1945ドイツ平原殲滅戦14
轟音を立てて次々と到着する見慣れない戦車を目にして、兵舎代わりに掘られていたゼムリャンカから顔を出した第9親衛重戦車連隊の兵たちが歓声を上げていた。
連隊本部の幕舎の前で停車した戦車から真っ先に飛び降りたクラミン少佐の顔は、まるで子供がお気に入りの玩具を見せびらかすように得意げな笑みに包まれていた。
「同志連隊長、第1中隊はIS-3を受領し到着しました」
そう言いながらクラミン少佐は書類を差し出していた。反射的に受け取ったイヴァーノヴィッチ少佐が手に取る前にクラミン少佐が続けた。
「これが次のIS-3の受領日程との事です。残る2個中隊もIS-3に装備転換、残存するIS-2は第4中隊に集約させよとのことです。
我が連隊は同志スターリンと最高司令部から与えられたこの新型重戦車で輝かしい戦果を上げることを期待されているのです」
クラミン少佐の声は、イヴァーノヴィッチ少佐にだけ向けられたものではなかった。連隊の兵たちが課業を中断して集まってきていたのだが、クラミン少佐の声を聞くと目が輝いていたからだ。
だが、必ずしもすべての兵が新型戦車の受領を歓迎する様子を浮かべていたわけではなかった。懐疑的な視線を新型戦車に向けるものも少なくなかった。
総じて実戦経験のある古手の戦車兵ほど疑いの目つきをするものが多いようだ。IS-2を残された第4中隊には再編成前から連隊に配属されている将兵も多かったから、特にその傾向が強いようだった。
クラミン少佐がIS-3と呼んだ戦車は、これまで連隊が装備していたIS-2とは随分と形態が変化していた。砲口の形状や砲身長からして備砲に変更は無いようだが、車体や砲塔の形状は、概ね現行の主力中戦車であるT-34の85ミリ砲装備型を一回り大きくしたようなIS-2の無骨なものとは一変していたのだ。
IS-2やT-34は避弾経始を考慮した傾斜装甲を取り入れていたのだが、新型のIS-3はこれをさらに徹底させていた。
近くまで寄れば荒々しい鋳造構造であることがわかるのだが、特に砲塔の形状はこれまでのものと比べると異様だった。
全体が鋳造で製造されたらしい砲塔は、溶接構造では到底不可能なほど滑らかに傾斜しており、半割にした卵をさらに巨人が上から押しつぶしたように扁平にされていた。不吉なようではあるが、イヴァーノヴィッチ少佐には土饅頭から砲身が突き出したようにも見えていた。
車体部は、下部に向かって広がっていく砲塔側面と連続するように、履帯に向かって末広がりとなっていたが近くに寄ると履帯上の袖部分に垂れ下がっている装甲板はあまり厚くなさそうだった。
本当の装甲は、重量のありそうな砲塔を支える砲塔リング部分を最大径として逆に下部に向かって窄まっているようだ。
従来とは最も異なる形状となっている箇所は車体前面装甲だった。IS-2では生産時期によって傾斜角度の変更や中段が存在するものもあったが、何れも前面装甲は前後に傾斜がつけられていた。
これによって使用される装甲板の厚みよりも前面から見た際の実質的な装甲厚を高め、さらに傾斜装甲で敵弾を弾く事ができるのだが、IS-3の傾斜は更に徹底して左右にも設けられていた。
上面からみても中央部を頂点にして緩やかに傾斜した装甲板は車体中央部で溶接されていたから、車体前面に着弾した敵弾は上方にそらされるだけではなく左右にもそらされるのではないか。
それに、車体前面には前方機銃どころか操縦士用の監視口すら見当たらなかった。砲塔前方の車体中央部の天蓋には潜望鏡の対物レンズらしきものが突出していたから、操縦士の視界はそれで確保するつもりなのだろう。
IS-3は、無骨な従来形戦車の姿を保っていたIS-2の形状を洗練させることで、重量や工数を増すこと無く防御力を向上させたものと言ってよいのだろう。
受領に立ち会っていた整備中隊長を講師に行われた簡単な座学の内容でもそれは明らかだった。集合させた連隊の将兵の多くは真っ先にIS-3を手中にした第1中隊の面々を羨望の目で見ていた。
ただし、IS-2の生産がIS-3に完全に切り替わったというわけではないらしい。他の親衛重戦車連隊では既存のIS-2の補充を受けている隊も少なくないようだから、部品の補充レベルに留まらず生産も継続しているのだろう。
