1945ドイツ平原殲滅戦29
誘導路の端で停止したデム曹長のFw190Dに整備員達が群がると、誘導路の先に幾つか建設されていた掩体に手際よく収容していた。空襲を受けたばかりのせいか作業員には真剣な表情のものが多かった。
東部戦線を転戦して来た航空団付きの将兵と比べると、英国空軍の長距離爆撃を除けば戦火とは無縁だった本土の基地隊に勤務していた将兵の動きは、これまでどことなくおざなりに見えたものだったのだが、僅かな間に様子は一変していた。
それに出撃する前は単に草地に機体を並べた列線から順に出撃していったから、掩体に収容されるだけでも空襲の脅威からはだいぶ守られるのではないか。
整備員達の動きは素早かった。デム曹長のFw190Dを移動し終えるが早いか、次の僚機に向かっていったのだ。辛うじてFw190の機体を隠せるほどの高さに土塁を積み上げた掩体の中に取り残されたのは、デム曹長を除けば機付長一人だけだった。
疲労したデム曹長が四苦八苦しながら風防を開けていると、機付長は勢いよく主翼を登って操縦席をのぞき込んでいた。
「ざっと見た限り大きな損傷はないようだが、戦闘中に何か被弾した様子はあったかい」
デム曹長は僅かに首を傾げていた。
「いや……何度かイワン達の射撃は受けたんだが、立派な対空機関砲なんかはそもそも無かったと思う。ただ、歩兵が大勢で短機関銃を撃ってくるのは参ったよ。ケツの辺りがささくれだってないか。いくら低空でも拳銃弾が届くとも思えないが……」
後で見てみよう。そう言いながら機付長は機体の様子を見ながらも続けた。
「それで……戦果の方はどうなんだ。爆弾を抱えたまま帰って来た機体は無かったようだが……」
デム曹長は首をすくめていた。
「言われた通りにイワン達の上に爆弾は落として来たが、当たったかどうかは分からんよ」
じろりと機付長はデム曹長を見て呆れたような声でいった。
「あんた古参のパイロットなんだろう。それぐらい分からんもんかね」
デム曹長も眉をしかめて疲れた声で返していた。
「こいつの長鼻じゃ爆撃前にはもう下が見えないんだよ。照準器も射撃用で爆撃には対応してないしな」
「だが、地上攻撃航空団の中には、こいつと同型の長鼻で戦果を上げている部隊もあると聞くぜ」
「あいつら地上攻撃航空団のパイロットは皆普段から下ばかり見てるから、エンジンを透かして地上が見えるようになったんだろう」
投げやりな様子のデム曹長に、機付長も不満そうな顔になっていたが、それ以上は話題を切り替えていた。
「それで、爆弾を落としてきた相手は戦車か、それとも歩兵か」
興味深そうな機付長にデム曹長は首をひねっていた。
「いや……相手はトラックの車列だったな。それほど数もなかった。そういえば、荷台から誰か逃げ出す様子も無かったな。部隊の移動じゃなくて何かの補給品でも積んでたんじゃないか」
急に相手が無言になっていた。デム曹長は不審そうな顔で機付長の顔を見ると、彼は首を傾げてながら言った。
「どうも妙な噂がある。南方を前進していたソ連軍は一旦行軍を中止しているらしいんだ。一部はチェコに向かったらしいが、ライプツィヒに向かうかベルリンを直撃するんじゃないかと言われていた大部隊はどうもドレスデンの辺りで守りに入っているらしい。
北の……バルト海の方はもっと変で、側面に構わずに海岸沿いを突っ走っているらしい。リューベックはすでに占領されたという噂もあるようだ」
唖然としてデム曹長は機付長の顔を見つめていた。
「それは……どう言う事だ。イワンはベルリンなんか無視しているということか。いや、それが分かっているなら、何で陸軍はソ連軍の側面に機動しようとしないんだ」
機付長は首を振っていた。
「そのへんはよく分からんが……ベルリンはもう放棄されたって噂だぜ」
デム曹長は暗然たる表情を浮かべていた。
「その噂は聞いていたが、やっぱり本当なのか……ベルリン市民を後方にピストン輸送していたのは確からしいが」
