1945ドイツ平原殲滅戦16
チェコ回廊という言葉が国際連盟軍の中で囁かれ始めたのは最近の事だった。
一時期は数多くの同盟国を従えて欧州全域を支配する勢いだったドイツはその勢力圏を著しく後退させていたが、国際連盟との講和交渉が開始された時点でも、主戦線であるドイツ東部以外に展開する部隊は少なくなかった。
講和条件では戦前、というよりもナチス党台頭以前のワイマール共和国時代の領域まで撤兵する事を国際連盟側は求めていたが、これは戦力の集中という意味ではドイツにも利があったらしい。講和はあくまでも国際連盟とドイツ間の事であって対ソ戦は継続していたからだ。
皮肉な事に、ドイツ軍が言うところの東部戦線ではソ連軍の大攻勢を受けて東プロイセンを含むポーランド全域から撤退を強いられていたことから、講和条件にあった旧国境付近まで前線は後退していた。
それ以外の領域では国際連盟軍と入れ替わるようにドイツ軍は本国へと帰還しており、今やそれらの地域ではソ連軍と国際連盟軍が陣地争いを行っていた。
そのような状況において、旧チェコスロバキア共和国の領域は戦力の空白地帯となってしまっていた。きっかけはいくつかあった。最初の蹉跌は国際連盟軍のオーストリア占領の躓きにあった。
イタリア戦線終盤でドイツ軍との講和交渉を開始した国際連盟軍は、ドイツ軍の後退を追いかけるようにアルプス山脈を越えてオーストリアに軍を進めていた。
ところが、オーストリアで行われた軍政は、その初期段階においては失敗していたといえた。理由は明らかだった。急なドイツとの講和によって準備不足だった国際連盟が、現地で実行力のある組織や政治家との折衝が不十分のまま強引に軍政を開始していたからだ。
開戦以後に侵略された各国とは異なり、オーストリアのドイツ併合の後も国際連盟側には亡命政府は存在していなかった。
そのために水面下で講和交渉を行っていたイタリア王国や、国王自ら亡命先から帰国して抵抗運動と合流したユーゴスラビア王国の様に、円滑に現地勢力の協力を得る事が出来なかったのだ。
オーストリアの政府機能は、併合後は次第に現地のドイツ系住民に浸透されていたが、彼らの多くは講和後の報復を恐れていたのかドイツ本国にいち早く脱出していた。
ドイツ本国からの搾取を苦々しく思っていたのかオーストリアの人々もドイツ系市民の出国を止めようとはしなかったが、だからといって征服ではなく併合されたオーストリア国民の多くは国際連盟軍に対しても好印象を抱いていたわけでは無かった。
表向きにはされなかったが、オーストリア国民の印象が悪化したのは、国際連盟軍の中でオーストリアに最初に進駐したのがインド師団や旧植民地からやって来た自由フランス軍極東師団などの有色人種ばかりで編成された部隊だったからでもあるのではないかとも考えられていたからだ。
インドシナ半島等からの将兵が欧州に上陸した頃から、ドイツ宣伝省は巧みに自国民に限らず勢力下の住民に対するある種の宣伝を行っていた。有色人種達の蛮族が植民地にされた恨みをはらす為に欧州にやって来たというものだった。
つまり今次大戦は政治的な対立に加えて人種対立、白人対有色人種の戦いでもあると宣伝していたのだ。
ドイツ宣伝省は講和交渉によってその活動を殆ど停止していたが、欧州に厄介な置土産である選民思想を残していた。ドイツ軍が去ったあともオーストリア人達は漠然とした有色人種への不安を抱いていたからだ。
英第8、第9軍による治安維持活動は停滞していた。住民達は占領軍兵士が起こした僅かな齟齬からも人種対立の火種を作り出していたからだ。
だが、国際連盟軍のそのような錯誤をソ連は見逃さなかった。オーストリアとポーランドの間に広がるチェコスロバキアのうち、東部のスロバキア共和国に侵攻していたのだ。
英仏とドイツとの間で締結されたミュンヘン協定を切欠として旧チェコスロバキア共和国はドイツによって3分割されていた。ズデーデン地方はドイツに割譲され、残るチェコ人の多い西部はベーメン・メーレン保護領になり、形式上のことでしかないがスロバキア人の多い東部は独立国家となっていた。
