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1945中原内戦3

 外蒙古を策源地とする共産主義勢力の一斉蜂起が開始された時点において、国民革命軍は300万の兵力を有すると喧伝されていた。

 ただし、地方軍閥による兵員数の水増しが無かったとしても、近隣の日露両国どころか東北地方が半独立国家となった満州共和国と比べても、兵員数に対する実戦力という点で国民革命軍が劣っている事は否めなかった。



 国民革命軍の戦略単位である標準の正式師は他国列強の師団に相当する部隊規模とされてはいたが、実際には通常編制の師の規模は他国師団よりも一回り小さかった。

 問題は単なる兵員数だけでは無く、装備面の不均衡も大きかった。旧地方軍閥部隊などは、下手をすると火縄銃や青竜刀ですら持ち出してくるのだ。中央政府からの給与の支給も満足なものではなかったから、民間から物資を徴発しないと身動きもできない部隊もあった。


 ソ連軍も師団の所属将兵数では他国よりも小さいというが、国民革命軍の場合は機械化率が極端に低い上に歩兵装備ですら旧式品が多いから、仮に兵員数が同程度であったとしても正面からソ連軍師団と交戦すれば一瞬で破砕されてしまうはずだった。

 国民革命軍の頭数が多いのは、機械化率の低さに加えて兵站組織が貧弱な点にも原因があった。多くの部隊では弾薬や糧秣は大八車を引いた人海戦術で運ぶしかないし、外国資本の多い鉄道を離れて野戦で長距離展開を行うのも制限があった。


 共産主義勢力との戦闘が始まった当初、中央政府が北方の警備にあたっていた旧地方軍閥部隊による損害の過大報告を疑ったのもその辺りに原因があるのだろう。

 つまり、単に徴発程度の行動に出た共産主義勢力との小競り合いにおいて生じた被害を過大に報告することで、自らの戦意を中央に主張するとともに損害復旧の名目で予算を分捕ろうとしていると疑われていたのだ。



 だが、時間が経つにつれて次第に中央政府も共産主義勢力の脅威を無視できなくなってきていた。これが一時的な徴発や威力偵察などではなく、本格的な攻勢であることの証明がいくつも出てきていたからだ。

 確かに、彼らによって外蒙古に隣接する村落に対する物資、人員両面における徴発、強制徴募が行われていた形跡があった。ただし、これは徴発行為自体が目的ではなく、中原に根拠地を構えて長期戦に備えた体制を構築しようとしていたからのようだ。

 その証拠に、共産主義勢力が確認された地域はモンゴル平原に面する広い範囲にまたがっていたのだ。


 当初は分からなかったのだが、中国東北部、つまり満州共和国に面する地域では共産主義勢力の攻勢は確認されていなかった。ソ連の指示下にあると思われる中国共産党は、紛争の相手を慎重に国民革命軍に絞って二正面作戦を避けていたようだ。

 精鋭部隊を欧州に送ったままの満州共和国は、航空部隊まで投入しながらも安易な行動を自重して情報収集に努めていたが、いわば縄張りを侵された地方軍閥は拙速に行動を開始していた。


 この範囲に巣食う旧軍閥は一つではなかった。建前としては恭順した軍閥は国民革命軍の警備部隊に再編された上で組織としては並列しているのだが、実際には旧軍閥同士の横の繋がりは薄かった。

 連携も取れない各旧軍閥部隊は、結局は面子が掛かっている為にほとんど反射的に縄張りに侵入した共産主義勢力の討伐に掛かっていたが、その大半が短時間の内に手酷くやられていた。



 侵入した共産主義勢力の数はさほど多くはなかった。北方に逃れた古参の党員に新規補充があったとしても数100万を超える軍勢が短期間で構築できたとは到底思えないから、兵員数では国民革命軍の総兵数には遠く及ばないのではないか。


 その代わり、彼らは重装甲の大型戦車を侵攻する各部隊の中核に据えていた。野砲級の大口径砲を据えた戦車がどの部隊でも確認されたというから、旧式装備しか持たない軍閥部隊の手に負える代物ではなかった。

