1945ドイツ平原殲滅戦5
満州共和国軍特務遊撃隊は、欧州においては他国の特殊戦部隊と共に日英混成の機動旅団に配属されていた。
ただし、旅団とは言っても練度も部隊規模も大きく異なる各国から送られてきた特殊戦部隊に統一行動を取らせる事ができる程の指揮能力は旅団司令部にはなく、実態は単なる管理部隊でしか無かった。特殊戦部隊の作戦行動は旅団司令部ではなくもっと上部の指揮官が決心していたのだ。
旅団に配属された大半の隊員達は、縁もゆかりもない旅団長は顔も名前も知らないのではないか。それどころかこれまでも旅団司令部の位置さえよく分からなかった。
厨川少佐の古巣である日本陸軍機動連隊も、旅団内の戦闘序列では特務遊撃隊のすぐ脇に並んでいたはずだったが、北アフリカを離れてからこれまでその姿を見ることはなかった。
機動旅団内の特殊戦部隊は広大な戦域のあちこちに分散して展開していた。特殊戦部隊の秘匿性から友軍が何処にいるかはよく分からなかった。勿論特務遊撃隊も例外では無く、地中海戦線の随所に展開していた。
―――だが、これほど短時間の内にここまで状況が変わる例はないのではないか……
厨川少佐は僅かな苛立ちと共にそう考えていた。北アフリカの戦闘が集結した頃に欧州に派遣された特務遊撃隊は、シチリア島上陸作戦を皮切りに最前線に投入されていた。
シチリア島での作戦に続くローマへの降下作戦の後に特務遊撃隊が向かったのは敵地バルカン半島だった。英国に亡命していたユーゴスラビア王国国王ペータル2世を護衛して密かにドイツ占領下のユーゴスラビアに潜入していたのだ。
そこで厨川少佐達は若き国王の元に王党派とユーゴスラビア共産党が合流するという歴史的な場に立ち会う事となった。
その後の動きも劇的なものだった。ドイツに国土全域を占領された以後は、何年も国内に聖地を求めて彷徨っていたばかりだったユーゴスラビア共産党系の抵抗運動は、ドイツに協力するチェトニックなどの民族主義者達を見限って続々と合流する他派抵抗運動を吸収して肥大化していたのだ。
亡命先の英国においても戦闘機搭乗員としてドイツ軍と戦っていたペータル2世は、ドイツ占領時に外国に逃れてもなお本国において一定の影響力を国民の間に保っていた。
そのために国王という錦の御旗を掲げたことで共産党員以外からの支持が格段に得やすくなっていた抵抗運動は、新生王国軍とも言うべき正規軍に近い組織に変貌していたのである。
イタリア半島から続々と空輸される国際連盟軍供与の補給物資が肥大化した組織の兵站を支えていた。
もちろん抵抗運動は力を蓄えていただけではなかった。遊撃戦に必要不可欠な聖域を確保していたとしても、抵抗運動にとどまる限り戦局への寄与は限られていたし、それ以上に新たに加わった構成員に大義名分を与えない限り思想もばらばらのまま膨れ上がった組織を維持することは出来なかったはずだ。
共産党抵抗運動を率いていた総司令官であるチトーは、ペータル2世より首相代行と軍の最高責任者を命じられたことからユーゴスラビアの全抵抗運動をまとめる新生ユーゴスラビア軍に組織を改正すると共に、ドイツ占領軍に対する全面蜂起を開始していた。
慎重に王国軍や抵抗運動、人民解放軍といったあらゆる思想を廃した新生ユーゴスラビア軍は、広範な市民の支援を受けて瞬く間に全土に戦域を広げていたが、最終的には幸いなことにそれは強大なドイツとの戦闘には繋がらなかった。
全面蜂起の直後に国際連盟軍に対してドイツが講和の意思を示したからだ。
ドイツは正式な講和条約を結ぶ以前に講和の条件であった占領地からの撤退を開始していた。
講和の申し出があった時点で戦闘が継続中だったフランスは、今もなお自由フランスとヴィシー政権との間で確執があるらしいが、オランダやベルギーなどは既に占領軍が撤退して英国に逃れていた亡命政府も帰還しているらしい。