実際には傀儡国家に過ぎないスロバキアには満足な自国の防衛体制などある筈もなく、ソ連軍の侵攻に対抗できる筈もなかった。
この時スロバキアに侵攻した戦力は、ソ連軍全体からすればさほど多いものではなかった。ドイツ軍の主力と対峙する各方面軍から抽出された支隊に過ぎなかったのだろう。
だが、僅かな警戒部隊を蹴散らしたソ連軍は、無人の荒野を行くかのごとく僅かな間にスロバキア共和国首都ブラチスラヴァに侵攻して城下の盟を誓わせていた。
このソ連軍の素早い行動が国際連盟軍に与えた影響は大きかった。手をこまねいていれば、旧チェコスロバキア共和国領の残る西部もソ連の手に落ちるのは時間の問題に過ぎないだろうという危機感があったのだ。
この事態に怯えたのは国際連盟だけでは無かった。オーストリア政府から見ると、既に東部国境の向こう側にあるハンガリーに加えて南東部のスロバキアがソ連勢力圏になった為に、さらにチェコスロバキア全域が陥落すれば国境線の過半が仮想敵国に囲まれる事を意味していたからだ。
幸いなことに旧チェコスロバキア共和国は、ロンドンに亡命政府が存在していた。亡命政府は帰国を急ぐと共に、国際連盟軍に対して祖国防衛の為の戦力派遣を正式に要請していた。
急遽オーストリアに駐留していた日本陸軍遣欧第1軍及び英第9軍から戦力が抽出されていたが、日本陸軍から派遣される部隊はともかく英第9軍は雑多な兵力しか派遣出来なかった。
オーストリア占領部隊に残留する部隊には、人種問題を配慮して英国本国やカナダ、ポーランド亡命政権軍などの白人部隊が優先されていたために、チェコ領内に急派されたのは自由フランス極東師団、満州共和国軍などの有色人種からなる部隊ばかりだったからだ。
それに下手にポーランド亡命政権軍をチェコに派遣した場合、国境を接するポーランドに進出して独断でソ連軍との本格的な交戦を開始してしまう恐れすらあったのだ。
国籍や戦力も様々で統一感のない数個師団からなるチェコ派遣軍の先鋒となっていたのが、新鋭四五式戦車を装備した池部大尉達の戦車中隊だった。
日本陸軍の行軍規定通りに配属された機動歩兵小隊を尖兵に出した戦車中隊のさらに後方には、師団砲兵大隊他の支援部隊が配属された旅団主力が追随しているはずだが、部隊規模からすると第7師団は重量級の装備ばかりがあるものだから貧弱な道路網の為に進出は遅れているらしい。
ただし、彼らの迅速な展開を阻害しているのはそれだけではなかった。
作戦が開始された当初、池部大尉達はオーストリアでそうであったように現地民から白眼視を受けることも覚悟していた。住民たちからすれば、急派された日本軍が彼らをソ連軍から守ってくれるというよりも黄色人種の侵略と捉えるのではないかと考えていたのだ。
ところが、予想に反して現地チェコ人達は到着した部隊の将兵の肌の色など無視して盛大に歓迎する様子を見せていた。まるでお祭り騒ぎの様に歪な形の日の丸を振り回すものもいたのだ。
特に素人目にも分かりやすく、強そうな轟音を立てて到着した戦車部隊には、熱狂的な歓迎が用意されていた。
名誉市民を意味するらしい仰々しい市の鍵を渡された池部大尉が必死になって愛想笑いを浮かべている様子も機動歩兵小隊に同行していた報道班によって撮影されていたが、大尉自身は間抜けな顔を写されて業腹だった。
良くはわからないが、チェコとオーストリアの事情は戦時中でも大きく異なっていたらしい。ドイツ本国に併合されたオーストリアと保護領とされたチェコの違いか、よほどドイツが行ったチェコに対する占領政策が苛烈なものだったのだろう。
あるいは、日本人にはよくわからないが、そもそもドイツ人とチェコ人では人種間の差別意識や葛藤でもあるのかもしれない。
だが、熱烈な歓迎ぶりに遭遇するたびに池部大尉は不安も感じていた。実は彼らチェコ派遣軍には最終的には反対側から南下してくるドイツ軍が合流してくる筈だったからだ。
チェコ回廊問題に関しては、国際連盟軍よりもドイツ軍の方がより脅威を感じていたのかもしれなかった。
