1945ドイツ平原殲滅戦21
中隊に出された陣地転換命令は急なものだった。少なくとも当初池部大尉達は理由も知らされずに右往左往させられる羽目になっていたのだ。
急派されたチェコ派遣軍は、僅かな兵力で全長500キロ近くにも達するチェコ共和国とポーランド、そして実質的にチェコから切り離されたスロバキア共和国との国境線を警備すべく展開していた。
概ね1個歩兵師団が前線で防御に入る場合は広くとも10キロ程度の戦区を担当するのが常識的なやり方だったが、チェコ派遣軍にはとてもそこまでの兵力を用意することは出来なかったから、戦力密度は低く僅かな警戒部隊しか配置できない地域も多かった。
その中でも池部大尉達が所属する日本陸軍第7師団は、ポーランド、チェコ、ドイツの3か国の国境線が一点で交わるリベレツ市の近くに配備されていた。
先頃までドイツに編入されていたズデーデン地方の中心地であったリベレツはチェコ共和国全土からみても交通の要衝であったから、ソ連軍の侵攻が現実のもとなった場合はリベレツ守備戦力の多寡はチェコ全体の作戦計画に大きな影響を及ぼすはずだった。
日本陸軍第7師団はチェコ派遣軍の中でも基幹戦力となる有力な部隊だった。派遣軍に配属された他の師団と比べて高度に機械化されている上に部隊規模が大きかったからだ。
他国列強の多くは、先の欧州大戦時の教訓などから師団の主力戦力である歩兵連隊を4個保有する4単位師団から、3個連隊で1個師団となる3単位師団に改変していた。
主力部隊の数が単純に多いことから4単位師団は戦術的な柔軟性が高く、また師団に配属された兵員数が多いことから消耗にも強かったが、逆に師団の数を増やすことは難しかった。
3単位師団を選択した各国は戦術上の柔軟性よりも、同じ兵員数でも師団を増やせる3単位師団とすることで補充の容易さも含めて戦略的な柔軟性を重要視していたと言えるかもしれない。
日本陸軍が大規模編制の4単位師団を頑なに維持し続けているのは、予想される戦場であるシベリア―ロシア帝国とソ連が対峙するバイカル湖畔において優勢なソ連軍に対して長時間の遅滞行動を余儀なくされるのではないかという想定があったからだ。
この地域は両国の境界線となったことで両勢力の防衛施設が十重二十重と築かれていたが、その一方で一般の交通網や民間施設は少なく両国間で分断されたシベリア鉄道の沿線以外に大軍が展開するのは補給の点からも難しかった。
だから両軍とも十分に時間を掛けて構築された陣地群を抜くには火力を全面に押し立てた力押ししかないと考えていた。
この戦場で最悪の場合は大規模な増援が得られるまで友軍と共に遥か帝都ハバロフスクまで遅滞行動を継続しなければならないと考えていた日本陸軍は、戦略単位である師団の数は少なくとも打たれ強さを優先して4単位師団からなる軍制を選択していたのだ。
敵軍と近接した遅滞行動を連続して行う場合はおそらく師団単位の交代など不可能であるから、戦略単位を増大させても大きな意味はなかったのだ。
尤も、規模が大きく指揮系統が肥大化した日本軍の師団は実戦においては大きく2つの支隊に分けられることを想定していた。平時から2個歩兵連隊を指揮下に置く旅団に、師団直轄の砲兵連隊や師団戦車隊を配属するのだ。
それが図体の大きな4単位師団で柔軟な指揮を取るやり方だったが、場合によってはより上位の方面軍直轄の独立部隊を配属させる事も少なくなかった。
第7師団の場合は、他の日本陸軍の師団と比べてもさらに重厚な戦力を有していた。広大な演習場を有する北海道に駐屯することや、仮想戦場であるシベリアに冬季の環境が近いことから、第7師団は有事の際は最優先で日本本土からシベリア送りとなるはずの精鋭部隊であった。
その為に第7師団は重装備をふんだんに与えられて機械化された機甲師団に改変されていたのだ。
