1945ドイツ平原殲滅戦23
ドイツ軍の前線陣地群を突破することには成功したものの、第9親衛重戦車連隊の損害は大きかった。
連隊長のイヴァーノヴィチ親衛少佐は、ようやく追いついてきた燃料輸送車から直接燃料を移送されているIS-3にもたれかかるようにしながら、渋い顔で手にした地図と書類を睨みつけていた。
どうやら予想以上にドイツ軍の弱体化は進んでいたらしい。それが開戦以来前線にいたイヴァーノヴィッチ少佐の実感だった。
ソ連軍による反攻が開始された頃から感じていたことではあったが、開戦当初のドイツ軍は十分な訓練期間を経ていた熟練兵を数多く保有していたものの、激戦の中で彼らの多くを失ったことによって多くの部隊が補充兵ばかりになっていた事が関係しているのだろう。
熟練兵の消耗と補充される若年兵という構図はソ連軍でも同様のはずだが、元々の両国間の人口差と何よりもソ連側は侵略者からの祖国防衛であるという分かりやすい目的が示されていた事が練度の低さを補う程の士気となって現れていたのではないか。
いずれにせよ、前線のドイツ軍はあっさりと後退を開始しており、残兵を収容した後方の拠点やベルリン近くで新たな防衛線を構築しつつあるらしい。
だが、こんな状況でも頑強に抵抗を続ける拠点もあった。全軍の先頭に立った重戦車や重自走砲は、そんな陣地一つ一つを犠牲を払いながら撃破して回っていたが、場合によってはドイツ歩兵が陣地を囮にして側面から戦車を攻撃してくることもあった。
最近ではドイツ軍の歩兵は近接戦闘で使用する対戦車火器を豊富に装備していた。簡易な無反動砲やロケット砲は射程が短く、凄まじい後方炎を発するから隠蔽した状態から発射する事も難しかったが、生産数が多いのか小銃は無くとも使い捨ての無反動砲は持っているという兵士を見かけることは多かった。
市街地などの遮蔽物の多い戦場では、分厚い装甲を持つ重戦車でも側面をつかれて撃破される例は少なくなかった。無反動砲などで使用される成形炸薬弾頭対策に車体周囲にどこかから見つけてきたベッドスプリングなどの適当な金網をつける車輌もあった。
オーデル川に沿って構築されていた敵陣を突破した後は、機動戦用のT-34を装備した部隊に先鋒を譲っていたが、中戦車では手古摺る目標に遭遇するたびに重戦車連隊は幾度も突撃を行っていた。新鋭IS-3重戦車はどんな相手であっても遅れを取ることはなかったからだ。
親衛重戦車連隊の損耗の原因となっていたのは戦闘よりも強引なまでの急進撃だった。ソ連軍の大軍勢は、逃げ去るドイツ兵を追い抜く勢いでひたすら西へと向かっていたのだが、その過程で少なからぬ車輌が落伍していたのだ。
IS-3が落伍していった理由は様々だった。戦闘で損害を被ったものもあったが、やはり実戦投入されたばかりの新型だけにISー3の特に機関部に生じた故障は多かった。
故障が発生した地点がばらけているものだから、落伍車に連隊の整備部隊を満足につける事もできなかった。第9親衛重戦車連隊では事前に徹底して整備を行っていたつもりだったのだが、それでも足回りの故障などで脱落する車輌が絶えなかったのだ。
問題は整備点検を伴う大休止すら最小限とした進撃速度にあった。ここしばらくは、第9親衛重戦車連隊の様に整備不良どころか燃料が尽きて補給部隊待ちの部隊を見かけることも珍しくなかった。
―――ファシストの主力をベルリンに押し込めているのに一体最高司令部は何を焦っているんだ……
イヴァーノヴィチ少佐は、ドイツの首都ベルリンを挟み込む様にひたすら西側に向かってソ連軍が進攻していく様子が描かれた地図を睨みつけていたが、上層部の思惑はどれだけ地図を確認しても分からなかった。
ベルリンを包囲するのであれば、すでに進攻路を捻じ曲げて後方を遮断してもいいはずだが、先行する部隊はひたすら西進を続けているらしい。これではまるでベルリンを無視しているかのようにも思えていた。
