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1945中原内戦4

 ソ連が共産主義勢力に対して大量に供与したと思われるT-34戦車に対して、自軍の装備では著しく不利であることを悟った国民革命軍は、損害を覚悟の上で戦車の運用に不向きな市街戦に持ち込むことを決断していた。

 機械化部隊を貪欲に飲み込む市街地の迷路で対戦車兵器を装備した人民の群れを用いることで、歩兵と切り離されて無防備になった敵戦車を絡めとろうとしていたのだ。



 国民革命軍によって決戦の地に選ばれたのは、北平を中心とした一帯だった。中原に覇を唱えた歴代の王朝によって何度も首都と定められていた旧北京市は新たに南京を首都とした中華民国によって北平と名を改められていたが、国内でも有数規模の都市であることに変わりはなかった。

 決戦を前にして、北平郊外の鉄道駅には続々と中原を北上してくる部隊が降り立っていたが、北平に集合しつつあるのは既存の部隊だけでは無かった。


 周辺の村々から根こそぎ動員されて来た男達が、郊外に仮設されたばかりの訓練所で促成の教育を受けていた。

 新兵たちは動員可能な年齢らしく見える男達を片っ端から乱暴にかき集めてきただけだったから、銃の撃ち方さえ覚えていれば上等という最低限の兵隊達にしかならなかったし、士気は著しく低く揃って不安そうな顔を浮かべていた。

 さらに、組織的な徴発と徴兵によって食料も働き手も無くなった周辺の村からは、続々と避難民が北平に向かっていた。というよりも、国民革命軍は焦土戦術として北平周辺の村々から人民を含むあらゆるものを引き上げているようだった。



 避難民が次々と渡ってくる長大な橋を見下ろしながら、崔中尉は奇妙な思いを浮かべていた。共産主義勢力にT-34戦車が確認されるようになってから、戦車大隊の指揮官達は俄にこれまで冷遇していた砲戦車隊に今度は過剰な期待をかけるようになっていた。

 九七式中戦車の短砲身57ミリ砲では、列強の主力である新鋭戦車には対抗出来ないことが明らかだったからだ。


 その一方で、技術に疎い彼らも百式砲戦車に搭載された長砲身57ミリ砲は、本来T-34に対抗する為に制式化された一式中戦車の搭載砲と同一仕様である事ぐらいは知っていた。

 それで百式砲戦車の火力でT-34に対抗する事を思い付いたのだろう。


 だが、戦車大隊将校団の期待はあまりに過剰なものだった。崔中尉は暗然たる表情を浮かべた顔で本来小隊3号車が収まっているはずの空壕に振り返っていた。

 国民革命軍では、戦車小隊は3両で編成されていた。前後進時などに二組で相互支援を行う場合を考えると、本来は2両で分隊を構成する為に1個小隊4両の方が望ましいと崔中尉は考えていたのだが、大隊は3両1個小隊の原則を砲戦車隊にも強いていた。

 その結果が3号車の撃破という結果に繋がったと崔中尉は考えていた。北平郊外で行われた戦闘でT-34を待ち伏せていた小隊は初撃で運良く敵戦車1両を撃破していたが、1,2号車の後退を支援して自らの射撃地点からの撤収が遅れた3号車は、正面から一撃で装甲を貫かれて残骸とかしていた。



 現実の戦場では、大隊長達の期待に反して百式砲戦車の戦闘力は十分なものでは無かった。

 確かにT-34に対抗する為に制式化された一式中戦車の搭載砲は、百式砲戦車に搭載されていたものと同一弾道のものだった。そして、一式中戦車はT-34、その中でも76ミリ砲装備の旧型が相手であれば互角の戦闘が可能と言われていた。

 T-34の76ミリ砲装備型は生産工場によっていくつかの種類に分かれるらしいが、火力で劣るだけではなく砲塔内部の容積が限られるから砲手が車長を兼任せざるを得ないなど85ミリ砲装備型よりも戦力価値は低いらしい。


 だが、そのような評価は相対的なものに過ぎなかった。T-34が装備する野砲弾道の主砲は徹甲弾を使うまでもなく国民革命軍が装備するあらゆる戦車を正面から撃破できたし、装甲は遥かに分厚く九七式中戦車では足回りを狙って機動力を削ぐ程度のことしか出来なかった。

