1945中原内戦6
―――いつでも俺は貧乏くじを引くんだ……
陳博文は、興味深げに次々と周囲にレンズを向ける従軍写真家の背中を辟易した顔で見つめていた。まるで危機的な状況に落っていることも全く気が付かないようだった。
フリードマンと言う名のその従軍写真家は、物好きにも遥か彼方のアメリカから来た男だった。
アメリカの通信社と契約して当初はソ連軍に同行して対独戦の最前線で取材していたらしいが、新たな戦争の匂いでも嗅ぎつけてきたのかソ連軍から供与された兵器を輸送する列車に便乗して中原にまで辿り着いたらしい。
そんな厄介者はさっさと部隊から追い出せば良さそうなものだが、ソ連軍の軍事顧問団にも伝手があるとかで、その写真家は宣伝目的で最前線への従軍を許可されていた。
しかも写真家を押し付けられたのは陳が所属する分隊で、更にお守りを押し付けられたのは分隊で一番下っ端の陳だった。
中国国内ではまだ高価なカメラなどこれまで殆ど見たこともない田舎者の陳がそんな役割を押し付けられた理由は明らかだった。最低限の訓練しか受けていない陳は分隊で一番役立たずだったからだ。
銃の撃ち方以外は分隊単位の訓練しか受けていないから、陳に出来ることは少なかったのだ。
厄介な事に、人生経験の少ない陳から見ても写真家のフリードマンはどこか死に急いでいる様な危うい雰囲気を醸し出していた。まるでそれは死に場所を探している様子だったのだ。
写真家のお守りと聞いても、最初は陳も何の事かよく分からなかったが、恐ろしい事にフリードマンは下手をすると、敵陣に向かって最初に飛び出す兵士の顔を撮ろうと陣地よりも前に出ようとさえしていた。
しかも、よりによってそんな時にフリードマンが構えているのは、小型でもよく銀色に光るカメラだったから目立ってしょうがなかった。
そして、理不尽なことにフリードマンがヘマをして敵に目標にされたとしても、分隊長から殴られるのは雲の上のソ連軍事顧問から押し付けられたフリードマンではなく、厄介者のお守りも出来ない陳の方だった。
フリードマンは何台かのカメラを抱えていた。2つ目の箱のような大きなカメラと、それよりもずっと薄い1つ目のカメラだった。陳はカメラのことはさっぱり分からなかったから、なぜ写真家が2つもカメラを抱えているか疑問だったのだが、そのカメラはそれぞれ撮れるものが違うらしい。
片方は幽霊でも撮れるのかと首を傾げたが、フリードマンが言うには焦点距離やフィルム寸法が違うという話だった。
もっともそんな事を言われても陳にはよく理解できなかった。カメラのことを知らなかっただけではない。フリードマンとの意思疎通が困難で説明する彼の言葉自体が分からなかったのだ。
アメリカの通信社から派遣されたというが、フリードマンの生まれ故郷は東欧であるらしい。欧州にファシスト政権が次々と勃興する中を西へ西へと逃れて、スペイン内戦の後は最終的にアメリカに渡っていたという話だった。
陳からすると地の果てで起きていたような話だったから最初から半分も理解出来なかったが、若い頃から欧州を横断していった間にフリードマンはいくつもの言語を取得していたらしい。それでスペイン内戦時の伝手を辿って米国からソ連へ派遣された特派員の一人になれたと本人は言っていた。
さらにフリードマンはソ連軍に同行する間に、更にソ連人の知り合いから中国語を教わったと主張していた。対独戦終結後の新たな戦地への派遣には現地の言語取得が有利に働くと考えたのだろう。
だが、実際にはフリードマンの言葉は陳にはよく理解出来なかった。フリードマンが話す単語の中には平気でロシア語等の欧州の言葉が交じる上に、そもそも方言が陳とは大きく異なっていたのだ。
中途半端に通じるものだから二人とももどかしい思いをする事になったのだが、後になって考えてみればそれも当然だった。
フリードマンが中国語を誰に習ったのかは分からないが、ソ連人が内戦の続く混沌とした中華民国国内で自由に動けたとは思えなかった。