以前もこうした例はあった。ドイツ軍による侵攻が開始されてからしばらくしてからのことだった。ファシストの攻撃目標となっていると思われるモスクワ周辺の生産拠点が戦火の及ばない東方に移転されていたのだ。
イヴァーノヴィッチ少佐にとっても思い出したくもない時期だった。奇襲攻撃によって混乱したソ連軍は組織的な抵抗もままならずに、各前線部隊は強力なドイツ軍に逐次投入されて次々と壊滅していった。
もっともそうした前線部隊の奮闘は無駄では無かった。東進に従って衝撃力を次第に失っていたドイツ軍は、モスクワを射程に収める前に再編成されたソ連軍によって阻止されていたからだ。
当時は、工場で完成した戦車が即座に工員によって持ち出されて前線に向かうこともあったらしいから、生産体制は大分混乱していたらしい。
だが、旧国境を遥かに越えてファシストを彼らの本国にまで追い詰めている現在の状況で、戦車生産にそこまで混乱する要素があるとは思えない。
確かに搭載機材や重量を大きく変化させることなく装甲配置や形状で防御力を向上させたIS-3の設計思想は優れていると思われるが、それには一つ条件があった。工作精度が設計思想を実現するのに相応しい程高く維持出来るかどうかだ。
例えば、IS-3の特徴的な楔形の車体前面だが、傾斜を左右につけたのは良いものの、左右の装甲板を繋ぎ合わせる中央部の溶接に欠陥があれば高速、大重量の戦車砲弾が命中した衝撃で剥離してしまう危険性もあった。
装甲材が剥離する例はイヴァーノヴィッチ少佐も確認した時があった。ソ連軍の戦車ではなく、精緻に造られているはずのドイツ軍の戦車が大口径弾の着弾と炸裂時の衝撃で装甲材が脱落するのを目撃したことがあったのだ。
戦時中の何よりも生産量を重視する慌ただしい戦車工場の現場では、IS-3も満足な品質管理が行えているとは到底思えなかった。
それに芸術的とも言える形状の鋳造砲塔も同様の脆弱さを抱えているのではないか。
坩堝の温度管理や鋳型の手入れ不足などによって鋳造構造には容易に外部からは発見できない巣が発生してしまうらしい。当然のことながらこれは構造強度を大幅に低下させることになるが、事前に確認して対処するのは難しいはずだ。
友邦米国から送られる車輌などを見ると、イヴァーノヴィッチ少佐にはソ連の重工業は設計の精緻さに現場の工程管理が追いついていないという感触があったのだ。
いつの間にか、整備中隊長の技術的な説明は終わっていた。代わって第1中隊長のクラミン少佐が何事かを言いかけたが、イヴァーノヴィッチ少佐が腰を上げかけていたクラミン少佐に自然な様子で声をかけていた。
「俺の馬はどうした」
前任者が乗り込んでいた時にドイツ軍の反撃で破損していた連隊長車の代わりも、本来であれば第1中隊用の機材と同時に補充されるはずだった。
連隊の将兵の前では突かれたくない話だったのか、クラミン少佐は一瞬眉をしかめて言いよどんでイヴァーノヴィッチ少佐の顔を見つめていたが、それに代わって整備中隊長が疲れたような顔でいった
「連隊長車と第1中隊の2号車は受領後に点検を行ったところで不良箇所が発見されたので、野戦廠で修理してもらっています。
5号車は行軍中に故障したのでうちの整備兵をその場に残して修理を命じましたが、もし現地での応急修理が不可能であれば後続する連隊長車と2号車で牽引させるように命じています」
クラミン少佐は不機嫌そうな顔になっていたが、イヴァーノヴィッチ少佐はそれ以上に剣呑な表情を浮かべていた。
「実質的な稼働率は5割ということなのか」
イヴァーノヴィッチ少佐は整備中隊長に不機嫌そうな顔を向けていたが、中隊長は怯えることもなく首をすくめながら言った。
「今のところはそうですが、これは初期不良の類ですな。工場の質も落ちていますから、一度徹底的に点検した方が良さそうです」
話の流れに不安を感じたのか、クラミン少佐は口を挟もうとしたが、それよりも早くイヴァーノヴィッチ少佐が続けた。
「5割じゃ話にならん。整備隊だけじゃなく手隙のものをこき使って構わんから徹底的な整備をかけてくれ。
