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1945中原内戦1

 陳博文が生まれた村は、言ってみれば中原の外れに位置する谷合にあった。その事を除けば華北平原外縁部によくある村の一つに過ぎなかった。


 本来であれば外縁とはいえ肥沃な中原に位置する村は人口に対して十分な収穫を得られるはずだし、実際に年間収穫量という点では資本を蓄積するのに足りる量であったはずだ。

 だが、この村が一定規模から飛躍することはこれまで無かった。定期的に組織だった収奪行為があったからだ。



 村から収奪を行う集団は清朝の崩壊に前後する混乱によって半世紀ほどの間に大きな変化があったのだが、村にしがみつくように生きる多くの村人からすればどの集団も本質的な違いはなかった。


 最初は匪賊だった。本来は地方の治安維持に目もくれない中央政府に代わる自警団として組織されていたはずの馬賊は、構成員の出身地以外に進出すると即座に単なる強盗集団である匪賊に変身した。

 陳達のような田舎の村の中では、半世紀ほど前から都市部で高まっていた革命の機運は自分たちとは無関係なものとしか考えられなかったが、混沌とする時制の中で匪賊たちは離散集合の末に革命に影響力を及ぼす程の大規模な軍閥に成長することも少なくなかった。


 尤も、「納税」を強要する集団が小規模な匪賊から軍閥になったところで村のものからすれば直接的には大きな変化は無かった。単に村から納税という名の収奪を行う盗賊の親玉がすげ替えられただけだったからだ。

 納税を行う構成員の顔ぶれに変わりがないのだから、組織の変化を察することは難しかったのだ。


 そんな村のものからすると、ある時期に現れるようになった共産党系の組織に関しても匪賊との違いは大して感じられなかった。

 むしろ武力を背景にした収奪行為という本質を隠そうともしない匪賊よりも、徴発ではないという建前にしか役に立ちそうもない軍票と思想教育を押し付けてくる共産党系組織の方がたちが悪いとも言えた。



 村のものが国家規模の正確な情報に触れる機会はなかったが、元々共産党系組織の中核は、各国の租界が集まる為に法執行機関の所掌が曖昧となることから地下組織が密かに活動しやすい上海を拠点としていた。

 一部の武装集団は南部に聖域を設定しようとしていたが、いずれも長続きしなかった。コミンテルンの強い影響下にあった上海の共産党系組織は、日英などが租界に進出させていた諜報機関によって徹底的な摘発が行われていたから、司令塔を失った地方機関の統制がとれなかったのだ。

 戦力の残されていた地域に逃げ込んだ共産党系組織は更にそこも追い出される事になった。やはり日英から得た最新兵器などを装備する国民革命軍精鋭が包囲網を敷いていたからだ。


 大規模な掃討作戦から逃れるために、共産党は中核を含む全戦力が、ソビエト連邦を構成する共和国の中でも最東端に位置するモンゴルへと向かっていった。

 どうやら陳の村に共産党系組織が訪れたのはこのときらしい。戦闘を行いながら脱出する過程で失った糧秣を補充する為だろう。

 長距離の脱出行で多くのものが脱走や戦傷で戦列を離れていったが、それだけに残された者たちの結束は強かった。いわば縄張りを侵された形となった地元の軍閥が国民革命軍の命令で彼らの行く手を遮ろうとしていたが、背面のモンゴルからの圧力もあって多くの共産党員は中原から脱出していったらしい。



 その後の共産党系組織の動向は不明な点が多かった。新たな聖域となったモンゴル平原で戦力回復を試みているという噂もあるし、ソ連領内で行われた激しい内部闘争の結果、遊撃戦理論を唱えて早期の中原再進出を試みていた一派が親ソ派によって粛清されたという話もあった。

 おそらくは、対独戦に集中したいソ連中枢がアジア方面での紛争勃発を望まなかった為に、コミンテルンを通じて中国共産党の活発な行動が抑えられていたのだろう。

 農村部を部隊とした遊撃戦が実施されていれば、辺境の村も否応なく彼らの闘争に巻き込まれていたかもしれないが、現実には共産党はモンゴルを聖域として密かに戦力を回復することに専念していた。