一写真家に過ぎないフリードマンが対独戦の戦場で会ったと言うことは、中国語の教師になった人物はおそらくはソ連軍の関係者なのだろうから、租界が集中する為に国籍を問わずに外国人の人口が多い上海にいたのではないか。
つまり、フリードマンに中国語を教授した人間は南部方言の呉語系に属する上海語を日常的に使っていたはずだった。これに対して陳は生まれ育った村で使われていた言葉である北方方言の北平語しか知らないから、同じ中国語と言っても違いが大きく円滑な意思疎通が難しかったのだ。
しかも、カメラに関する事などこれまで中国国内に存在していなかった近代的な発明品などに関する分野では、日本から新たに導入された単語も少なくなかった。中原から広がっていった漢字文化圏の中では、新進気鋭の日本帝国が最も先行して西洋文化を取り入れていたからだ。
だが、そうした外来語はまず外国文化の流入が盛んな上海を経由して国府党の本拠地である南京に到達していた。北平等に広がるのはそれからになるから、広大な中原に新たな言葉や文化が行き渡るには長い時間が必要だった。
陳の育ったような田舎村に言葉が伝わるには、疎らな行商やめったに見ない旅行者でもなければ中々その機会がなかったのだ。
あるいは、筆談が成立すれば使用されている漢字から何となくの意味が理解できていたのかもしれないが、フリードマンは片言で話す事は出来ても読み書きは全く苦手としていた。
外国で意思疎通を図るには、言葉を書くよりも話し掛ける方が被写体の間に自然に入って行きやすいらしいが、結局は陳とフリードマンは身振り手振りと片言の中国語で何とか意思を伝え合う他なかった。
ただし、意思疎通に不十分な事はあっても、この事態を恐れているのは陳だけだという事は何となく分かっていた。あるいは、フリードマンは本当に脅威に気がついていないのかもしれない。
北平市街地の偵察に出た分隊から、二人はいつの間にかはぐれていたのだ。
当初、陳達の分隊は本隊に先んじて避難民に紛れて北平に密かに潜入しようとしていたのだが、その目論見は早々に諦めざるを得なかった。北平市街地に入る目前で橋が落とされていたからだ。
先行して偵察に出ていたのは陳達の分隊だけではなかった。相当数の偵察隊が編成されていたようだが、他隊のことはよく分からなかった。別の橋を渡っていた部隊もあるはずだから、陳達も行動を急ぐ必要があった。
避難民を巻き込んでまで橋を落とした敵軍の覚悟は相当なものがあるようだが、何れにせよ北平の偵察は行わなければならなかった。進攻路が制限された事で戦車を突入させる前に地形や敵部隊の把握が必要となったからだ。
陳達の村にも現れた巨大な戦車は、どこにでも進撃できる無敵の存在のようにも思えたのだが、実際には錯綜しがちな市街地では機動に制限が多いらしい。面倒な話だが戦車を円滑に運用するには、事前の偵察で敵情や地形を把握する事が欠かせないようだ。
それで陳達は北平市街地に進入していったのだが、すでに市街外縁では戦闘が始まっていた。彼方から聞こえてくる砲声は、経験の薄いものが多い分隊員達を焦らせていた。
北平の市街地は、寄せ木細工のように少しばかり移動すると周囲の様子が一変していた。
郊外に広がる貧民街を抜けると、何の用途で使われているのかは陳には分からない外国資本によると思われる近代的な建物があるかと思えば、いったいいつの時代からあるのかもわからない古めかしい寺院が整然と並ぶ場所があったのだ。
ただし、フリードマンによれば西洋的な建物の数は租界がある上海や首都南京よりも北平の方がずっと少ないらしい。租界の出来た一世紀ほど前から急成長を始めた上海はもちろん、中華民国の首都として整備された南京は新たに建築された建物が多いらしいのだ。
フリードマンにしてもそのどちらにも実際には訪れたことがないはずだが、写真家仲間などから聞いたことがあるようだった。