険しい表情のイヴァーノヴィチ少佐に声をかけようとするものは少なかった。連隊長車の乗員ですら気を使っていた程だったが、そこに第1中隊を率いるクラミン少佐が得意満面で来ていた。
「同志連隊長、軍団司令部からの命令が届きました。我が連隊は、再び軍団先鋒を仰せつかりました」
イワーノヴィチ少佐は眉をしかめたが、無言でクラミン少佐の顔を見つめていた。まだ話には続きがあるはずだった。不機嫌そうな顔には気が付かなかったのか、手元の電信文を見ながらクラミン少佐は続けた。
「これは凄いぞ。攻勢到達点はハンブルク―リューベック線、連隊は跨乗歩兵を伴い損害に構わず前進せよとのことです。これは連隊にとって名誉なことですよ」
クラミン少佐は嬉しそうな声だったが、イヴァーノヴィチ少佐は眉をしかめたままだった。
「目標はハンブルク、だと。まだ西に向かうのか。それではベルリンも北方の敵軍も放置する、ということか……」
オーデル川陣地を突破してしばらくしてから、バルト海沿いから唐突にドイツ軍の奇妙な攻勢が開始されていた。これまで確認されていなかった長射程のロケット兵器が、バルト海沿岸近くに展開していた方面軍司令部の一つに集中して撃ち込まれていたのだ。
少なくとも100キロ程度という前線を遥かに越えた長大な射程から考慮すると、発射されたロケット弾が何らかの誘導を行っているのは間違いないらしい。
もっとも誘導方式に技術的な限界でもあるのか、あるいは当初から方面軍司令部の場所を正確に把握できていなかったのか、ロケット砲弾の中には司令部から10キロ以上も大きく離れて着弾したものも少なくなかったらしい。
実用的な精度は持ち合わせていなかった長射程ロケット弾だったが、方面軍司令部に生じていた実害は大きかった。砲弾に近いロケット兵器の弾道は迎撃不可能なものだったから現地司令部要員の混乱は大きく、精度が悪くとも撃ち込まれた数が多かったから司令部直属部隊にも損害が出ていたようだ。
一時は方面軍司令部が壊滅して司令官も戦死したという噂も流れていた。実際には通信部隊が吹き飛ばされただけだったらしく、しばらくしてから方面軍司令部の機能は回復していたのだが、バルト海方面軍に限らずに司令部機能の一時的な損失がソ連軍前線部隊にもたらした混乱は大きかった。
だが、結果的にこの長射程ロケット兵器がもたらした最大の影響はこの混乱であったといっても良かった。実際に部隊に生じた損耗という意味では殆ど無視してよいほどだったのではないか。
前線の各軍団はロケット兵器使用後にドイツ軍の反撃を警戒して防御体制に入ったものも少なくなかったのだが、この時期に確認されたドイツ軍の反撃は散発的なものでしかなかった。
前線にいたイワーノヴィチ少佐にはどうもよく分からないが、ロケット兵器の発射はドイツ全軍の指揮系統とは外れた所から行われていたのではないかという声もあったようだ。それでロケット兵器がソ連軍にもたらした混乱を十分にドイツ軍は活かせなかったということらしい。
仮にバルト海方面軍司令部に混乱が生じた瞬間に行動を起こせばソ連軍右翼にも危機が迫っていたのかもしれないが、実際にはドイツ軍主力には一息ついた以上の効果はなかったようだ。
しかし、バルト海沿岸のロケット発射予想地点には、未だに大規模な発射施設やある程度の部隊が駐留していることも確認されていた。
おそらく大半のロケットは一斉発射されて消耗していたのだろうが、残存するロケット兵器本体もあるかもしれないし、守備隊か予備部隊か分からないが、現地のドイツ軍が発射基地を捨てて南下すれば、バルト海方面を進撃するソ連軍各隊の後方連絡線を遮断される危険性も残されていた。
だが、そのようなイヴァーノヴィチ少佐の懸念をクラミン少佐は一笑に付していた。
「バルト海沿いのドイツ軍基地に対しては我が赤色海軍が対処するとの事です。艦砲射撃と海軍歩兵の投入で海から制圧を図るべく既に艦隊が出撃したと聞いています。我々の側面には何の心配もありませんよ同志連隊長」
