1945ドイツ平原殲滅戦7
ベルリンの総統官邸に設けられた会議室は、よく整備された中庭が見えるように適度な開放感をもって造られていたが、窓の外に広がる光景は先日行われたソ連軍機による大規模な空襲の爪痕が残されたままの酷く殺風景なものだった。
もっとも、それ以上に会議室の内もまた室外の様子に劣らずに沈痛な雰囲気に満ちていた。
室内の重苦しい雰囲気をなんとか吹き飛ばそうとでも言わんばかりに、ゲーリング総統代行がわざとらしいほどに明るい顔で言った。
「シェレンベルク君、それではアデナウアー特使には命の危険はもうないというのだね」
軍服だらけの会議室の中で、高級仕立ての背広を着こなしたシェレンベルク少将が頷いていた。最も、総統代行付秘書官の様な仕事をしている少将は、つい先日までは一般親衛隊の黒い制服を纏っていた。
組織としての親衛隊は現在もまだ存続していたが、下部組織や権限の多くを逐次他の官庁に移行させて規模を急速に縮小していた。親衛隊の制服を脱いだものも少なくなかった。
「国際連盟軍からの連絡では、緊急入院したアデナウアー特使の手術は成功したとのことです。今はもう意識を取り戻されましたが、入院中とのことです。それと念の為特使が入られたパリの病院はイラン軍が警備を行っていると連絡がありました」
自爆テロの標的となったアデナウアー特使の無事が伝えられた後でも、会議室内に広がった安堵した雰囲気は薄かった。集まった高級軍人の中には、反ナチス党寄りの政治家であるアデナウアー特使と以前から親しくしていたものはいないのではないか。
国内予備軍司令官に就任したルントシュテット元帥が出席者を代表するようにため息とともに言った。
「警備がイラン軍ということは、もはやフランス軍はヴィシー政権も自由フランスも信用できないということか……それで、特使は調印式には行けそうもないのか」
どことなく他人事といった様子のルントシュテット元帥の言葉に、会議卓を囲む出席者の何人かは眉をしかめていたが、その数は決して多くはなかった。
「調印式は延期されています。それどころかパリ市街全域に戒厳令が出ているという情報も出ています。それ以前にアデナウアー特使はしばらくは安静だとか……」
シェレンベルク少将の報告に外務次官が首を振りながら続けた。
「アデナウアー特使は運がよかったようです。あるいは他のものが爆弾から盾になってくれたのか……同乗していた外務省のシュミット報道局長と同行取材を行っていた英国の報道記者、ハート氏は亡くなりましたから。
いずれにせよアデナウアー特使に代わって講和条約に調印するものは必要でしょう」
ゲーリング総統代行は唸り声を上げると、海軍総司令官代行のシュニーヴィント大将に視線を向けていた。
「やむをえんな。シュニーヴィント大将、貴官がパリに向かって特使を補佐、状況を確認して場合によっては特使に代わって調印に望むように」
いきなり大事を命令されたシュニーヴィント大将はうろたえたような顔になっていたが、それを気にした様子もなくゲーリング総統代行は続けた。
「その前に国際連盟軍から出された講話条件の履行状況を確認しよう。貴官はその結果をもってフランスに赴き調印を行ってくれたまえ。我々がいかに誠実に講和条件を実施しているかを彼らに説くのだ」
ゲーリング総統代行はそう言うと視線を周囲に広げていた。シュニーヴィント大将は気持ちを切り替えようとでも言うのか首を振りながら言った。
「現在、我が海軍は完璧に講和条件を履行しております」
やけになったようなシュニーヴィント大将の言葉に不満そうな顔になったものも多かったが、大将は意に介した様子もなく強引に続けた。
「まず、残存する戦艦は全て国際連盟軍の手に委ねました。我々の手に残されている大型艦は、重巡洋艦プリンツ・オイゲン、アドミラル・シェーアの2隻ですが、この内修理可能なのはバルト海のキール工廠で修理中のプリンツ・オイゲンのみです」
物は言いようだった。内心で苦笑しながらシェレンベルク少将はそう考えていた。