 一応は覗視孔などの弱点を突けば非力な57ミリ砲弾でも損害を与えられる可能性はあるのだろうが、低初速の短砲身砲ではせいぜいが手のひら大程度の大きさしかない弱点を狙うのは難しかった。


 そして、そのような事情は百式砲戦車でも大して変わりはなかった。長砲身高初速砲だから比較的距離があっても一点を狙いやすいくらいの違いでしかない。

 元々、同砲を搭載した一式中戦車でも、T-34に対して必殺の一撃を与える事が期待されていたわけではなく、相対的に非力であるのは分かっていた。ただし、一式中戦車の場合は全周旋回砲塔と高い機動性という武器が用意されていた。

 仮に備砲が非力であっても、矢継ぎ早の速射で敵戦車を制圧している間に弱体な備砲でT-34を撃破できる距離まで接近するか、装甲の薄い側面に回り込めれば良かったのだ。


 結果的に百式砲戦車の戦力は限定的なものに留まっていた。一式中戦車のような機動力は無いし、車高が低く抑えられたものだから狭くなってしまった戦闘室では作業効率が悪化して装填速度も限られるから、敵戦車を弾量で制圧するのも難しいのだ。

 だが、戦車大隊の指揮官達はそのような事も理解出来ないものが多かった。単に彼らの頭にあったのは一式中戦車に準ずる戦力の百式砲戦車ならば、どんな戦い方をするかは知らないがT-34を撃破しうるのだろうといった程度の粗雑な考えがあっただけだ。



 元々、崔中尉は戦車大隊の将校団の中では疎んじられていた。中尉が日本陸軍で士官教育を受けた国民革命軍の中では少数派の将校であったためだ。


 国民革命軍の将校となって軍の中核で出世するには、現在の総統が校長を務めていたこともある黄埔軍官学校に入校するのが一番手っ取り早かった。

 同校は、軍閥の寄り合い所帯でしか無かった中華民国の軍事力を正規の国軍化するために、初代総統の孫文によって設立されたものだった。ところが設立から20年以上経った今では、ある意味で軍官学校卒業者達自身が国民革命軍の一大軍閥を構成する形にもなっていた。


 黄埔軍官学校は、近代軍制の点でアジア圏で先行する日本陸軍士官学校に範を垂れたものだったが、国民革命軍の士官候補生で選抜されたなかにはその日本陸軍士官学校に留学するものもあった。

 革命に前後したために中途で断念して帰国せざるを得なかったが、現総統も日本陸軍士官学校への入校を目指して来日していた時期もあったらしい。


 数はそれほど多くはなかったが、日本陸軍士官学校は以前から外国籍学生の入学を受け入れていた。遠いアジアの片隅に留学する欧米列強の士官候補生は居るはずもなかったが、東南アジア諸国で唯一の独立国であるタイ王国やシベリア―ロシア帝国などから留学する学生は年に何人かはいるらしい。

 対象的に日本海軍の教育機関である海軍兵学校では留学生の受け入れは基本的に認められないらしいとも聞いていた。

 日本陸軍士官学校が柔軟な対応が可能だったのは、士官教育において決して制度化はされていないものの、同校ではある種の徒弟制度にも似た独特の教育方針が行われていたからだ。



 概して日本陸軍士官学校で用いられる教書は総花的な記述が多いらしい。一応は機密書類扱いらしいが、あれもこれもと基本的な記載が多いとは崔中尉も聞いていた。ひどいものになると、諸外国の教書を孫引きしているものだから前後の文章で矛盾もしているらしい。

 例えば、敵陣攻撃の際に準備砲撃を省くべしと記載している一方で準備砲撃の基数として膨大な例を上げている箇所もあるというのだ。これでは教書からでは日本陸軍が実戦においてはどう動くのか、それをうかがい知る事は出来なかった。


 このように矛盾した教育がなぜ可能だったのか、それは総花的な記述の中から実戦の状況ではどう動くべきなのか、その指針が指導教官から口頭で各学生に伝授されるものだったからだ。