機付長も負けず劣らず不満そうになった顔をうなずかせていた。
ベルリン放棄は政権変更直後から計画されていた方針であったらしい。ソ連軍が旧ポーランド国境線の向こう側に布陣した頃から組織的な疎開計画が持ち上がっていたのだ。
あまりにベルリンはソ連軍に近く、ここを守り切るのは現状のドイツ軍を取り巻く環境では不可能であると臨時政府は判断したのではないか。
最初に行われていたのはドイツ国鉄による鉄道網の修復だった。
以前は日英を主力とする国際連盟軍は、ドイツ国内の円滑な交通を阻害する為に、重爆撃機によって操車場やターミナル駅などを爆撃していた。だが、講和申し出の後から夜間爆撃は停止していたから、国鉄は重量級編成の列車を通す為に、ベルリン西部に集中して修復作業を行っていたのだ。
皮肉な事に実際には重量級の編成は必要無かった。現在は客車はともかく生産数が拡大されていた機関車はむしろ余っている状態だったからだ。つまり一つの列車編成を大きくするよりも、編成数の増大で対応出来ていたのだ。
東部戦線では、劣悪な自然環境に加えて補給兵站の要として真っ先に狙われる為に、機関車の損耗が激しかった。
これに対応するために、簡易戦時量産型とも言える型式が大量生産されていたのだが、東部戦線が失われた今となってはドイツ国鉄が管理する路線長に対して、最優先で退避されていた機関車の車輌数は過剰な程になっていたのだ。
東部プロイセンの包囲網下に取り残されて放棄された車輌も少なくなかったが、占領地帯であったフランスから引き上げてきた車輌もあるから数は足りている筈だった。
ドイツ国鉄に残存する有力な鉄道網を用いて、組織的に大規模な住民の疎開が始められていた。ベルリン周辺の住民の多くが僅かな荷物だけを抱えて着の身着のまま安全な西方へと送られていたのだ。
そして、民間人に続いて政府機関も脱出を開始していたらしい。機付長の話は更に続いていた。
「逃げ出したのは市民だけじゃなくて政府や官僚もそうらしい。それに東部方面軍司令部も移動を開始したという噂だ。それが本当かどうかは分からんが、何れにせよ陸軍は大規模な攻勢を行うような余裕はないようだ」
デム曹長は眉をしかめていた。簡単には納得できなかった。政府の疎開が事実であったとしても、これまで東部戦線を戦い抜いていた司令部が戦場が本土に移ったとしても戦略立案の柔軟性を失ったとは思えなかったのだ。
それに、国際連盟軍との講和によって東部戦線以外の各戦線から続々とドイツ本土に復員してきた部隊があったはずだ。一旦は国内予備軍預かりとなっているはずの部隊を再編成すれば、ソ連軍の急進撃に対応する予備兵力を抽出することくらい出来るのではないか。
帰国した部隊の一部は、国内の労働力不足を解消するために工場や農場に労働隊として直行させられているという話もあったが、膨大な数の部隊が全て労働隊に看板を掛け変えたとは思えなかった。
だが、デム曹長が疑問を口にすると、あっさりと機付き長が答えていた。
「予備兵力がどれだけいるのかは分からんが、国内予備軍の司令部はバルト海沿いに野戦司令部を展開したまま壊滅したとか、包囲下にあるとか聞いてるがな。もしかすると、国内予備軍はベルリンの周りを取り囲んだソ連軍の北から抱え込んだ戦力を叩きこもうとしていたのかもしれんなぁ」
デム曹長は不審そうな目を向けていた。機付き長の話は噂ばかりだった。そもそも国内予備軍は、本土や安全地帯であったフランス占領地帯などでの補充部隊の指揮監督や国内軍需産業の指導といった軍政が任務であったはずだ。
予備兵力の整備程度ならばともかく、野戦における指揮権などは持ち合わせてはいないのではないか。
だが、再度の疑問に機付き長は苦笑するばかりだった。
「国内予備軍の司令官はクーデター騒ぎですげ替えられたのは曹長も知ってるだろう。新司令官のルントシュテット御大は陸軍の古株だから、東部方面軍を率いるマンシュタイン元帥も扱いかねている間に暴走しちまったらしい」