シェニーヴェント大将が言及したドイツ海軍の大型艦のうち、マルタ島を巡る戦闘で大損害を被ったテルピッツは随分前からイタリア半島南端のタラント軍港に放置されていた。
マルタ島周辺海域の夜間に発生した比較的近距離の戦闘で損害が生じていた為か、ほぼ水平に着弾し続けた敵砲弾が水線下の機関部に与えた損害は少なく、主砲塔を含む上部構造物の大損害にも関わらずタラント軍港で行われた最低限の修理で航行も可能ではあったらしい。
だが半壊した自衛戦闘すら不可能な戦艦を護衛も無しに国際連盟軍がひしめく地中海で行動させられるはずは無かった。結局、ローマ侵攻と同時に行われていたイタリア半島南部への上陸作戦によってタラント軍港が占拠された際にテルピッツも国際連盟軍に鹵獲されていたのだ。
もっとも多くの乗員を連れ帰ることの出来たテルピッツはまだましな方だった。地中海の戦いを生き延びた2隻のシャルンホルスト級戦艦は、予想以上に強敵であったソ連海軍との戦闘において多くの乗員を道連れにしてバルト海に沈んでいた。
今次大戦勃発に前後して装甲艦から重巡洋艦に類別されていたドイッチュラント級も、最後に残されたアドミラル・シェーアが修理不能と判定された事で、実質的に全てが失われていた。
残された戦力が重巡洋艦プリンツ・オイゲン1隻と弱体化した駆逐艦群では出来る事はたかが知れている。無謀な戦闘ですべてを失うか、バルト海を脱出して北海に向かうかだった。
本来であれば、ドイツ海軍にはもう1隻、戦艦ビスマルクが残されていたはずだった。
北フランスのドイツ占領地帯に位置するブレストは、何世紀もの間大西洋の荒波から艦隊を守り抜く事のできる絶好の泊地として使用され続けていた。
今次大戦において周辺を占領したドイツ海軍も同地を重要視しており、大西洋に出撃する巨大な潜水艦用ブンカーなどを有する潜水艦隊の根拠地として整備していた。
大戦序盤において、損害を出しながらも英国海軍の包囲網を振り切ってブレストに入港した戦艦ビスマルクは、同地を実質的な母港として大半を過ごしていたのだ。
ただし、北フランスからさらに地中海にまで前進していた僚艦とは異なり、ビスマルクはブレストに留まり続けていた。ドイツ本国から同地まで回航する際に、海域の封鎖を行っていた英国艦隊との交戦で被った損害の復旧工事が長引いていたからだ。
もっともブレスト入港直後に行われた海軍技術部による損害復旧工事の工期見積もりはそれほど長くはなかった。修理工事の工期が伸びたのは、いくつかの理由があった。
フランス国内の抵抗運動などは、ビスマルクの出撃が無かったのは現地工員によるサボタージュや妨害工作の効果によるものと主張していた。ただし、これは単なる宣伝という可能性を考慮すべきだった。
抵抗運動はナチスの戦艦1隻を無力化し得たのだと主張する事で自分達の存在価値を吊り上げようとしていたのではないか。
シェレンベルク少将の見るところ確かに抵抗運動の主張全てが間違いとは言えなかった。ビスマルクの修理工事に関しては出来高と工数に大きな乖離があったのは事実だった。
だが、実際にはサボタージュの効果は全体で見れば限定的なものに過ぎなかった。ビスマルクがブレストに入港した時期は、すでにフランス本国の世論はインドシナ植民地への侵攻や残存フランス艦隊に対する英国海軍の襲撃などによって枢軸寄りになっていたからだ。
むしろ英国海軍の包囲網を突破してきたビスマルクを称える声まであった程だったのだ。ドイツ占領地帯でも優先的に配給を受けていたフランス人工員によるサボタージュは小規模なものであったし、それ以前に本国から移動してきたドイツ人技師も少なくなかった。
ビスマルクの修理工事の工期を伸ばしていたのは、主に英国空軍によって行われた港湾部への爆撃による損害の方が大きな理由となっていた。ブレストは英国と欧州大陸を隔てるドーバー海峡からさほど距離もなく、英国空軍の重爆撃機の行動圏内に収まっていたからだ。
