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1945ドイツ平原殲滅戦30

 ―――結局振り出しに戻っただけということなのか……

 荘口少将は飛行団長機仕様の一式重爆撃機に設けられた指揮官席から周囲を見渡しながらそう考えていた。そろそろ護衛の戦闘機隊が姿を見せるはずだった。



 荘口少将が乗り込んでいる一式重爆撃機は、排気過給器の装備によって高高度飛行能力を向上させた最新鋭の四型を原型として各種電探、無線機などの電子兵装を充実させた空中指揮官機だった。

 もっとも特別な空中指揮官仕様ではない一般の機体でも最近では電子兵装の増備が多かった。従来は爆弾搭載量や航続距離の減少を嫌って、重爆撃機に限らずに空中勤務者の中には無線機すら取り外すものさえいたのだが、開戦以後は電子兵装を活用した組織的な戦闘を行う例が多かった。

 日本軍の将兵が正式参戦前に義勇兵という建前で参加していた英国本土防空戦などでは、当時最新鋭の電子兵装であった電探が早期警戒網に組み込まれて効果的な戦闘機隊の迎撃に活用されていたが、現在では地上の大規模な司令部施設や余裕のある大型艦ばかりではなく、空中で航空隊の指揮を行う指揮官機も増えていた。


 生産が開始された直後から制式化も待たずに次々と前線に投入される最新鋭の電子兵装は初期故障も少なく無かったが、それでも細かな実績を積み上げていく事で、電子兵装も搭乗員達からの信頼を得ていたということなのだろう。

 あるいは、戦力の充実によって余裕が出てきたことから、単機の打撃力を極めるよりも電子兵装や防御機銃座の充実によって損害を極限する方が最終的には効果的であるという認識が生まれていたのではないか。

 それに今回の作戦では空中指揮官機の存在は必要不可欠だった。それだけ多くの部隊が一箇所に集中する作戦だったのだ。何らかの手段で空中で管制を行わなければならなかったのだ。



 本来、荘口少将は3個飛行戦隊からなる第6飛行団の指揮官だった。第6飛行団は、開戦時にまだ大佐だった荘口少将が率いていた第35飛行戦隊を含む地中海方面に展開する重爆撃機分科の飛行戦隊を集約した重爆撃機部隊だった。

 地中海派遣時は2個飛行戦隊から編成されていたのだが、その後さらに増援の1個戦隊が追加されていたから、飛行団の重爆撃機定数は100機を優に越えていた。


 重爆撃機のみで編成された第6飛行団は、北アフリカ戦線からイタリア上陸、さらに北上するイタリア戦線と激戦をくぐり抜けて来たが、その間に爆撃機部隊はさらなる大規模化を図っていた。

 新たに配属された新編の第10飛行団は、概ね第6飛行団と同様の編制である重爆撃機部隊だった。さらに防空用の戦闘機と直属の司令部偵察機をそれぞれ配備する飛行戦隊からなる第11飛行団を加えた3個飛行団を持って重爆撃機を中核とする攻勢部隊として第2飛行師団が編制されていたのだ。

 地中海戦線の日本陸海軍航空部隊の統一指揮を担当する第3航空軍は、この大規模化した第2飛行師団に前線部隊への支援ではなく徹底した航空撃滅戦を下命していた。イタリア半島に駐留するドイツ空軍を無力化して制空権を確保し、迅速な戦線の北上を図るためだった。

 前線に対する戦術爆撃は、双発の重爆撃機である九七式重爆撃機が従来の軽爆撃機に代わっていたし、大口径機関砲や対地噴進弾を装備する襲撃機も数を増やしていた。


 また、多くの場合は日本陸軍の重爆撃機隊は英国空軍の重爆撃機隊と連携して配属される事が多かった。

 同時に同じ目標を狙う訳ではなかった。重武装、重装甲と引き換えに爆弾搭載量の少ない日本陸軍の重爆撃機隊が露払いとなる航空撃滅戦を行っている間に、その逆に爆弾搭載量の大きな英国空軍が夜間爆撃でドイツ軍の拠点や交通結節点などを破壊して回っていたのだ。



 しかし、第6飛行団から見ると上級司令部となる第2飛行師団は、直接空中指揮を行う前線司令部では無かった。

 戦闘機隊を集約した飛行団などでは、荘口少将の様に空中指揮官機に座乗するどころか大佐級の上級指揮官である飛行団長が自ら操縦桿を握って出撃する事も珍しくないが、飛行師団の指揮官となると陣頭指揮を取ることはなく専用機や指揮官機の割当も無かった。

 飛行師団では司令官の他に参謀や数多くの事務要員からなる司令部も大規模である一方で、飛行団を除く直轄部隊は飛行場隊や防空部隊などの地上部隊ばかりで空中勤務者はいなかった。