 そんな状況であったから、村の外れに共産党武装組織である工農紅軍を名乗る集団が訪れたという報告を受けた時も村長は諦観を浮かべた顔になってはいたが、特に大きな驚きは無かった。匪賊が現れた時のように、ある程度の糧秣を提供すればすぐに彼らは去っていくと思われたからだ。

 村長も国共内戦のことは知っていたから、久々に現れた共産党に便宜をはかれば後々政府筋から睨まれる程度の事は思いついていたはずだが、この村に彼らを追い払う政府の戦力が駐留していない以上は、国府軍も強くは言えないはずだった。


 報告を前にして村長も重い腰を上げていた。正直なところを言えば、共産党勢力の手先に多少の糧秣を提供したところで彼個人の懐は傷まなかった。

 どのみち村のものの多くは数学も分からないのだから、提供した糧秣の量を水増ししてその分を村人に多く求めれば良いだけの話だったからだ。糧秣を運ぶ人足さえ子飼いの連中にやらせておけば、後から正確な数字を知るのは不可能だった。


 村人の何人かも薄々は「納税」の度に行われる村長の不正を察している様子があったが、その程度は村長に厄介者たちの相手をさせる代金程度としか考えていなかったし、村長も知恵が働くから下手に学があったり村の有力者である家に割り与えられた納税の負担は小さくなるように出来ていた。

 陳の家はそのどちらでも無かった。村の外れに住む貧しい小作人の末弟に生まれた陳は、小さな頃から親や兄達にこき使われる毎日が続いていたのだ。



 だが、村長達には油断があった。気がついた時には遅かった。工農紅軍を名乗った連中は単なる先触れに過ぎなかったのだ。

 村の背後を通る街道から轟音が迫っていた。唖然とする村長達の視界に、村の近くで曲りくねる街道を通過するのに苦労した様子でゆっくりと姿を見せてきた鉄塊が見えていた。


 轟音を上げていたのは何台かの戦車だった。

 実のところ村長達も戦車を見たことがないわけではなかった。地域住民に対する宣撫工作を兼ねていたのか、共産主義者を追撃する国民革命軍が機械化部隊をこれみよがしにこの辺りにも進出させていたのだ。

 国民革命軍が装備していたのは、旧式化した日本製の八九式中戦車か九七式中戦車だった。

 日本陸軍には、それよりも大型で新型の戦車が配備されていたのだが、新型戦車は製造された端から激戦の続く欧州に送られていたから、蒋介石政権が望んでも日本政府としては参考資料程度にしかならない極少数車しか売却には応じられなかったのだ。


 村のものにはその旧式化した戦車ですら鉄牛として恐れられる位だったが、今現れた戦車は明らかにそれらよりも強そうだった。

 車体の寸法は日本製の旧式戦車よりも一回り大きいのだが、鋭角で箱組された洗練された形状の為か間延びした感は無かった。それ以上に強い印象を与えたのは、狭い街道では破損しそうな程無造作に伸ばされた主砲だった。

 巨大な砲塔から無造作に突き出された主砲は、砲口こそ日本製戦車のものと大して変わりがないように見えたが、砲身長は格段に大きかった。

 洗練された形状の車体は近くによってくると荒々しい鋳造跡と溶接痕が目立つものだったが、逆に肉食獣にも見える生々しさが感じられていた。



 唐突に出現した新時代の戦車、T-34の魁夷な姿に呆気に取られる村長達に、居丈高に赤軍の兵士達が通告していた。彼らの要求は一方的だったが、村長が予想していた糧秣の提供は二の次だった。

 何よりも優先されるのは兵員の補充だったが、考えてみればそれも当然だった。中国共産党がモンゴルを聖域として確保出来たとしても、構成員の補充は容易なことでは無かった。辺境のモンゴル平原は漢民族の居住地ではなかったからだ。


