1945中原内戦2
―――こいつは、ちょっとばかりまずいことになりそうだぞ……
続々と国民革命軍の敗残部隊や避難民が渡ってくる河川の様子を伺いながら、崔世文中尉は百式砲戦車の狭苦しい車長席から身を乗り出してそう考えていた。
崔中尉が乗り込む百式砲戦車は、橋梁を射程に収める形で構築された戦車壕に入り込んでいた。川岸の背後には大都市の北平中心部に向かう街道が位置するという重要な地点だったが、壕は河岸の地形を利用した貧弱なものだった。
撤退中の戦車大隊には、本格的な戦車壕を構築する資材も人員も不足していたのだ。
それ以前に、この壕の形状は固定式の戦闘室を備える百式砲戦車の形態に合わせて構築されたものとは崔中尉には思えなかった。砲戦車の戦闘は待ち伏せによる側面からの射撃が前提であるのに、敵戦車の予想出現地点を広く射界に収められないのだ。
百式砲戦車の原型となっているのは、8年程前に日本軍が採用した九七式中戦車だった。
今現在となっては旧式化も著しいが、九七式中戦車は軽量級の軽歩兵戦車として設計されていたから、本格的な内戦期を終えて貧弱な装備しか持たない匪賊や共産匪の討伐やその後の治安維持だけ考えれば良い国民革命軍には使い勝手の良い車輌だと言えた。
それに崔中尉が所属する第13師戦車大隊の将校などは最新戦車の提供を渋る日本人たちを罵っていたが、欧州の最前線に投入されているという三式中戦車のような重量級戦車が配備されたとしても、交通網の貧弱な中華民国内で運用するには支援部隊の充実から始めなければならなかったのではないか。
第13師は本格的な再編制によって軍事顧問団による訓練と外国製の装備を受けた精鋭部隊だったが、重装備は正面装備に偏っており兵站や工兵などの支援部隊や火砲は他国列強の同級部隊に劣っていることは否めなかった。
その程度の事は新米少尉でも無ければ理解できるはずだった。歴史が浅いとはいえ、国民革命軍では数少ない機械化部隊である戦車大隊の指揮官層は選抜されたものばかりだったからだ。
そうでなければ、部隊の中でも火力に優れる百式砲戦車を大隊将校団の中でも上官受けの悪い崔中尉率いる第3中隊第3小隊、つまり編成表の最後尾に位置する部隊に配備させることはなかっただろう。大隊長も火力には劣っても戦車隊の主力は九七式中戦車であると判断していたのだ。
九七式中戦車は、日本陸軍で初めて国産化されて量産配備された八九式中戦車の実質的な後継車両として開発されていた。競合試作された2車両のうち安価な方が採用されたという話も聞くが、それも量産性を考慮された結果なのだろう。
それ以前に制式化された九五式軽戦車が機動用戦車であるとすれば、九七式中戦車は九五式重戦車が担う歩兵戦車としての役割を分担するものだと言えた。
日本陸軍の目論見どおり、九七式中戦車は機械化が進む各師団の戦車隊に大量配備が進んでいた。配備を解かれて旧式化した八九式中戦車は、再整備されたものを中華民国で購入していたが、それ以上に日本軍への配備が急速に進んだことで安価になっていた九七式中戦車の購入数も増えていた。
ところが、九七式中戦車の配備開始からまもなく、その前途には暗雲が垂れ込もうとしていた。日本帝国の仮想敵であるソ連の次期主力戦車が九七式中戦車を遥かに超える性能を有していることが分かったからだ。
少なくとも野砲級の大口径砲とそれに対応した装甲を備える機動戦車だというソ連軍の次期主力戦車が現実のものとなってしまえば、従来型の歩兵戦車などその価値は地に落ちるのではないか。
日本陸軍は軽歩兵戦車の大量配備という方針を一変させて、最終的に3インチ級高射砲弾道の主砲を備えるまでになった現行の三式中戦車に至る重量級の機動戦車開発に方針転換していた。
その一方でソ連軍戦車の性能が判明して方針転換が囁かれた頃は、新たに開発される三式中戦車の制式化までに長い時間がかかる事が予想されていたはずだった。その間の戦車戦力の均衡を図るために急遽制式化されたのが一式中戦車と一式砲戦車、そして百式砲戦車だった。
同時期に制式化された一式中戦車と一式砲戦車は兄弟関係にあった。旋回砲塔に長砲身57ミリ砲を備えた一式中戦車に対して、同じ車体に固定式の戦闘室と野砲改造の75ミリ砲を搭載したのが一式砲戦車だったのだ。