 つまり、飛行団以下の指揮官が前線で戦術的な判断を求められるのに対して、飛行師団ではもっと大局にたった戦略的な判断が多かったのだ。それに飛行師団司令部は隷下に航空通信連隊を配備されており、通信、管制能力に優れるから、地上から大規模な航空部隊の指揮管制を行うことも可能だった。


 これは部隊の規模や格という意味では陸戦部隊とほぼ同等だと言えた。基幹戦力となる4個歩兵、戦車連隊を中核とする日本陸軍の師団は、平時においてはそれぞれ2個連隊を管理する2個の旅団に、有事の際は師団直轄の砲兵や工兵を配属して前線に配置するのが常套化していた。

 つまり陸戦部隊でも師団長と旅団長では役割が異なることになるが、これを航空隊に当てはめると荘口少将は旅団長に相当する職責を有しているということになるのだろう。



 だが、実際には作戦中に荘口少将に委ねられた権限は正規の編制が与える印象よりも大きかった。第6飛行団以外の飛行団の行動に関しても先任指揮官として統率しなければならなかったからだ。

 今回の作戦に投入される部隊は多かった。英国空軍から派遣された部隊を除くとしても、第2飛行師団隷下の2個爆撃飛行団に加えてこれまで英国本土に駐留して英国空軍と共にドイツ本土に対する戦略爆撃を実施していた第2航空軍指揮下の部隊から抽出された爆撃飛行団も参加していたのだ。


 ただし、第2航空軍隷下の爆撃飛行団は、今は第6飛行団の付近を飛行しているわけでは無かった。飛行空域は近距離無線機では交信不能な程に間隔がある筈だ。

 爆撃を実施する時間には大きな差は設定されていないから目標周辺では次第に空路が接近する筈だが、長い飛行時間の大半はお互いに連絡を取ることは仮に厳重な無線封止を行っていなくとも難しかった。


 飛行経路に大きな間隔が生じてしまった理由は、4発の大型爆撃機である一式重爆撃機を一挙に百機単位で出撃させる拠点を確保することが難しかったからだ。

 短時間で離陸を完了するには舗装された長大な滑走路が必要だったし、燃料、弾薬の事前備蓄も膨大な準備と輸送手段が必要だった。イタリア半島では第2飛行師団の拠点は前線から離れた地点が設定されていたし、英国本土でも重爆撃機の出撃基地は分散していた。



 距離があるのは第2航空軍指揮下の部隊だけでは無かった。更に遠く離れた空域では日本海軍の航空隊も爆撃目標に向けて進攻している筈だった。

 海軍航空隊の編成は部隊によって大きな差異も有るらしいが、今回の作戦に参加する航空隊の場合は重爆撃機の機体定数は陸軍の飛行団と同程度であると聞いていた。

 海軍では大攻と呼ばれていたが、日本海軍が今回の作戦に投入しているのは、基本的には荘口少将が乗り込んでいる一式重爆撃機四型と同等の機体だった。陸海軍では納入時から操縦系統などに若干の差異があるらしいが、機体構造そのものや補機を含むエンジン周りは同一仕様だった。


 一式重爆撃機を装備する海軍の航空隊は、以前は一式陸上攻撃機を装備していた部隊が多かった。

 採用年度は同じでも一式陸上攻撃機と一式重爆撃機は機体の性格が随分と違っていた。双発機ながら一式陸上攻撃機は、太平洋の孤島から長駆進出して、襲来する敵艦隊に肉薄して必殺の魚雷を叩き込む長距離対艦攻撃機だった。

 一式陸上攻撃機が機体下部に長大な爆弾倉を備えているのも、九六式陸攻では半ば外部にむき出しで装備されていた魚雷が空気抵抗となって速度と航続距離を低下させていたという教訓を受けて巨大な魚雷を機内に完全に収納するためのものだった。


 だが、双発爆撃機としては大きな打撃力と航続距離を併せ持っていたはずの一式陸上攻撃機は、欧州戦線での緒戦となったプロエスティ油田地帯への爆撃ではそれなりの戦果を上げたものの、陸軍、英国空軍と共同で行った二度目となる同地に対する爆撃作戦では作戦に参加した航空隊の戦力が実質的に半減するほどの大損害を被っていた。

 大損害の原因は、航法の誤りで油田地帯ではなく近郊のルーマニア王国首都ブカレストに接近してしまったことで集中した迎撃を受けてしまったこと、その際に初撃で指揮官機が撃墜されたために指揮系統の混乱が起こったことなどであったが、打撃力を優先した一式陸上攻撃機の防御力が低いことは確かだった。



 ただし、当時は飛行連隊長として同じ作戦に参加していた荘口少将から見ると、一式陸上攻撃機に対して海軍が向ける視線は厳しすぎるのではないかと考えていた。勝負は時の運ともいうが、あの時の一式陸上攻撃機部隊はまるで出目が全て悪い方に転んでいった博打打ちのようだったのだ。