第7師団の基幹戦力は他師団と同じく4個連隊で構成されていたが、師団主力の半数となる2個連隊は歩兵では無く戦車連隊が配属されていた。
残る2個連隊の歩兵部隊も装甲兵車に乗り込む機動歩兵化された部隊であるし、同様に師団砲兵も自走砲装備の機動化部隊だったから、展開速度は他の師団と比べて格段に高かった。
主力の戦車2個連隊の定数だけで200両を超える上に、師団捜索隊も他師団よりも大規模な連隊規模で隊内に中隊単位で配属された戦車隊を有するから捜索連隊単体でも威力偵察が可能だった。
他師団と同じく、第7師団も戦闘時は2個支隊編成となることが想定されていたが、平時においては戦車旅団、歩兵旅団に分かれていたものが有事は各旅団に戦車、機動歩兵の各1個連隊となっていた。
これは諸兵科連合部隊として戦場で運用するためであり、支隊には更に機動砲兵の支援がつくはずだった。
だが、幾ら機械化によって高い機動力を与えられたからと言っても本来は師団内の支隊が単独で別個に離れた戦域に投入されることは想定されていなかった。
師団の支援部隊は遠く離れた戦場に分岐するほど多くの部隊を有していないし、それ以前に旅団はともかく砲兵隊を除く多くの支援部隊は2個に分かれて行動できる程の指揮機能がないからだ。
ところが、今回は池部大尉達が配属された高瀬支隊は師団主力から切り離されて100キロ程西進することが命じられていた。
訳も分からぬまま、リベレツ郊外に構築したばかりの戦車壕から這い出て移動を開始した池部大尉達に詳細な事情がわかり始めたのはしばらくしてからだった。
実は、チェコ領内の道路を行軍する池部大尉達に並進するように、国境線の北方にあるドイツ領内でもソ連軍が西進を行っているというのだ。
その話を最初に聞いた池部大尉達は愕然としていた。集中攻撃を受けたドイツ軍の前線は、予想よりも遥かに短時間で崩壊していたというのだ。
このような事態はチェコ派遣軍にとって大きな脅威となっていた。本来は、派遣軍の任務は、スロバキア共和国が失われたことで半減してしまっている残されたチェコ領内へのソ連軍の侵攻を阻止する事と共にドイツ軍の前線側面を間接的に援護する事であったからだ。
ところがドイツ軍の前線が大きく西方に後退したことで、逆にチェコ派遣軍の側面どころかチェコ、ドイツ間の長大な国境線が無防備な状態で晒されてしまっていたのだ。
国際連盟軍も基本的に劣勢なドイツ軍が最終的に後退を強いられる事自体は予期していたものの、渡河したソ連軍の火力に耐えきれずに遅滞行動に移行するにはまだ間があると考えられていた。
ところが、遅滞行動への移行どころかドイツ軍の前線は短時間のうちに崩壊していた。どうやら前線のドイツ軍将兵の士気は相当に低下していたらしい。
高位の将軍達はクーデター騒ぎの後でも不思議と現政権に忠誠を誓い直していたらしいが、武装親衛隊などの将兵の間では相当に不満が高まっていたというのだ。
いずれにせよ、僅かな抵抗を蹴散らすとソ連軍は集中した火力でこじ開けた巨大な突破口から西進を開始していた。ソ連軍の突破口は南北に集中していた。南部はチェコ国境線にほど近い距離を西進しており、北部はバルト海沿いを進んでいた。
ドイツ軍の前線には幅広く攻撃が加えられていたものの、中央部にはソ連軍の攻勢は陽動と思われる程度のものしかなかったらしい。突破口の間口は大きく、周辺に展開するドイツ軍がソ連軍の後背を突くように機動することは出来なかったようだ。
ソ連軍の攻勢はドイツ軍の予想外であったようだ。攻勢規模もそうだが、突破された位置も想定とは異なっていた。ドイツ軍上層部の判断となると正確な所はわからないが、機動反撃用の精鋭部隊は首都ベルリン周辺に集中していたらしい。
