1945ドイツ平原殲滅戦35
シェレンベルク少将がその銃声を聞いたのは、接収されたフランクフルト中心街にある高級ホテル上層の廊下にいた時の事だった。
既に周辺の目ぼしい建物の多くがフランクフルトに疎開した政府機関によって抑えられていたが、特に立地と規模の面で適したこのホテルは政府首脳の執務室と宿舎に指定されていた。
高級ホテルらしく、戦時下にも関わらず廊下には毛の長い絨毯が敷かれていたが、出征などによる従業員の減少で手入れが行き届かないのかくすんだ色をしている絨毯は銃声を押し殺してはくれなかった。
くぐもった銃声が聞こえてきたのは一回だけだった。ドイツ政府が疎開したフランクフルト周辺の治安は確保されていた。それどころか既にドイツ軍が未だにソ連軍の侵攻から守り続けていたドイツ南西部の領域にはフランスなどから進出してきた国際連盟軍の駐留も開始されていた。
ソ連軍の侵攻が国際連盟軍の進出に合わせるように停止している今、この戦争は終結するという認識が広まっていた。だからこそ銃声が聞こえてきたのはあまりに違和感があったのだ。
高級ホテルで響くには似つかわしくない自動拳銃の銃声に、シェレンベルク少将と同行していたカナリス大将は顔を見合わせると、お互いに何かを察した表情を浮かべながらゲーリング総統代行の執務室の扉を勢いよく開けていた。
磨き抜かれた執務机の向こうに広がっていた光景は、2人が予想した通りのものだった。
卓上に力なく投げ出されたゲーリング総統代行の右手には、まだ銃口から硝煙の上がるルガーP08拳銃が握られていた。
製造元のクリークホフ社によって特別誂え品を贈呈されていたゲーリング総統代行のP08は瀟洒な細工の施されたものだったが、もはやそれが持ち主の手で使われる事は二度となくなっていた。
こめかみの傷跡からはまだ新鮮な血が流れ続けていたが、ゲーリング総統代行が既に絶命しているのは明らかだった。唖然とする2人の目に、卓上に置かれた封筒が見えていた。
カナリス大将が封筒の中身を確認する間、予想外に穏やかなゲーリング総統代行の表情を見つめていたシェレンベルク少将は、無意識の内にそっと手を伸ばして故人の目を閉じていた。
「そういうことか……」
しばらくしてから独り言のようにそうつぶやくと、カナリス大将はシェレンベルク少将に封筒の中身を見せていた。反射的にホテルの部屋に備え付けられてあった便箋を受け取ると、恐る恐るシェレンベルク少将は遺書らしき便箋の文字を追いかけていた。
やはり中身は遺書だった。宛先に連名で書かれたゲーリング総統代行の妻子の名前に気後れしながらも、シェレンベルク少将は好奇心に負けて続きを追いかけていた。
あのショルフハイデのゲーリング総統代行の邸宅、亡き前妻の名を関したカリンハルは失われていた。ソ連軍に略奪される前に自ら爆破されたカリンハルから、妻子もこのフランクフルトに疎開しているはずだった。
何枚もの便箋一杯に書かれた文章のうち、最初の方は言ってみればありふれた内容の遺書だった。妻子を愛している事と、自死を選んだ事を詫びるのを美文とは言えないながらも力一杯の文で妻に向けて書いていた。
他人の家庭事情を裏側から覗き込むような悪趣味な真似に、今更ながらシェレンベルク少将は後悔し始めていたが、すぐにその様な羞恥心は吹き飛んでいた。
それはある意味で歴史の裏側を当事者の視線で追いかけているようなものだったからだ。
時間を掛けて便箋の文字を全て読み終えたシェレンベルク少将は呟いていた。
「そういうことか……」
カナリス大将も感情のこもらない声で同意するようにいった。
「そういう事だ。まさか国家元帥の前婦人がユダヤ人だったとはな。それがこの人がナチス政権幹部の中で唯一ユダヤ人に寛容であった理由、というわけだ。
しかし、すでに政権発足時には既に婦人が故人であったとはいえ、親衛隊は党幹部の家系に関しても通り一遍の調査は行っていたのではないか」
カナリス大将の言葉にシェレンベルク少将は考え込んでいた。
「どうでしょうか……この文章を見る限りでは、もしかするとカリン・ゲーリング本人も自身がユダヤ系だということを知らなかったのかもしれません。あるいは総統代行が空軍情報局を動かして事実を隠蔽していたか……
確かカリン・ゲーリング、いえ未だゲーリング夫人となる前の彼女はスウェーデンの家族的な宗教を信仰していたと言う話でした。もしかするとそれ自体が北方に逃れたユダヤ教の偽装だったのかも知れません。今となっては確かめようもない話ですが。
ですが、これを見ると閣下はだいぶ悩まれていたようですな」
無理も無かった。ナチス党は党是としてゲルマン民族の純血主義とユダヤ人排斥を掲げていたが、古参党員であるゲーリング国家元帥の前妻がよりによってユダヤ系であったというのだ。
ゲーリング国家元帥は、党是と故人である妻との愛情で板挟みとなっていたのではないか。それが時には私兵を動かしてまで行われたユダヤ人の保護や、そのままでは民族浄化の対象となっていたかもしれないユダヤ人難民のマダガスカルへの移送計画に対する尽力といった形で現れていたのだろう。
