表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
457/814

1945ドイツ平原殲滅戦4

 パリの片隅に与えられた宿舎の前に屯しながらだらけ切った様子の兵士達を目の前にして、厨川少佐は苦々しい表情を浮かべていた。もっとも、山賊一歩手前といった様子の特務遊撃隊の面々がそうなる理由も分かっているだけに、少佐も安易に口に出す事はできなかった。



 共産主義勢力の浸透を受けていた満州地方の奉天軍閥が日露英の支援を受けて興した満州共和国は、実態は独立国でありながらも政治上の関係から建前では中華民国の地方政体とされていた。

 満州共和国にとって今次大戦への参戦は、本国とも言える中華民国との力関係を変化させる絶好の機会と考えられていた。


 ソビエト連邦を構成する共和国の一つであるモンゴル社会主義共和国の外縁部を聖域として確保した中国共産党は、巧みなゲリラ戦と農村部を中心とした宣伝活動という柔軟を使い分けた戦略で勢力を拡大し続けていた。

 戦備の点では日英などからふんだんに重装備を購入している中華民国正規軍の方が優良である筈だが、今次大戦における独ソ戦の勃発以後はおとなしくなっているものの、以前はソ連製の戦車を装備した精鋭部隊が確認された事もあった。

 共産党以外にも国内に数々の矛盾を抱えていた中華民国本国は、主な援助国である日英の意向もあって実質的に満州共和国の独立を認めざるを得なかったのだが、実際にはそれ以前から共産党との内戦に明け暮れる国府政府は彼らにとっての僻地に当たる満州まで十分な統治を行うことは出来なかったのだ。



 未だに広大な戦域で共産主義勢力とにらみ合う中華民国本国を尻目に、満州共和国は国際連盟軍に兵力を派遣していた。

 国際連盟軍の主力を成す日英などと比べるとその数は僅かとも言えたが、戦略単位である師団や飛行戦隊単位の大規模な航空部隊が含まれる派遣部隊は国際連盟加盟諸国が欧州に送り込んだ有象無象の中では大戦力と言えた。

 満州共和国派遣部隊のなかで中核となっているのは第10独立混成師団だった。満州地方でも最大の軍閥であった奉天軍閥が他の軍閥や馬賊などの戦闘集団を吸収する形で成立した満州共和国軍の中でも同師団は特別な位置づけにあった。


 建国後に士官学校や空軍の創設によって急速に近代化が図られているとはいえ、誕生直後の満州共和国軍の実態は雑多な集団の寄り合い所帯でしかなかった。特に各地方に駐留する歩兵師団は高度な教育が必要な砲兵や戦車部隊などの火力を欠いていた。

 編制こそ近代的な師団らしくなっていたものの、実質的には奉天閥に帰順した中規模軍閥の下にさらに小規模な軍閥や馬賊などの諸勢力を部隊単位で配属させたものと言っても良かった。

 地方で討伐された匪賊の多くは、新たに機械化された農業地帯に組織的に送られて帰農していたが、それでも以前からの軍閥としての独立意識を持ち続けていたものは多かったはずだ。


 ただし、満州の各地に設けられた軍管区に配属された師団に火力が欠けていたのはある意味で意図的なものだった。火力に加えて近代的な兵站組織も師団内には含まれておらず、その代わりに奉天閥に近いものが指揮を執る軍管区付きの部隊として独立砲兵や輜重連隊が存在していた。

 有事の際には出動する各師団に軍管区直轄の支援部隊が配属されることになるのだが、これは師団級の戦力が反乱を起こすのを防止するためでもあった。いくら兵数が多くとも、火力や継戦能力に欠けた一般師団の反乱は長続きしないからだ。



 満州共和国軍の長である軍政部長の直接指揮化にある第10独立混成師団は、そのような他国と比べると歪な師団編制の例外にあった。師団砲兵や戦車隊といった重装備に加えて兵站、工兵といった支援部隊も充実しているし、基幹戦力となる歩兵部隊の機械化も進んでいた。

 師団編制の傾向としてはむしろ他国の編制に近いのだが、特に師団単独での作戦行動が可能であることから独立混成の名が与えられているらしい。


 第10独立混成師団がこの様な大規模な編制となったのは、本来この師団が軍管区内で一般の師団による反乱が発生した際にこれを鎮圧する任務が考えられていたからだ。

 もちろんこの様な裏事情が公式文章などに残されたことはないが、満州共和国軍の内部では周知の事実だった。第10独立混成師団に特異な任務が与えられていたのは、軍政部長である馬占山将軍の信任が厚いためでもあったが、実際にはその様な情緒だけが理由ではなかった。

 師団長を務めるウランフ中将以下の師団幹部の多くは共産主義勢力から亡命してきたモンゴル人達だった。馬占山将軍とは遠戚に当たるらしいが、それ以上に彼らモンゴル人が他の軍閥と違って土地に縛られていないのが反乱鎮圧部隊として編成された理由だったのではないか。



 ただし、厨川少佐は第10独立混成師団のその様な胡乱な任務を密かに与えられ続けられるのはそれほど長い間ではないと考えていた。

 満州共和国というよりも中国全土で軍閥や馬賊が跳梁することが出来たのは、中央政権の権限が弱く曖昧な状況下でまるで戦国大名のように徴税や警察権が地方の有力勢力に委ねられてきたという事情があるからだ。

 だが、今や日英露の支援を受けて満州共和国の中央集権化が強く推し進められており、当然のことながら徴税や徴兵の権限はすべて奉天の中央政府に集約されていた。


 地方の軍閥を母体とする師団の中には、これまでの権力基盤であった土地を追われるように離れて全く土地勘のない場所に移駐した部隊も少なくないらしい。それに士官学校を卒業した中央政府に忠実な将校団も地方の部隊に配属され始まっていた。