北部、というよりもバルト海沿岸にもソ連軍が攻勢を開始するまでに移動したドイツ軍の有力な部隊が駐留していたようだが、ソ連軍の進攻路とは微妙にすれ違って遊兵化しているとの噂もあった。
初期の混乱から脱したドイツ軍は、今回のソ連軍の攻勢は大規模な両翼包囲であると判断していた。あるいは既にソ連軍は戦後を見据えた行動を開始していたのではないか。
本格的にソ連軍が国際連盟軍と事を構えようとしているかどうかは分からないが、仮に今次大戦が終結したとしても、戦後は国際連盟とソ連が欧州中央で対峙することになるのは明白だった。
もしソ連が戦争終結だけを狙ってドイツを屈服させることが目的であったとすれば、前線中央部に戦力を集中させて一挙に首都ベルリンに迫っていたはずだった。
だが、実際にはむしろベルリンを避けるようにソ連軍は前線の突出部を南北それぞれで西へ西へと拡げていた。このまま事態が推移すれば、いずれは北部のソ連軍先鋒が南下を開始して、南部から突出した部隊と共にベルリンを包囲するのだろうと考えられていた。
そうなればベルリン周辺に配置されたドイツ軍に残された最後の野戦部隊が丸ごと消滅することになるから、戦力を残したドイツを共産主義勢力との防波堤に据えるという国際連盟の思惑も外れることになってしまうはずだ。
右往左往していたドイツ軍は、ベルリンの放棄を決定したらしいという未確認情報もあった。お互いに側面を援護するはずだったのに、ドイツ軍とチェコ派遣軍との間には直接連絡を取る手段はなかったのだ。
それに既にチェコ派遣軍とベルリンの間にはソ連軍が入り込んでいる為に、物理的に伝令を走らせるのも難しかった。急進撃を続けるソ連軍の前線突出部の部隊密度が高いとは思えないが、逆に言えばどこに彼らがいるのかも分からないだろう。
噂だがすでにベルリン周辺の住民を対象とした組織的な南西部への疎開が開始されたようだった。航空部隊によれば何編成もの疎開列車がドイツ国鉄を走っているらしいというのだ。
既に首都を実質的に失ったドイツの敗北は決していた。おそらくは軍も疎開民を追ってベルリンを離れるのではないか。彼らには昨年のソ連軍の大攻勢でポーランド北部に展開していた機甲部隊を含む北方軍集団を丸々包囲された苦い記憶があるからだ。
だが、ベルリン防衛の部隊が無力化されれば、ソ連軍が余勢を買って南方のチェコ領内に侵攻する可能性も高かった。主力を向けるまでもなく、防衛体制の整っていないチェコに僅かな兵力を向ければ、熟柿を落とすように労せずして広大な領域を手に入れられるのではないかという誘惑があるからだ。
この危機にチェコ派遣軍が投入できる戦力は少なかった。派遣軍主力が展開するチェコとポーランド、スロバキアとの国境線も決して安泰とは言えないからだ。
結局、いくつかの独立部隊を除けば派遣軍主力との合流が遅れていた2個師団を足を止めずに北上させたものしかなかった。池部中隊が配属された高瀬支隊はこれを援護するなけなしの機甲部隊だったのだ。
だが、この2個師団の戦力は心もとないものだった。満州共和国軍が派遣していた第10独立混成師団は同国軍最精鋭とも言われる重装備の機械化歩兵師団であったが、もう片方はロシア人捕虜で編成されたロシア師団であったからだ。
ロシア師団の大半の将兵は元々ドイツ軍に捉えられたソ連軍の捕虜だった。労働者不足を補うためにドイツ国内で労働に準じていた彼らは、兵員不足を補うためドイツ軍が組織した東方部隊に編入されたが、脱走を警戒したドイツ軍は東方部隊を対ソ連戦ではなく地中海方面に投入していた。
そこで今度は国際連盟軍の捕虜となった彼らをさらに組織的にシベリア―ロシア帝国軍に編入したのがロシア師団だった。
巡り巡ってロシア師団は以前の戦友たちと砲火を交えようとしていたのだ。