一式中戦車が比較的小口径ながら高初速の砲を近接戦闘で続け様に敵戦車に放つ間、炸薬量の大きい榴弾を用いて遠距離から敵戦車や対戦車砲を制圧することで一式砲戦車が援護を行う、そうした想定を日本陸軍は行っていたようだ。
その次の世代である三式中戦車は少なくとも野砲弾道の3インチ級砲を装備していたから、1つの車種で敵戦車に加えて対戦車砲の制圧までこなせると判断されたようだ。
ただし、一式中戦車は足回りなどに新規技術も導入されていたものの、基本的な車体部の設計は流用されたものだった。一式中戦車は、九七式中戦車の競合試作において、高性能で発展余裕も確保されていたものの、競合相手よりも高価であったことから不採用とされたチハ車を拡張したものだったのだ。
また、主砲である長砲身57ミリ砲も以前から研究されていたものだったらしい。
日本陸軍は九五式軽戦車に搭載された他に主力対戦車砲としても運用されていた37ミリ砲の後継装備として、47ミリ砲、57ミリ砲を同時並行で研究開発を進めていたらしい。
当初は47ミリ砲の設計検討が先行していたものの、予想されていたソ連軍戦車に対しては威力不足が指摘されており、結局57ミリ砲の開発に集中する為に47ミリ砲の開発計画は放棄されていたようだ。
欧州での戦闘を見れば、50ミリ級の戦車砲は早々に陳腐化するのは目に見えていたから、当時の日本軍の判断は正しかったと言えるだろう。
だが、軽量な47ミリ砲の不採用は、九七式中戦車にとっては逆風になっていた。実は、九七式中戦車の対戦車戦闘能力を向上させる為に、短砲身57ミリ砲から長砲身47ミリ砲に換装するという案もあったらしいというのだ。
口径は小さくなるものの、長砲身である47ミリ砲では薬莢長が長くなるから、反動は殆ど変わらないはずだった。つまり砲座周りや砲塔基部に特に大きな変更を行うことなく換装が可能ということになる。
ところが47ミリ砲の開発は放棄されてしまった。だからといって一式中戦車と同じ反動の大きい長砲身57ミリ砲をそのまま九七式中戦車の一人用の砲塔に搭載するのは難しかった。砲塔ターレットリング径が小さいものだから、大容量の砲塔に換装することは難しかったのだ。
その一方で、安価であったゆえに短期間で各師団の師団戦車隊に広く配備されていた九七式中戦車の対戦車戦闘能力を向上させる必要があると考えられていた。このような状況の中で応急策としては本格的なものとして計画されたのが崔中尉に与えられた百式砲戦車だった。
原型である九七式中戦車と百式砲戦車の関係は、一式中戦車と一式砲戦車のものに類似していた。つまり中戦車の砲塔を車体上部ごと撤去して固定式の戦闘室を設けたのだ。
既存車から改造されたものも相当数あったらしく撤去された砲塔は九五式重戦車の改装に転用されたと言うが、国民革命軍には同車の配備は無かったから詳細は崔中尉も知らなかった。
ただし、崔中尉は百式砲戦車の性格は同じ砲戦車であっても一式砲戦車とは異なっている気がしていた。百式砲戦車に搭載された砲が一式中戦車のものと同じ長砲身57ミリ砲でしかなかったからだ。
原型である九七式中戦車の短砲身砲と比べると、長砲身砲では格段に初速が向上しているから貫通距離には優れるものの、対戦車砲の制圧に必要不可欠な榴弾の炸薬量はむしろ減少していた。
貫通距離を重視した高初速砲の場合は発射時に砲身内部で発生する腔圧も膨大なものになるから、短砲身砲より薬莢容積が大きい、つまり装薬量の多い長砲身砲の方が砲弾の構造を強化しなければならないからだ。肉厚となった榴弾の内部に詰められる炸薬量は当然少なくなる道理だったのだ。
つまり、百式砲戦車は原型車よりも対戦車能力には優れるものの歩兵や対戦車砲の制圧には不向きであるから、陣地制圧が必要な攻勢よりも待ち伏せによる対戦車戦闘に特化した戦車だったのだ。
これでは、治安維持任務がもっぱらの国民革命軍では使い勝手が悪くなるのも当然だった。