「海軍歩兵だと……連中はレニングラードで散々な目にあっていたんじゃないか。第一、まともに艦砲射撃が出来る程の艦隊が残っているのか」
クラミン少佐も少しばかり表情を暗くしていたが、すぐにわざとらしい笑みを浮かべていた。
「艦隊の再建は進んでいると聞いていますし、それ以前にそれは海軍が心配することであって、我々は党と司令部から与えられた任務に邁進するのみです。
それとも同志連隊長……イヴァースィク・イヴァニューク・イヴァーノヴィチ、歴戦の勇士であるあなたが臆されたのですか」
それを聞くなりイヴァーノヴィチ少佐はかっと目を見開くと、殺気を隠そうともせずにクラミン少佐を睨みつけていた。
「馬鹿なことを言うな貴様。俺はファシストを一人残らず始末する迄死ねないだけだ」
イヴァーノヴィチ少佐は、言い終わる前にクラミン少佐に乗せられたことを察していた。わざと刺激的な発言を行って反応を引き出そうとしていたのだろう。クラミン少佐はイヴァーノヴィチ少佐の殺気に気圧されながらも頷いていた。後から自分に都合のいい部分だけを抜き取るつもりではないか。
だが、それが分かってもイヴァーノヴィチ少佐は言葉を止められなかった。
「準備でき次第前進再開だ。それと……俺はイヴァニューク・イヴァースィク・イヴァーノヴィチだ。いいか、忘れるな」
クラミン少佐は態々ウクライナ語で言い返したイヴァーノヴィッチ少佐の反応が読みきれずに、怪訝そうな顔で敬礼すると慌てて自分の中隊に走り去っていた。
もとからウクライナ人としての誇りを言ったところで理解されるとは思えなかった。イヴァーノヴィッチ少佐がクラミン少佐の背中を睨みつけていると、飄々とした声が掛けられていた。
「同志連隊長、補給は終了したようですよ。しかし……目標はハンブルクですか。これは我々はデンマークまで走らされるかもしれませんなぁ……」
側で聞き耳を立てていたらしいマルケロフ大尉の様子に、イヴァーノヴィチ少佐は呆れたような顔を向けていた。
「上官の話を立ち聞きするのは良い共産主義者とは言えないな、同志政治将校。それで、一体どこからデンマークなんて突拍子もない話が出てくるんだ」
マルケロフ大尉は深く考え込んだ表情になっていたが、太鼓腹の大尉が背を丸めて考え込んでも様にはならなかった。だが、その愛嬌のある姿と違って話の内容は物騒なものだった。
「おそらくモスクワは戦後の……戦後の通商路の事を考えているのではないかと思われます」
予想外の話に呆気にとられたイヴァーノヴィチ少佐の顔を興味深そうに眺めながらマルケロフ大尉は続けた。
「この戦争の間我がソビエトはアメリカーニェツからの物資を満載した船団をアルハンゲリスクの港で受け入れ続けましたが、コラ半島を越えるその航路はあまりに長く、険しいものでした。
その一方で、白海からバルト海には戦艦も通せる立派な運河が存在します。もしそれに加えてバルト海から北海に出る航路を安全に利用出来るのであれば、アメリカーニェツとソビエト中枢との貿易は格段にやりやすくなるはずです。
理由はよくわかりませんが、ニーメッツと国際連盟は手打ちをしたものの、まだうまく行っていないようですな。モスクワとしては、ヤポニエーツやアングリチャーニン達がニーメッツ達に介入する前に勢力図を書き換えてしまうつもりなのでしょう」
ようやくマルケロフ大尉の真意に気がついたイヴァーノヴィチ少佐は、再び険しい顔になっていた。
「本当の目標は北海に達するためのキール運河の奪取、ということか……だが、それではベルリンは、ファシストの首都はどうするんだ。このままでは奴らに止めをさせないじゃないか」
マルケロフ大尉は首をすくめていた。
「何でもヒトラー総統は死んだそうじゃないですか。同志スターリンはヒトラー総統無きファシスト政府は大した脅威とは思っていないのではないですかね」
イヴァーノヴィチ少佐は不機嫌そうな声で吐き捨てるように言った。
「ファシストはファシストだ。総統が誰だろうとファシストは皆悪魔だ」
連隊でその声を聞いていたのはマルケロフ大尉一人だけだった。