 旧軍閥部隊でも戦間期に開発された歩兵砲や小口径の対戦車砲を有している装備優良部隊があったが、彼らにとっては虎の子扱いされていた火力であってもいずれも一蹴されていたようだ。軽歩兵戦車でしかないT-26程度ならばともかく、相手が悪すぎたのだろう。


 当初は敵戦車の存在を全く信用していなかった国民革命軍上層部も、T-34らしき大型戦車の報告に半信半疑ながらも戦車部隊の投入を決意していた。近隣の装備優良の正規部隊から抽出された戦車部隊が報告のあった地域に向かったが、結果は大して変わらなかった。

 それでも随伴していた機械化された偵察部隊からの報告で確かにT-34戦車が敵部隊の中核に据えられていることが確認されていた。

 確認されたのは、高射砲弾道の85ミリ砲ではなく、76ミリ野砲を装備した旧式の型だったらしいが、それ以上に旧式化した装備しか持たない国民革命軍にとってはどちらでも大した代わりはなかった。



 これは予想外の事態だった。欧州でのドイツとソ連との戦争は終結したというが、対独戦初期にソ連が被った人的、物的な損害は大きかった。実質的にドイツとの戦争には勝利したとはいえ、ソ連軍がここまで短期間のうちに欧州から遥か彼方のアジアにまで戦力を取って返すとは思えなかったのだ。


 だが、これはある意味で国民革命軍の誤認だった。中原に侵入してきた共産主義勢力は、少なくとも数の上での主力は漢民族か中央アジア、モンゴル系のアジア系のものばかりだった。数少ない捕虜の証言などからもそれは明らかだった。

 ソ連が提供した戦力は、基本的に戦車部隊か戦車そのものだけであり、戦車部隊に随伴する歩兵どころか戦車兵の多くもスラブ人によって訓練された中国人であるらしい。


 やはりソ連でも対独戦の損害は大きかったのだろう。ただし、米国の支援を受けて全力で総力戦体制を構築していたソ連工業界は、生産体制を完全に軍需に傾斜させていたはずだ。

 当然のことながら戦争が終わった今、余剰となった兵器は膨大な量になっているはずだった。一度全力で操業を開始した軍需生産は簡単に止めることができないからだ。

 仮に中途半端な所で生産を中止すれば、他に転用することができない仕掛品の山と失業者の群れを生み出すことになるのではないか。生産体制の転換を行う時間を稼ぎ、余剰となる兵器の押し付け先として中国共産党が選ばれた可能性もあるだろう。

 それで中国の国内で共産主義勢力の勢力が増せばソ連の影響力が強まることになるから、ソ連にしてみれば価値は大きいはずだ。中国共産党に提供されたT-34は旧式のものだったらしいが、それも新型の85ミリ砲をソ連軍に配備した余剰のものだったのではないか。



 理由はどうであれ欧州の最前線に投入されていた一線級の装備が唐突に国民革命軍の前に出現した事には変わりはなかった。しかも、中国共産党は兵器だけではなく戦術もソ連から伝授されているようだった。乏しい情報から崔中尉はそう考えていた。


 共産主義勢力にとって最も必要なのは、ソ連軍から半ば在庫処理として与えられた戦車ではないはずだった。歩兵、特に外蒙古への脱出前からの共産党員である古参兵こそが最も重要な資源と考えているのではないか。

 彼らは貴重な歩兵部隊を戦車の陰から突出させることはなかったし、欧州大戦序盤のように機動力に勝る戦車部隊だけを歩兵や他の支援部隊から先行させて補給を途絶えさせることも無かった。

 愚直なまでに歩兵と戦車の協同を墨守する共産主義勢力は、野砲と重装甲を兼ね備える戦車を諸兵科連合部隊の火力発揮の根源として考えているようだ。



 戦車の周囲で歩兵を連れ回すこのようなやり方は、機械化部隊の機動力を活かせない一方で軽歩兵戦車でしかない九七式中戦車にとっては厄介極まりない戦法だった。

 諸兵科連合部隊との交戦においては、機関銃の集中射撃による制圧射撃などによって戦車から歩兵を切り離すことが重要だった。視界の悪い戦車は近接戦闘に不利だったからだ。

 ところが、九七式中戦車が仮に先に歩兵部隊を制圧しようとしても、随伴する戦車が盾となっていて制圧射撃を妨害していた。しかも多くの場合では頭数が多く見張り能力の高い歩兵部隊から支援を受ける敵戦車の方が、隠蔽状態にあったとしても先に九七式中戦車を発見していた。