ドイツ空軍夜間戦闘機隊や軍港防空部隊の奮戦もあって、ビスマルクの修理が不可能となることまではなかったが、大規模な爆撃の度に工期が延長されていったのは確かだった。
あるいは、シェレンベルク少将はビスマルクの行動が全体的に不調であったのは、ドイツ海軍自体の判断だっただけかもしれないと考えていた。修理工事の合間に何度かビスマルクは短期間の出動を行っていたからだ。
特に2年前に巡洋戦艦とも大型装甲艦とも言えるマッケンゼンが出撃した際は、英国海軍を引きつけて同艦を援護する為にビスケー湾に出撃して大規模な作戦を実施する構えを見せていたのだ。
直接的な被害こそ無かったものの、フランス本土に駐留し続けるビスマルクの存在が英国海軍に与えた影響は大きかった。
ドイツ側からみれば英国海軍艦隊に大西洋への出動を阻害され続けていたことになるが、逆に英国海軍からすればビスマルク1隻の為に本国艦隊に有力な艦艇を残置しなければならないということでもあるからだ。
最終的に撃沈されたものの、国際連盟軍の哨戒網が充実していた時期にマッケンゼンが単艦で水上通商破壊作戦を実施できたのは、ビスマルク出撃の報に接した英国海軍が同艦を警戒するあまりに英国本土周辺に戦力を集中することで哨戒網に穴を開けてしまっていたのが一因だったはずだ。
だが、大戦を生き延びたにも関わらず、ビスマルクはドイツ海軍の手を離れていた。講和の条件に定められた日程までに占領地を離れることが出来なかった為に、ブレストに係留されたまま武装解除の後に接収されていたのだ。
ビスマルク接収の切欠となったのはブレスト軍港で俄に本格化したサボタージュ活動の発生だった。その時、英国空軍の爆撃で若干の損傷を受けていたビスマルクは修理工事を行っていた。
乾ドックに船体を引き込んだ本格的な修理工事であったとはいえ、当初の計画では工期はブレストからの退去期限に十分間に合うはずだった。講和条件の交渉中は英国空軍による爆撃も停止していたからだ。
おそらくドイツ本国までの回航は国際連盟軍艦隊による監視のもとに行われることになっていただろうが、自力での航行そのものには支障はないはずだった。
ところが、実際に工事が開始されたところでサボタージュが発生していた。サボタージュの原因はある意味において単純なものだった。
当然のことながら、講和が正式になれば艦艇だけでなくドイツ海軍全体がブレストから撤退する事になるのだが、それに先んじて工廠で勤務するフランス人工員などに対する配給優遇などの措置が混乱の中で停止していた。
だが、ヒトラー総統暗殺後に国際連盟との講和交渉が始まる前まで、フランス北部では共産党系抵抗運動の過激な行動に対抗する為に、ドイツ占領軍も果断な処置をとることが日常化していた。
戦況が枢軸側に不利になるにつれて、ヴィシー政権の施政権が及ばないドイツ占領地帯では、容疑が不十分でもドイツ憲兵に拘束されてドイツ本国などでの強制労働に送られたものも少なく無かった。
そのように不穏な情勢化で、ドイツ海軍の為に働く工廠工員は周辺の住民からは対独協力者として白い目で見られ始めていた。
住民達のそうした意識の中で熟練工員達を繋ぎ止めていたのが家族を養う為の配給優遇措置だった。それが停止した今占領軍におもねる必要はない、そう考えたものが多かったのではないか。
それに職を離れた所で、講和が本格化すればドイツ憲兵に拘束される恐れは無くなっていた。それどころか、ドイツ本国の強制労働所から解放されたフランス人達が、フランスを立ち去る占領軍と引き換えるように続々と帰国していたのだ。
ただし、ビスマルクに対しては行われていたのは自然発生的な消極的なサボタージュだけでは無かった。むしろ破壊工作とも言える事態が発生していたのだ。
マッケンゼン級巡洋戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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