だが、感慨に耽っていたシェレンベルク少将の手から、カナリス大将がもぎ取るように乱暴に便箋を奪っていた。次の瞬間、シェレンベルク少将は目を見開いていた。執務机の上に置かれていたマッチでカナリス大将が便箋に火をつけていたからだ。
燃え盛る便箋を灰皿の上に置いたカナリス大将の顔を炎が赤く照らしていた。一瞬カナリス大将の顔が悪魔に見えたシェレンベルク少将はたじろいでいたが、すぐに眉をしかめながら制止の声を上げていた。
「それはゲーリング総統代行から奥様に送られた私信……いや、遺書だったのではありませんか」
批難の声を聞いたカナリス大将はばつの悪そうな顔になったが、すぐに小狡そうな顔になっていた。
「シェレンベルク少将、君もドイツを取り囲む大局を考えたまえ。いいかね、既にドイツ東北部の多くをソ連軍に占領されている今、我々は国際連盟側の勢力にいち早く復帰しなければならない。
おそらく、ドイツ北部にはソ連による傀儡政権が打ち立てられてしまうだろう。だからこそ常に我々こそが正当なドイツであると国際社会に強く働き続けなければならないのだ。
我々は政治的なものと同時に道徳的にも正当性を主張しなければならない……君ならその意味がわかると思うが」
シェレンベルク少将は、カナリス大将の独善的な物言いに憮然とした表情になるのを抑えきれなかった。
「つまりナチス党の全否定、言い換えれば今次大戦でドイツが犯した悪行をすべてナチス党に押し付けるということですか……」
「シェレンベルク君にしては随分と直接的なものいいだな。だが、概ねその通りだ。ドイツが戦後を生きていくためには免罪符が必要だが、それを得るにはナチス党を生贄に捧げるのが最も効果的ではないかな」
カナリス大将はわずかに微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「君には悪いが、表向き解散したとはいえども親衛隊も捧げられる生贄の一つにさせてもらうよ。ナチス党の尖兵として活動したのは親衛隊と宣伝させてもらう事で、何とか国防軍を守らなければならないのでね。
それほど長い時間では無いはずだ。講和の条件をみても、国際連盟軍といえどもソ連と対峙するには我がドイツの陸空軍の戦力をあてにしなければならないのだからな。
安心したまえ、私は君と親衛隊の諜報機関は高く評価している。君達は密かに国防軍情報部に合流できるように取り計らおう。国際連盟軍に対しても我々軍情報部がソ連情報を豊富収集している事を示さなければならないしな」
シェレンベルク少将は、うなずきながらも内心では不審の念を抱いていた。果たしてこの局面でドイツ北部のバルト海沿い地方とベルリンを明け渡したドイツ軍を国際連盟軍が高く評価する事などあるのだろうか。
それに、国際連盟軍がドイツに要求しているのはソ連軍と対峙するための兵力、言い換えれば頭数に過ぎないのではないか。
そうなればソ連との戦闘では発生確率の低い通商破壊作戦にしか使い道のないドイツ海軍に加えて、戦略を担当する参謀本部なども組織の解体や規模の縮小を強いられる可能性もあるだろう。
勿論シェレンベルク少将はそんな内心を表に出すことは無かった。カナリス大将もシェレンベルク少将の反応を気にした様子もなく続けた。
「ナチス党を率いる総統は悪人でなければ世論が納得しないだろう。総統代行がユダヤ人に友好的であった理由など誰も求めてはいないのだよ。
さて……こんな局面で政治的な空白を作るわけにはいかん。総統代行ではなく、次は大統領代理としたほうが良いだろうが、帰国したばかりだがアデナウアー特使に代表をお願いするのが最良だと思うが、君はどう思うかね」
カナリス大将の中では既に決定事項なのだろうが、シェレンベルク少将はただ頭を下げながらいった。
「それでよろしいかと。アデナウアー特使は以前より反ナチス活動で内外に知られておりますし、特使としての活動で今後重要となる国際連盟軍との交渉に有利な知己も得られておりましょう」
カナリス大将はうなずくと、燃え尽きた便箋を一瞥することもなく足早に部屋を出ていった。いち早くアデナウアー特使と接触しようというのだろう。
―――早くもキングメーカー気取りか……だが、そうそう軍上層部の思惑通りに民衆が動いてくれるかな……
そう考えながらも、憐憫に満ちた目でシェレンベルク少将は灰皿の中の燃え滓を見つめていた。便箋は燃え尽きていたが、その中身はシェレンベルク少将の脳裏に残されていた。
いつかゲーリング総統代行の妻子に再会したときには密かに伝えなければならない。そう考えながらシェレンベルク少将はゲーリング総統代行の遺体に向き直っていた。
誰も居なくなった部屋の中で、何故かシェレンベルク少将は右手を高々と差し上げてローマ式敬礼を行っていた。それがままならない人生を終わらせたこの男に一番ふさわしい気がしていた。
「さようなら、我が総統」
そういえば、この敬礼を本気でするのはこれが最初なのかもしれない。シェレンベルク少将はぼんやりとそう考えていた。