 つまりは、どうやってもまともな装甲が相手では貫けそうもない九七式中戦車の短砲身57ミリ砲で、重装甲の敵戦車と対峙しなければならなかったのだ。


 日本陸軍では最近になって低初速砲でも貫通距離を伸ばせる成形炸薬弾を実戦配備しているらしいが、国民革命軍にはそんな特殊な砲弾は配備されていなかった。

 そもそも日本陸軍では九七式中戦車は二線級装備扱いされているから、訓練用機材として残っていれば良い方といった所だろう。だから九七式中戦車しか使用しない短砲身57ミリ砲用の成形炸薬弾が製造されているのかどうかも分からなかった。


 短砲身57ミリ砲では、車体部でさえ40ミリを越える上に避弾経始に優れた傾斜装甲を持つT-34に対して有効打を与えるのは難しかった。

 それどころか中華民国内で国産化された砲弾の場合は金質が悪いのか、あるいは加工不良が原因なのかは分からないが、直撃と同時に徹甲榴弾の弾体が内部の炸薬ごと砕け散ることもあるらしい。

 崔中尉も、九七式中戦車から放たれた砲弾があらぬ方向に弾き飛ばされる姿を何度か目撃していた。九七式中戦車ではT-34に対抗することは出来なかったのだ。



 急速に悪化する国境線近くの状況に、第5師などの装備優良である精鋭部隊の投入が決断されていた。続々と鉄路を伝って精鋭の師が北上していたのだ。

 ところが到着するたびに逐次投入された精鋭部隊でも結果的に見れば時間稼ぎにしかならなかった。戦略的な動きは下級士官でしかない崔中尉にはよく分からなかったが、個々の戦闘で敗北した原因は明らかだった。

 結局は敵部隊の火力の根幹である戦車を撃破することが出来ないまでも制圧すら不十分であった為に、敵部隊の自在な動きを阻止出来なかった為だ

 精鋭部隊に優先して配備された日本製の戦車が、敵戦車にあっさりと敗北する姿を見せつけられた第5師の将兵は、浮足立って本来の戦力を発揮出来ずに敗走していた。

 敗走したのは第5師だけでは無かった。全域で前線が崩壊する気配があったのだ。危険な兆候だった。このままずるずると敗北を続ければ、彼我の損害が増大する前に気を見るに敏い旧軍閥部隊が続々と寝返ってしまうのではないか。



 ようやく共産主義勢力の脅威を悟った国民革命軍上層部は、劣勢である戦局を転回する為になりふり構わず諸外国に支援を要請する一方的で、一大会戦を企図していた。

 同時にソ連の内政干渉を避難する声明を出していたが、これは根拠の無い妄言の類と一蹴されていた。少なくとも建前の上ではソ連は共産主義勢力に兵力は派遣していないのだ。


 何れにせよ狡猾なソ連の行動には注意を払う必要があるものの、今は彼らを無視するしかなかった。よほど共産主義勢力が再度劣勢にならない限りソ連軍主力が介入する可能性は低いからだ。

 あからさまに内戦に介入すれば日露満などに隙を見せることになるし、彼らの軍隊は対独戦で大きな損害を負っていた。旧式兵器の供与で漁夫の利を狙うのが今回の内戦におけるソ連の思惑ではないか。


 当座の敵勢力は中国共産党に限られる事になるのだが、国民革命軍の友軍もまたいなかった。満州は自領への侵入が見られないことから当座は静観の構えを保っていたし、シベリア―ロシア帝国はソ連と対峙するバイカル湖戦線から兵力を抽出する余裕はなかった。

 そして九七式中戦車の供与を行った日本帝国は、欧州に派遣した戦力の大半が未だに本土に帰還していなかった。

 中国共産党の背後にいるソ連は、自軍を動かすことなく余剰装備だけを早期に供与する事で、日本帝国などが身動きできない対独戦終結直後の早い時期に騒乱を起こさせようとしていたのだろう。


 このような状況において、国民革命軍はかき集めた戦力を北平に集中させて大規模な市街戦に持ち込もうとしていた。

九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97tkm.html

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