ドイツ軍はポーランドとの旧国境線近くに陣を敷いてソ連軍の本土進入に備えようとしていたのだが、彼らの前線はバルト海からチェコ国境北方までの南北300キロ程に限られていた。講和条件には旧国境内への撤兵というものが含まれていたからだ。
しかし、東西に長いチェコの国土は、ドイツ、ポーランド間の国境線位置を越えて西部にまで伸びていた。つまりソ連軍によって横合いからチェコが占領されてしまった場合は、ドイツ軍前線の右翼端が無防備でさらけ出されるどころか、場合によっては前線後方への機動すら可能となってしまうのだ。
国境線沿いに全ての戦力を注ぎ込むことでかろうじて前線を構築していたドイツ軍にとって、そのような事態の発生は即座に戦線の崩壊と直結する悪夢と言えた。
国際連盟軍チェコ派遣軍の編成前から、ドイツ側もチェコ防衛の為に戦力の再展開を行う用意があることを伝えてきていた。
当初、国際連盟軍内部ではドイツ軍の再展開に慎重な意見も多かった。本土がドイツ占領下におかれていた亡命政府などは特に感情的な反対意見が強かったようだ。
だが、最終的にはソ連軍の脅威が迫っているという現実が情緒に勝っていた。止めとなったのは、すでにソ連占領下に置かれたポーランド亡命政府の容認意見だった。
オーストリアの軍政に戦力を割かれた国際連盟軍現地部隊にはドイツ軍の戦力を無視するほどの力も無かったのだと言えたし、オランダや自由フランスなどもドイツ軍の前線が崩壊すれば次に自国正面にソ連軍が迫りくるという事実の前に屈せざるを得なかったのだろう。
それに最後まで強硬な反対意見を述べた多くの亡命政府は、チェコ内に展開できる程の戦力を派兵できるものが殆ど無かったから、落ち着いてみれば最初から政治的な発言力は低かったのだ。
ただし、池部大尉が聞いた限りではドイツ軍派遣部隊の規模はさほど大きくはないらしい。彼らも彼らで最前線に大半の戦力を投入しているのだから当然だった。
池部大尉達がオーストリアを発った時点ではドイツ軍派遣部隊の編成には不明な点が多かった。ドイツ軍が不誠実であるというより、彼ら自身も混乱して上級司令部でも正確な部隊編成まで確認出来ていないらしい。
派遣部隊が正規の師団などではない事は明らかだった。ドイツ軍の正規編制の部隊は前線の陣地か機動予備戦力としてまとめて運用されているようだからだ。
それに所属も最前線に展開する部隊の指揮をとっている東部方面軍ではないらしい。ドイツ軍側からの情報によると、奇妙なことだが合流予定の部隊は国内予備軍所属の部隊であるという話だった。
ドイツ軍の国内予備軍とは、新規徴募兵の訓練や国内軍需産業の育成指導まで担当する司令部だった。おそらくは、合流予定の部隊というのも前線で大きな損害を受けた部隊が再編成中であったところを駆り出されたのか、あるいは新規編成で前線司令部に引き渡される前の訓練途上の部隊なのだろう。
おそらく東部戦線主力の指揮統率に専念させるために、実質的に国際連盟軍の指揮下に編入される部隊は国内予備軍所属としたままとすることで東部方面軍司令部の負担を軽減させようというのではないか。
彼らがどの程度の装備を補充されているのかはわからないが、池部大尉達はさほど期待はできないだろうと考えていた。新兵は勿論だが、再編成途上であれば古兵でも練度は低下しているのではないか。
装備にしても追い詰められたドイツ軍の装備には大きな期待をかけることはできなかった。
確かにティーガー重戦車の様な卓越した性能を有するドイツ軍の装備もあったが、重装甲のティーガーB型も装甲の材質に関してはむしろ劣化しているという技術情報も聞いていた。
ティーガーB型の分厚い装甲は大した物だったが、その裏には最適な加工や材料が入手できなかった為に単純な装甲の厚みを増やすしかないというドイツの劣勢を垣間見える事情もあったのではないか。
だが、池部大尉達の予想は半ば当たり、半ば外れていた。合流したドイツ軍の部隊は意表を突くものであったのだ。
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