話がどんどんと大きくなってきて、デム曹長は諦めた顔でため息をついていた。
「また噂、か。武装親衛隊も多くの部隊は雲散霧消してしまったと言うし、ドイツ軍は本当に戦争が出来るのかね。我らが太っちょ元帥は何をしてるんだ」
機付き長は首をすくめていた。
「さあね。西から殴りつけられる事はなくなったが、こっちの捕虜は返還しなきゃならんし、逆に捕虜になった仲間が即座に帰って来たわけじゃない。労働者不足で回らない工場もあるって言うし、ナチス党が無くなって風通しは良くなったが、締め付けるものも無くなったから皆好き勝手に動いている。
ゲーリング親父が総統になったからといって、どっちが良かったかなんて今の時点じゃ誰もわからんよ……ああそうだった。確かなことが一つだけあるよ」
自虐じみた笑みを見せた機付き長にデム曹長は嫌そうな顔になっていた。何のことなのかは分からないが、ひどく嫌な予感を覚えていたからだ。
機付き長は、掩体の縁から僅かに見える煙を親指で指しながら言った。
「曹長もしばらくは戦闘機として戦えるぜ。というよりもこいつを対地攻撃に回す余裕が無くなったとも言えるんじゃないかと思うんだが……」
こつこつと中途半端に開けられた風防を叩く機付き長を横目で見ながら、デム曹長は嫌な予感を覚えたまま言った。
「空襲を受けたようだが、何処をやられたんだ。うちのパイロット達が死んだのか」
「いや、幸いな事に死傷者は少なかった。パイロットには損害は無かったと聞いている。だが、肝心なものがやられてしまったな」
デム曹長はじろりと機付き長を睨みつけていた。
「勿体ぶらずにさっさと話せよ。あの位置なら列線に直撃を受けたのではないだろう……」
機付き長は首をすくめていた。
「嫌な話なんでな。やられたのは整備の倉庫だがね。幸いな事に爆弾が落ちたときは皆防空壕に逃げ込んでいたから人員に被害はない。その代わり、整備、保存していたジェットエンジンが全滅しちまったんだよ」
思わずデム曹長は額に手を当てて天を仰いでいた。それでは航空団主力の運用はそう遠くないうちに不可能になってしまうのではないか。
曹長はMe262のパイロットではないが、半ば強引に戦力化されたジェットエンジンは未だ熟成したとは言い切れず、僅か20時間程も運転すれば耐用限界に達してしまう代物だということは知っていた。
つまりジェットエンジンを搭載するMe262を円滑に運用するには、潤沢な予備部品や専門教育を受けた整備員が必要不可欠であったのだ。
天を仰いだ姿勢のままデム曹長は力無い声で言った。
「次の補給はいつ来るんだ。Me262は最優先で生産してるんだろう。しかも、もうイギリスの爆撃で妨害されることはないんだ……」
「さっきも言っただろう。国内予備軍は何処に居るんだか分からんし、ベルリンのベントラー街の官僚連中も移動中なのか展開中なのか満足に機能していないようだ。さっき聞いた話じゃ、エンジン整備隊の連中はユンカースの工場に乗り付ける勢いだったぜ」
「状況は悪くなる一方だな……まあいいや、俺達下っ端の兵隊がくどくどと考えてもろくなものにはならんだろう。あんたも出来る事からやってくれ」
デム曹長は、操縦席から這い出るようにしてFw190Dから降りるとこわばっていた体を伸ばしていた。隣接する掩体に僚機が格納されていくのを見てから飛行隊幹部を見つけて報告しようと歩き出していた。
ふと気にかかって歩みを止めたのは、機付き長が集まって来た部下を急かしながらFw190の整備を始めている掩体から抜け出した直後だった。
―――そういえば、爆撃が止まっているということは、イギリスや日本、国際連盟軍の戦力は今どこで何をしているのか……
しばらく考え込んでいたデム曹長はすぐに頭を振っていた。それこそドイツ空軍の一下士官でしかない自分が考えても意味がないことだ、そう割り切っていたのだ。