同志政治将校マルケロフ大尉、君は兵站をせっついて整備隊が必要な機材物資をかき集めてくれ。また先鋒を押し付けられるんなら、長期戦の構えがいるぞ」
「それは政治将校の仕事ではないでしょう……」
おそるおそる掛けられたその声は、マルケロフ大尉のものでは無かった。クラミン少佐が眉をしかめて言っていたのだ。
「政治将校の職務は政治的な指導を行うことです。それに戦車兵達には整備の前にIS-3の教育が……」
クラミン少佐が言い切る前にイヴァーノヴィッチ少佐が制していた。
「最前線では政治将校も部隊を率いることもあるんだぞ。臨機応変にやれ。とにかく兵站部隊を動かすにはマルケロフ大尉が一番適任なんだ。今は、とにかくIS-3を動かせるようにしないといかんからな。
クラミン少佐は整備が終わった後で稼働車を使う訓練計画を今のうちに立てておいてくれ。整備隊が確認を終えたものから訓練に使うんだ。少なくとも戦車兵の教育は全員終わってるんだ。IS-3の教育は実車でやれ。
以上、解散だ。早速みんな作業にかかってくれ」
イヴァーノヴィッチ少佐の有無を言わさぬ声に、第9親衛重戦車連隊の将兵たちはざわざわと声を上げながら出ていった。不満そうな表情を浮かべながら、クラミン少佐が連隊司令部用の幕舎を足音高く去っていくと、残されたのは困惑した表情の当番兵と思案顔のマルケロフ大尉だけだった。
マルケロフ大尉がサモワールの準備を命じると、安堵したような顔で当番兵も駆け出すような勢いで幕舎を出ていた。
当番兵の背中が見えなくなったのを見計らったかのように振り返ると、マルケロフ大尉が眉をしかめながらいった。
「心臓に悪いんですから、あんまりクラミン少佐を刺激しないでくださいよ。ここだけの話ですが……多分彼は特務のスパイですよ……」
イヴァーノヴィッチ少佐は眉をしかめたが、驚きは無かった。
「開戦直後に俺がファシストの捕虜になっていたからか。まだ軍は疑っているのか……しつこい奴らだ」
マルケロフ大尉は苦笑していた。
「人間の内心は誰にも読めませんからね。軍はおそらく早々に脱走してパルチザンに合流した同志連隊長を疑っていませんよ。そうでなければ連隊長に任命したりしません。しかし、イルクーツクの辺りにいる部隊には、偽装亡命者対策なのか人民委員部筋のものがだいぶ居るという話ですから……
それよりも、同志連隊長は今度も長丁場になるとお考えですか」
イルクーツク湖畔の前線に秘密警察が絡んでいる事を匂わせながらも、マルケロフ大尉は強引に話を変えていた。大尉の路線変更に頷きながら、イヴァーノヴィッチ少佐も困惑顔でいった。
「別に自信があるわけじゃないが……大尉はあの大攻勢は成功だと思うか」
マルケロフ大尉は思わず周囲を確認していた。場合によっては最高司令部批判ともなりかねない発言だったからだ。だが、イヴァーノヴィッチ少佐は無頓着に続けた。
「別に同志スターリンを批判するつもりはないよ。だが、その取り巻きの騎兵ども……トハチェフスキーの亡霊はどうかな……連中は機動戦にこだわり過ぎているような気がする。開戦直後のファシストの電撃戦とやらに影響されたんじゃないか」
「しかし、トハチェフスキー作戦で我が軍は広大な占領地と大勢の捕虜を獲得出来ましたよ。これは偉大な勝利と言ってよいのではありませんか」
マルケロフ大尉の反論に、イヴァーノヴィッチ少佐は思案顔になっていた。
「その成果は否定しないが、我が方の損害も馬鹿にならんじゃないか。戦車はともかく、どれだけの貴重な兵隊を失ったことか……ファシストに帝国主義者が手を貸すようになったとも聞くし、防御を固めた相手には無理な機動戦を挑むより、着実に火力で耕していったほうが損害を抑えられるんじゃないかと思うがな……」
戦車将校らしからぬイヴァーノヴィッチ少佐の言葉にマルケロフ大尉が押し黙っていると、当番兵がサモワールと黄色い塊を持って入ってきていた。
「今日は第1中隊が持って帰ってきたアメリカからの補給品がありますよ。フィリピンのバナナとかいう果物だそうです」
若い当番兵に笑みを浮かべながら、マルケロフ大尉は連隊がこれから先に巻き込まれるであろう戦闘の事をいつまでも考えていた。