ユーゴスラビアを含むバルカン半島でもドイツ軍は撤退の用意があったが、実際にはこれは容易ではなかった。イタリア戦線の一部がユーゴスラビアの一部にまで北上している段階では、ドイツ軍が北上して本国に帰還するのが困難だったからだ。
ドイツは対ソ連戦に関しては継続を訴えており、その点では国際連盟軍も概ね同意していたが、彼らにとっての東部戦線は崩壊の危機にあった。広大なポーランド全域を舞台とした一大機動戦によって、ドイツ軍が対ソ戦に投入していた戦力の少なくない数が包囲されていたからだ。
東欧諸国はソ連軍に攻め込まれてはいなかったが、それはドイツを主敵とするソ連が彼らを無視していたからに過ぎなかった。ルーマニアやハンガリーどころか一部をドイツに併合されたチェコスロバキアでさえ目前のソ連軍に与する勢いだった。
すでにバルカン半島のドイツ軍が武装解除後に安全に移動する事のできる回廊は失われていたのだ。
国際連盟軍にしてみても、ドイツに勝利したその後に同国に入れ替わってソ連の影響力が増してしまうのは少しでも避けたい事態だった。そこでバルカン半島には一刻も早く戦力を展開することでドイツ軍に代わって現地を掌握することが求められていた。
慌ただしい動きだった。イタリア戦線やフランス上陸に出動していた各国の空挺部隊が慌ただしくかき集められると、準備できた輸送機から乗せられる勢いでバルカン半島に向かっていた。
奇妙な事態も発生していた。イタリア戦線に英国を中心とする部隊がそのまま展開する一方で、これの後詰めとするために再編成を行っていたはずのイタリア王国軍は、ドイツ軍と今現在対峙していない為に即動可能な貴重な戦力として陸路でユーゴスラビアに向かっていたのだ。
皮肉なことに、開戦初期にバルカン半島にドイツ軍と共に攻め込んでいたイタリア王国軍が今度は同地を防衛するために出動していたのだ。
だが、国際連盟軍の動きは一歩遅かったかも知れなかった。ブルガリア王国はドイツとの同盟を破棄した後に国際連盟軍といち早く講和を行っていたが、ブルガリアの北方に位置するルーマニアはおそらくソ連の影響を受けた政変が発生していた。
ハンガリーは旗印を明らかとせぬまま中立を宣言していたが、いずれソ連の影響下に置かれるのではないか。
このような混沌とした状況の中で、空挺部隊と共に機動旅団に所属する特殊戦部隊の多くも、ユーゴスラビア国内のドイツ軍の武装解除と移送を到着したイタリア王国軍に任せて隣国であるブルガリア王国に移動していた。
国際連盟軍の思惑としては、悪くともユーゴスラビア王国とブルガリア王国を結ぶ線で共産主義勢力のバルカン半島への南下を阻止するつもりだったのだ。
この間に半ば無視されていたギリシャに対しては、英本土で待機していたカナダ派遣軍などを含む英国軍が同地の治安維持と北方部隊の後詰めとして送られていた。
この英国軍は地中海戦線から抽出された輸送船団で移送されていたが、ギリシャで空船となった輸送船団にはバルカン半島で武装解除されたドイツ軍のうち戦争犯罪者として認定されることを免れていた兵士達が詰め込まれていた。
強制収容所勤務の警備兵などは蜂起したユーゴスラビア軍などの手によって攻守逆転してそのまま収容所に収監されたらしいが、ギリシャまで移動してドイツに送り返されるために乗船したドイツ兵も相当数いたようだった。
厨川少佐も、無蓋貨車に詰め込まれた希望をなくした顔の元ドイツ兵が南方に去っていくのをユーゴスラビア国内で何度か目撃していた。
幸いなことにソ連軍主力はポーランド国内に集中していたから東欧諸国方面にあてるべき戦力はなかったらしく、国際連盟軍の正規軍が展開する時間は確保できていた。
続々と北上する英国軍などに国境線の警備を交代すると、特殊戦部隊の多くは組織的な宣撫工作を開始していた。ブルガリア王国やユーゴスラビア王国の将兵を連れて国境周辺の集落などを回っていたのだ。