しかも、百式砲戦車にはその形態ならではの問題もあった。固定式の戦闘室に配置された主砲は若干の旋回は可能だったものの、砲塔形式の戦車と比べると圧倒的に射界は狭かった。
その狭い射界に敵戦車を捉えるためには、発砲の瞬間まで敵から身を隠すための隠蔽能力に加えて敵部隊の進路を正確に予想する高い戦術眼を持つ指揮官が必要不可欠だった。
仮に敵戦車を射界に収められなかったときは、照準のために目標に対して車体ごと旋回する必要があったが、それは車体前方を中心に原型車よりも大重量化した百式砲戦車の足回りに負担を掛ける行為だった。
実際に百式砲戦車小隊は履帯や懸架装置などの損耗が多く、横流しに精を出す大隊主計からの受けは悪かった。そのせいで日常的な訓練でさえ制限を受けるほどだった。
しかも車体前縁から大きく突き出された長砲身の砲身は、低い位置に砲口があることもあって起伏に富んだ地形や障害物の多い森林地帯では容易に破損する可能性もあった。
こうした事故を防ぐ為には乗員に十分な訓練を施して車体の特性を覚えさせるしかないが、そのために必要な訓練は許されないという矛盾を砲戦車小隊は抱えていたのだ。
そのうえにそれなり以上に無理をして百式砲戦車に搭載した長砲身57ミリ砲は、欧州での戦闘では既に対戦車用途としてはすでに無力化されていると言っても良かった。
大戦序盤の50ミリ級砲がそうであったように、既に3インチ野砲から高射砲弾道程度の大口径砲を備えるようになった主力級の戦車に対しては60ミリ級砲では有効打を与えるのが難しくなっているらしいのだ。
もっとも戦車大隊の中では、旧式化する自軍の装備に危機感を抱いている将兵は少なかった。自軍以上に共産主義者達の装備が貧弱だったからだ。以前は九七式中戦車にとっても厄介なT-26軽歩兵戦車が確認されたこともあったが、損耗が激しかったのか最近では全く姿を見せることがなくなっていた。
中華民国が輸入する兵器の供給源だった日本帝国は、欧州での大戦勃発によって最新兵器の提供に応じなくなっていたが、それでも損耗部品の売却程度は細々と行っていたし、日本軍では九七式中戦車の運用は既に終わっているようなものだったから、在庫品の提供は盛んだった。
それに国内の製造業は貧弱なものだったが、旧式化した九七式中戦車の在庫整理とばかりに不要となった治具まで日本帝国は国民革命軍に提供していた。
結果的に百式砲戦車はともかく、九七式中戦車の運用に関しては概ね自力で体制が整っており、機械化装備では北方に追いやった共産主義勢力を圧倒しているというのが戦車大隊だけではなく国民革命軍全体にとっての認識だった。
だが、彼らの認識は大きく誤っていた。中原を追われて散り散りになって逃れていったはずの共産主義者達が、俄に勢力を取り戻して北方から現れたというのだ。
当初はこの知らせを重要視したものは無かった。最初に共産主義者と接触したのは第15師ではなかった。中央子飼いの精鋭部隊ではなく、北伐の過程で恭順した軍閥を改変した部隊だったのだ。
そのような部隊から送られたのは、これまで見たこともないような戦車を中核とした重装備の敵部隊が出現して損害を受けたという俄には信じられない報告だった。
最初のうちこの報告は偽電か、そうでなければ元軍閥部隊が損害を過大に報告したのではないかと考えられていた。以前も、大したことのない損害を針小棒大に言い立てることで予算や装備の配分で有利に立ち回ろうとするものがあったのだ。
政府に近い筋の監察が派遣されるという噂もあったが、それ以前に広い範囲に展開するいくつかの部隊が連絡を絶っていた。それらがいずれも共産主義勢力が落ち延びた外蒙古に面する地域であることに気がついた時にはもう手遅れだった。
百式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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九五式軽戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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