 モンゴル共和国となった外蒙古だけではなく、内蒙古でも兵員の補充は容易ではなかったらしい。単純にモンゴル系住民が中国共産党への参加に応じなかったというだけではなかった。

 理由は定かではないが、モンゴル系の共産党系組織の中でもソ連帰りと言われるモスクワ留学経験者を含む内蒙古の共産党員が漢民族への従属を拒否して満州に脱走してから、内蒙古から満州への人口流出が顕著であったらしい。



 何れにせよ、将来のことを考えても中国共産党には同胞である漢民族の将兵が必要なのは間違いなかった。ただし、闇雲に兵員を徴募するにはそれなりの理由を示す事が必要だった。人民を支配するには、飴と鞭の双方が必要だったからだ。

 共産主義者には抜かりはなかった。奇妙な程の笑みを浮かべた隊付きの政治将校は、腐敗した政府を打ち倒し、不正に蓄財された富を人民に分配すると言った。

 意味も半ば分からないままで村長達は愛想笑いを反射的に返しただけだったが、次の瞬間に笑みは凍り付いていた。政治将校は、手始めに汚職に手を付けた村役人から始末すると言うと、素早くソ連製の拳銃を抜き出して無造作に村長の頭部を撃ち抜いていたからだ。


 その後の展開は素早かった。村内に入った兵士達の数は少なかったが、彼らの背後には低いエンジン音の唸りを上げる戦車の存在が控えていたから、村民達は言いなりになるしかなかった。

 それに、村で一番大きい村長の家に押し入って家のものを足蹴にしながら兵士達が次々と運び出してくる糧秣や金銀などを目にした村のもの達の目には、次第にあやしい光が見え始めていた。長い年月を掛けて貯め込まれた物品は、村のもの全員で分け合ったとしても相当数があるように見えたのだ。



 蓄財の確認という一仕事を終えた政治将校は、村長の家の前にかき集められた村のものに対して言った。これからは全人民が平等に労働し、その成果を分かち合うのだから、腐敗した村役人が集めた財は全てこの村のもので今分配しなければならない。

 政治将校がそう言うと、村のものの中には喜びの声を上げるものも出ていた。陳は、目ざとく村長の家から搬出された金銀の一部が作業を行っていた兵士達の懐に入り込んだのを見つけていたが、何も言い出せなかった。


 兵士たちに食って掛かる村長の家族の中に、陳と同じ年の勇平が居た。村長の息子である勇平は、小さな村の中ではさほど多くはない同じ世代の子供ではあったが、心の底から友人とは言い切れない歪な関係だった。

 富農の村長の家と貧農の小作人である陳の家とではこの狭い村の中でも格差があったからだ。陳も勇平から博文という名前の割には文を知らないと無学を馬鹿にされてばかりだった。


 だが、それでも陳は勇平と友人だった。父や兄に殴られて土手で泣いているところを肩を抱いて慰めてくれた事があった。使い古しの玩具をくれた事もあった。悪い事もいい事もあった。勇平が陳をからかっていたのは、村長の家に生まれた疎外感を陳にぶつけていただけでは無いか。

 思わず手を伸ばしかけた陳の目の前で、いい加減喰ってかかることに苛ついたのか、粗暴な兵士が力一杯勇平を殴りつけて跪かせると短機関銃の銃口を向けていた。

 陳は、絶望した勇平と目があって声をあげようとしたが、それよりも早く銃口が火を吹いていた。



 崩れ落ちる村長一家の姿に村のものの間から悲鳴が起きたが、政治将校が一喝していた。陳にはその内容は聞こえてこなかった。あれほど尊大で大人顔負けの力があった勇平はもう動くこともなかった。


 誰がやったのか、蓄財が運び出された村長の家に火がつけられて、一家の躯も火葬代わりに次々と投げ込まれていた。

 肉が焼ける匂いが漂う中で、陳はようやく気が付いていた。これは共産主義者から与えられた飴と鞭などでは無かった。共犯者の結束を村のものに強制するのが目的だったのではないか。


 その日、人減らしの為に家族から徴募対象に書き加えられた為に陳は兵士となり、同時に友を失った。

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