 仮に同じ状況に追い込まれれば重装甲の一式重爆撃機でも大小はあれども損害を被っていた事に変わりはないだろうと考えていたのだが、日本海軍は一式陸上攻撃機という特定の機種だけではなく、航空雷撃という手段そのものに疑問符をつけているらしいとも聞いていた。

 そうでなければ、一式陸上攻撃機の実質的な後継機として開発が進められていた陸上爆撃機の計画が中止されることも無かったはずだ。単に一式陸上攻撃機の防御力が疑問視されていたのであれば、より高速で防弾装備も充実していた陸上爆撃機の早期実用化を図っていただろう。


 同時期に行われたマルタ島を巡る海上戦闘で得られた戦訓もあって、一式陸上攻撃機という機種に限った話ではなく、日本海軍の対艦攻撃機部隊に対する装備方針は仕切り直しとなったらしい。

 その間に一式陸上攻撃機が対潜機材を段階的に強化されながら長距離対潜哨戒機に転用されていったのに対して、再編成された対艦攻撃機部隊の一部は間隙を埋めるように一式重爆撃機を装備して地中海戦線に再展開していた。

 表向きは海軍陸戦隊に対する対地攻撃支援を目的としたものだったが、実際には同戦線に大規模な航空兵力を派遣すること自体が陸軍への対抗意識からなるものだったようだ。



 一躍陸海軍の共同運用機として運用されるようになった一式重爆撃機は、逐次防御火力、搭載エンジン出力や全開高度の上昇といった改善が施されていたが、頑丈な機体構造を持つ一方で海軍の主力攻撃機として運用するのは不条理な点も少なくなかった。


 日本陸軍の重爆撃機は、仮想敵である優勢なソ連空軍に対抗するために可能な限り緒戦で敵航空基地に在地の敵機を撃破することでその後の戦闘を有利にすすめる航空撃滅戦に使用するための機材だった。

 海軍の陸上攻撃機にも匹敵する長大な航続距離も、元々は前線を突破し敵中深く進攻して敵主力が在地する航空基地を目標とするためであり、機銃座や防弾鋼板の充実も敵機の迎撃を半ば想定していたからだ。


 その一方で他国列強の同等機種や陸上攻撃機と比べると機体規模に対して爆弾搭載量は少なかった。エンジン出力が仮に同一で同格の機体であれば概ね機体の総重量は同等であるはずだが、問題はそれをどのように割り振るかだった。

 大雑把にいえば、搭載量を重要視した海軍の陸上攻撃機に対して日本陸軍の重爆撃機は搭載量よりも防御や速度を重視した機体だったのだ。



 実際には日本陸軍は重爆撃機の搭載量の少なさをさほど重要視していなかった。在地の敵機を撃破するには対艦攻撃などに必要な大重量の徹甲爆弾や魚雷などは必要ないからだ。

 航空撃滅戦で多用されるのは軽量の焼夷爆弾や弾子を広範囲に散布する集束爆弾だった。目標が重装甲の艦艇やトーチカなどでは無く、在地の航空機であるため、爆弾単体の威力よりも広範囲に焼夷効果を発揮させる方が有利なのだ。


 だが、軽量の爆弾を多数搭載するのは爆弾倉中の空間における隙間が大きくなって効率はさほど良くなかった。一式重爆撃機の搭載量が機体規模の割に少ない理由の一つにはそうした爆弾倉の構造に起因するものもあったのだ。

 それに、一式重爆撃機の爆弾倉には別の問題もあった。胴体前後を結ぶ様に配置されている爆弾倉は、上下にはそれなりの嵩が確保されている代わりに、前後には他の箇所と同様に仕切りとなるフレームが配置されていた。つまり、機体を横方向から見ると爆弾倉は前後に分割されていたのだ。

 寸詰まりの対地爆弾はともかく、これでは長大な魚雷や大重量の対戦艦攻撃用の爆弾を搭載するのは難しかった。


 機体全体の強度計算に関わるため、一式重爆撃機の機体構造を大きく変更しない限り、爆弾倉の抜本的な形状変更は不可能だった。

 だが、この先も陸海軍の共有機種や更にその先の航空隊の統合、空軍の創設まで視野に入れるのであれば設計段階から両者の意識をすり合わせることが必要不可欠だった。


 ここから先の重爆撃機はどのような形になっていくのだろう。そう考えながら荘口少将は次第に接近する機影を見ていた。

 それは先行していた戦闘機隊だった。敵迎撃戦闘機との遭遇に備える為の戦闘機隊が合流し始めていた事で次第に機内の緊張感は高まっていった。

一式重爆撃機四型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/1hbc.html

三式襲撃機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/3af.html

九七式重爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97hb.html

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