 こうした強い師弟関係であれば、外部に情報が漏れる恐れは低かった。日本陸軍が外国籍の士官候補生を受け入れていた、というよりも受け入れることが可能だったのもそれが理由だったのではないか。


 単に外交上の付き合いとして受け入れただけの学生であれば通り一遍の教育を行えば済むし、機密の保持に制限のない同盟国であれば日本人学生同様に扱えば日本陸軍との共同作戦時に欠かせない人材となることが期待出来るはずだ。

 その意味では、中華民国からの留学生は前者に相当する可能性が高かった。確かに中華民国の国民革命軍は国共内戦の為に日本製の兵器を大量に購入する「お得意様」ではあるが、以前ドイツ軍事顧問団を受け入れていた様に政治的には不安定などころがあるから全幅の信頼を得てはいなかったはずだった。



 ただし、こうした徒弟関係にも似た教育方針では、高度な士官教育を受ける事のできる学生の数は限られていた。一人の教官が付きっきりで少人数の集団に教えを垂れなければならないからだ。

 こうした制度は十年、二十年といった未来に軍の中枢を担うエリートを育成するのには適しているが、欧州大戦のように部隊を急増する場合には現場で必要な下級指揮官が不足してしまう筈だった。


 尤もそうした事情は先の大戦において中東や欧州に軍を進めた日本陸軍でも理解していた。下士官兵から下級士官を育成する選抜制度と共に、欧州で戦雲急を告げる頃には、既に有事を見越して大量の士官候補生に促成教育を行う制度が設けたのだ。

 しかも、この制度では開戦以後に需要が急増したアジア圏から受け入れた士官候補生の教育も含まれていた。これまではインド帝国などに限られていた現地人将校が、旧インドシナ植民地などでも必要になっていたからだ。


 建前上自由フランスの手で解放されたインドシナ植民地は、独立を条件にインドなどと同様に今次大戦での戦争協力、兵力提供を約束していた。だが、俄に増えた自由フランスの現地人部隊を数が少ないフランス人将校だけで指揮を取るのは不可能だった。

 結局は旧植民地人で構成された極東師団においては高級将校だけがフランス人となり、実際に兵士達を指揮する下級将校や下士官は促成教育を受けた現地人とするしか無かった。

 そうした多数のアジア人士官候補生達を前線指揮官とする為に、後方の日本本土で教育する事を日本陸軍は担当することになったのだ。


 士官教育は最低限かつ実戦に則したものに限定されていた。場合によっては直近の戦闘で得られた戦訓が教育内容に反映される事もあった。必要なのは遠い将来に将軍となる人材ではなく、明日にも小隊を率いる指揮官だったからだ。

 仮に彼らが生き延びて更に大規模な大隊や連隊を率いることになれば、その時は別途高度な教育を別に受ければ良いという割り切りがなされた結果、小規模部隊の指揮統率には不要とされた従来の士官教育は次々と切り捨てられていた。



 日本に留学した崔中尉が教育を受けたのはこの促成教育を行う機関だった。大学などを卒業して徴兵された後に部内で士官候補生に選抜されていた日本人の他に、大勢のアジア諸国から送り込まれた候補生に混じって教育を受けていたのだ。

 戦車大隊の将校団の中で崔中尉が軽視されていたのは、それが原因だった。


 大隊に配属された当初は、大隊長以下の将校たちはむしろ崔中尉を恐れている気配すらあった。中尉のことを日本帰りのエリートと考えていたからではないか。

 国内の軍官学校ではなく、日本陸軍の士官学校への留学を許可されることは、単に頭脳明晰であるだけでは無くて国民革命軍や政府の上層部に相当のコネを持つ名家の出でもない限り難しいからだ。


 ところが、実際に崔中尉が学んでいたのは士官学校でも促成教育過程の方だった。しかも、日本人の士官候補生はともかく、学生の中には中原の住民達からすると蛮族にも等しいアジア諸国からの留学生も混じっていた。

 エリート意識の強い将校達は、アジア諸国の留学生に混じって教育を受けていた崔中尉を仲間とは思えなかったのではないか。


 だが、崔中尉には将校達の認識は誤っているとしか思えなかった。

百式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100td.html

九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97tkm.html

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

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