その場合はこの支流から、離脱する際に敵水上部隊と鉢合わせする可能性が高いが…」
「本艦の戦力からすれば、支流からの脱出は不可能ではないと判断する。小官は、直ちに目的地に進出、「目標」を確保の上、本艦のみで脱出することを進言する」
伊原中尉と、国枝兵曹長は思わず顔を見合わせていた。
ロシア人部隊は、「目標」を手土産にシベリア派遣軍の庇護を受けようとしているのではないのか、陸戦隊の指揮官達はそう考えていたのだが、少々事情が異なるらしかった。
ケレンスキー大尉の言うとおりに、不知火が「目標」を確保してロシア人部隊を置き去りにすれば、彼らは大部隊に飲み込まれて消滅するはずだ。
もしも、ボルシェビキが、「目標」の移動を察知して、ロシア人部隊を殲滅する理由が無くなったとしても、彼らは「目標」という担保を失っているから、発言力が低下して、シベリア派遣軍からの庇護を受けられない可能性もあるのではないか。
陸戦隊員達が考えているほど、ロシア人部隊は単純な存在ではないらしい。
伊原中尉がそっと水野大尉の顔色をうかがうと、大尉は、驚いてはいるものの、特に意見はないらしい。
実のところ、水野大尉にとっては「目標」がどうなろうと構わないのではないのか。
ここまで事態が動き出した時点で、水野大尉には「目標」の価値は本当は消失しているのかもしれない。
肝心の艇指揮官である大賀艇長の反応は鈍かった。
不知火艇長である大賀艇長は、陽炎艇長よりも先任だから、実質上二隻の隊司令でもある。
その大賀艇長は、しばらく地図を睨みつけながら、無言で考え事をしているようだった。
次第に、室内の全員が、身動ぎ一つせずに、大賀艇長を見つめていた。
やがて、しびれを切らしたケレンスキー大尉が口を開こうとした瞬間に、大賀艇長が顔を上げた。
艇長の顔には、迷いや逡巡はかけら一つ見えなかった。
自信有りげな声で大賀艇長は言った。
「不知火及び陽炎は、このままアムール川を遡行、敵水上部隊を船上で撃破した後、支流に入り、中洲に急行、陸戦隊を展開して友軍を支援する」
そう一気に言うと、大賀艇長は、伊原中尉に向き直った。
伊原中尉達陸戦小隊は、隊編成上は大賀艇長の指揮下にあるわけではなかった。
本来は、陸戦隊と不知火、陽炎の二隻は同列で、飛行機などと共に、高崎に座乗した臨時戦隊司令官の指揮下に入ることになる。
高崎やそれに座乗した司令部の進出が間に合わなかったために、不知火と陽炎の二隻だけの行動となったから、大賀艇長が正式な指揮官として任命されたわけではなく、先任というだけにすぎない。
だから、伊原中尉が異をとなえれば、上官とは言え、大賀艇長は強く言える立場にあるわけではなかった。
しかし、伊原中尉は、間髪を入れずに、大賀艇長に向かって大きく頷いた。
「陸戦隊小隊長も同意見であります。艇長」
それを聞くと、大賀艇長は、にやりと笑みを見せて、不安そうな顔をするケレンスキー大尉の肩を叩いた。
「安心しろ、ケレンスキー大尉。我が海軍は、決して友軍を見捨てたりしない。
水上部隊を先に撃破するのは、敵が抵抗出来ない段階で無力化するためだ。
相手は合流すれば大部隊だが、河川上では無防備な船舶の積荷に過ぎない。」
自身有りげな、大賀艇長に、ケレンスキー大尉は、ぎこちない笑みを見せた。
もしかすると、ケレンスキー大尉が初めて見せた笑みかもしれない。