それにフリードマンには欧米の新興都市と大して変わらないような街並みである上海等よりも、古都然とした北平の方が被写体には向いているようだった。
次々と現れる雑然とした街並みの中を進む分隊にフリードマンはレンズを向けていたが、次第に分隊から遅れていた陳とフリードマンは北平の街角で他の分隊員を見失っていた。
それはフリードマンがある古びた寺院を門前から撮っていた時だった。門から乗り出すように彼が撮影している間に分隊員は次の角を曲がっていた。慌てて陳はフリードマンの首根っこを捕まえるようにして角を曲がったが、次の瞬間に唖然としてしまっていた。
寺院の脇には二階か三階建の住居が密集していた。さほど所得の高くない市民向けの家なのか、一軒一軒はさほど大きくないのだが、家と家の間は狭苦しい路地となっていた。
しかも、当初は地形などに制限でもあったのか多くの建物は整然と並んでいるわけではなく、斜めに断ち切られたような平面の家もあった。そんな迷路の様な建物の間の路地に入ってしまったらしく、分隊員達の姿は僅かな間に視界消え去っていたのだ。
市街でもこの辺りは完全に無人になっていた。つい先頃まで住民が暮らしていた気配は濃厚に残っているのだが、戦闘の予兆を察した住民達はいち早く逃げ出してしまったらしい。
大規模な商店などはどさくさに紛れて略奪が行われていたが、さすがにこんな小さな家を襲うものはいなかったようだ。
尤も、小さな住宅地と言ってもそれは比較対象が北平の市街地だからだ。陳の育った田舎村、というよりも掘っ立て小屋のような陳の生家からすれば立派な邸宅だった。
しばらく唖然としていた陳は、興味深げに中国風の建物を撮り続けるフリードマンの首根っこを引っ掴む様にして先を急ごうとした。行き先はわからないが、前進していけばどこかで他の隊員達と遭遇できるのではないか。そう考えていたのだ。
しかし、陳が歩き出すよりも早く、珍しく鋭いフリードマンの声が聞こえた。首を傾げて彼が指差す方を見ると、路地の向こうに人影が見え隠れしていた。
先行した分隊の仲間が引き返してきたのかと思ったが、それにしては妙な動きだった。
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく目についたこじんまりとした家に入り込んでいた。
陳達が入り込んだのは、家ではなく店屋だった。妙に入りやすい広い玄関だと思ったら、家の中に棚がいくつも並んでいたのだ。そういえば慌てていたから気が付かなかったが、家の前には何か看板が立っていたような気がする。
どうやらそこは雑貨屋だったらしく、疎らな棚の中身は大して値の貼りそうなものは残されていなかった。店と言っても、住居を兼ねた小規模なものだったから、周辺の住宅に必要なものを揃えていただけなのだろう。
そんな粗末な棚の後ろに隠れながらそっと路地の様子を伺うと、身奇麗な格好の兵士が次々と警戒しながら現れていた。
急速な進撃、あるいは解放作戦によって、最近は着の身着のまま支給された軍衣を洗濯する間もなく戦車にしがみつく様にして進軍していた陳達よりも、目前の男達の方がよっぽど兵士らしい格好だったが、明らかにその意匠は陳達とは異なっていたからだ。
―――国府軍の斥候なのか……
陳は眉をしかめていた。どうやら錯綜した市街戦の中で、お互いが繰り出す偵察部隊がすれ違ってしまったらしい。
フリードマンと二人しかいないこの状況ではやり過ごすしか無かった。陳が持たされたのは、まだ大人になり切っていない小柄な体躯には似つかわしくないほど旧式で長大な小銃だった。
それに対して目前の兵士達は小銃を担ぐものよりも、軽量な機関短銃を手にしたものの方が多かった。使用するのは小銃弾よりも格段に装薬量の少ない拳銃弾だったから射程や威力は小銃に比べて低いが、戦闘距離の短い市街地では発射弾数で圧倒できる機関短銃の威力は高かった。
陳はやけに時間が経つのが遅い気がし始めていた。警戒しながらゆっくりと進む兵たちの姿はいつまでも見えていた。