現地民に近い兵たちに宣伝文句を喋らせる事もあるし、場合によっては住民の歓心を買う為に同行する軍医によって無医村で医療支援を行う事もあった。そうした地道なやり方で現地民を手懐けながら、兵用地誌に記載する周辺地形の偵察を行ってソ連軍との交戦に備えていたのだ。
しかし、唐突に特務遊撃隊の任務は打ち切られていた。バルカン半島の戦備体制が十分整ったとは思えなかった。
現地の新生ユーゴスラビア軍は頭数は多いものの装備や質にはむらが多く、戦力化には再編成が必要だった。ブルガリア王国軍は元々の規模が小さい上に旧式のドイツ式装備だから、将兵の数ほどには戦力にはならないと覚悟しておくべきだろう。
英伊正規軍という後詰めが到着した状況ではあったが、特殊戦部隊はソ連軍が侵攻を開始した際には、宣撫工作によって住民の支援が得られるだろう地域で後方撹乱を行うことで間接的に支援を行う筈だった。
単独ではなく正規軍という鉄床が存在する状況では、特殊戦部隊の後方撹乱は成果を上げるのではないか。
ところが、機動旅団に配属された部隊のの多くは再び輸送機に慌ただしく詰め込まれるとバルカン半島を追われるように飛び立っていた。
彼らが向かったのは欧州の反対側に位置するフランスの首都パリだったが、それは些か首を傾げたくなる状況だった。
ドイツとの講和がなればこの方面が戦場となるとは思えなかった。ドイツ本国から東欧にかけてが強大なソ連と対峙する次の戦場となるのではないか。
フランス本土では自由フランスとヴィシー政権が陰謀術策を尽くしてお互いの勢力争いをしているというが、そんな所に外国籍の自分達を放り込むだけの大義名分があるとも思えなかった。
だが、パリ到着後に明らかになった事情は落胆するようなものだった。 機動旅団が投入されたのは、ある意味で自由フランスとヴィシー政権との勢力争いに過ぎなかったからだ。
彼らに与えられた任務はパリで行われるドイツと国際連盟との講和調印式の警備だった。唖然とするばかりの内容だった。調印式の警備と言っても、両勢力に講和の意思があるのだから現実的な脅威が存在しているとは思えなかった。
あるいは、調印式の警備というのは公式には出来ない何らかの任務を隠蔽するためのものではないか、そういう声も隊内では上がっていた。
ありえないとは言い切れなかった。正式な講和が発行しない限りはドイツ本土に部隊を展開する事は憚れるから、密かに特殊戦部隊を先行させて偵察を行わせようとしているのだとすれば可能性は低くはなかった。
だが、パリに到着する頃から入り始めた情報は期待を裏切るものだった。
滅多に現場には姿を見せない旅団長までパリに到着していたが、旅団司令部の要員からの説明は要領を得ないものだった。表向きの警備任務の担当を話すばかりだったからだ。
旅団司令部が立案した警備計画は、動員される部隊の人数からすると妥当なものではあったが、単なる街頭警備ならば警察組織でも十分だし、戦時中ということを考慮しても特殊戦部隊を投入するのは過剰ではないかと思われた。
日英には、後方地帯を警備するために重装備を与えられた憲兵隊もあった。装備優良の野戦憲兵隊であれば重機関銃や小口径砲を備えた装輪装甲車まで保有する重装備の部隊もあるから、パリ市街地の警備であれば機械化された機動力を有する彼らを動員したほうが小回りがきくのではないか。
詳細が判明したのは、特務遊撃隊に先行してパリに到着していた部隊から噂話という形で聞いた時だった。機動旅団の動員は自由フランスの意向だったが、その理由は旅団が多国籍部隊であったからに過ぎなかったというのだ。
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