 軍閥が母体であったとしても、戦略単位である各師団が平均化されて独立した勢力としての纏まりを保てなくなっていけば、反乱鎮圧という任務は必要なくなるはずだった。

 もしかすると第10独立混成師団が欧州派遣部隊の中核となったのも、地方の反乱という万が一の可能性が低下していたせいかも知れなかった。



 英第9軍に配属された満州共和国軍第10独立混成師団は、旧インドシナ植民地兵からなる自由フランス軍極東師団と共にイタリア戦線に配属されていた。自由フランス軍極東師団は兵員数は多いものの、重装備などには乏しかったから第10独立混成師団は貴重な機甲戦力であるらしい。

 詳しくは知らないが、すでに英第9軍主力はドイツ側の撤退を受けて国境地帯まで移動しているようだった。正式な講和が発行した時点で第9軍は旧オーストリア領に進出する予定とも聞いていた。

 師団とは直接の指揮系統は有しないものの、同時に派遣されていた満州共和国空軍の航空部隊もイタリア戦線に配属されていた。実質的に満州共和国から派遣された部隊はイタリア戦線に集中していたのだ。



 だが、本来は日本軍から満州共和国軍に顧問として派遣されたはずの厨川少佐が同道する特務遊撃隊は、派遣部隊主力とは全く行動を別にしていた。

 特務遊撃隊はその名のごとく本隊から離れて変幻自在な襲撃を行う為の部隊だったが、このように特異な部隊を編成しているのは満州共和国だけではなかった。

 むしろ今次大戦においては、大規模な部隊を動かすことなく敵勢力地帯や前線のはるか後方に密かに侵入して破壊活動などをおこなう特殊戦部隊の活動が増大していた。


 こうした部隊の活動に関しては報道などにも秘匿されている例が多かったが、お互いの国力のすべてを注ぎ込む総力戦体制を参戦国が強いられる中で、相手国を出し抜くために費用対効果の高い戦略を取るのが常態化していたとも言えるのではないか。

 英国軍では、ドイツ占領下の欧州大陸に密かに上陸して破壊活動を行うコマンド部隊が編成されていたし、北アフリカでは軽装備の自動車化部隊が大きく戦線を迂回して後方の独野戦飛行場などを襲撃することも多かった。


 正規戦を重要視する伝統的な考えを持つ大多数の将校は特殊戦部隊を厭うことも多かったが、日本軍も特殊戦部隊の編成に関しては例外ではなかった。以前より日本陸軍では対ソ戦を意識して落下傘降下や寒冷地における長距離浸透、遊撃戦を行う機動連隊を密かに編成していたからだ。


 日本海軍も隠密性の高い潜水艦から上陸して偵察などを行う特務陸戦隊を同時期に編成していたらしい。

 通常の行動では海岸からの進出距離は大きく無いはずだが、上陸作戦前に隠密に潜入して敵部隊の海岸への進出を鉄道や橋梁の破壊によって阻止したり、揚陸直前まで行われる艦砲射撃の弾着修整などを行っていると聞いていた。



 実は、厨川少佐自身も顧問として派遣される前は機動連隊に在籍していた。機動連隊では特殊な高高度からの落下傘降下や気球を使用する隠密潜入法などを開発していたから、同盟国に遊撃戦の戦術を指南することになると赴任前には考えていたのだ。


 ある意味で厨川少佐の考えは当たっていた。顧問という立場からは随分と離れてしまったような気がするが、特務遊撃隊の隊員達は厨川少佐が教え込んだ戦法が行き渡っていた。

 ただし、特務遊撃隊の性質は近代的な軍隊とは違っていた。満州共和国軍においても過去のものと成りつつあるはずの、前時代的な豪傑じみた馬賊としての感覚が強く保たれていたからだ。



 特務遊撃隊は、指揮系統の上では第10独立混成師団と同様に満州共和国軍政部長直轄の部隊であるとされていた。

 だが、第10独立混成師団が最精鋭の装備優良部隊として中央政府が有する抑止力という意味を持たされていた一方で師団単位での出動は稀であったのに対して、特務遊撃隊はしばしば非公式な戦闘にも参加していた。

 満州国内に密かに侵入していた共産主義勢力の撃滅や、逆に聖域とされていた共産主義勢力圏である南モンゴルにまで入り込むことも少なくなかった。つまり第10独立混成師団が軍政部長である馬占山将軍の表向きの手駒だとすれば、特務遊撃隊は表沙汰に出来ない戦力だと言えた。


 山岳地帯の長距離行動などを含むこうした任務においては、大規模な機械化部隊を投入するよりも少数でも馬賊のような馬匹移動を行う方が容易だった。場合によっては僅かな手勢だけで補給が望めない荒野を共産匪を追尾して何日も行動することもあったのだ。

 この部隊に問題があるとすれば、卓越した馬術以外も旧時代的な馬賊そのままである特務遊撃隊の意識だけだった。



 元々特務遊撃隊の前身はやはり馬占山将軍とは縁戚関係にあったある馬賊だった。満州共和国に派遣されるまでは厨川少佐もよく知らなかったのだが、任侠的な性質も持つ馬賊とは本来は地方自治体の自警団のような役割であったらしい。

 末期的な清朝の混乱の中で一部の馬賊は先鋭化して離散集合の結果大規模な軍閥の母体となるほどにまで拡大していったものもあった。特務遊撃隊の母体となった組織も、馬占山将軍の指揮のもとで満州共和国建国に前後する時期にはだいぶ暴れまわっていたという話だった。


 ただし、真偽の程はよくわからない。当時の行動が秘匿されていると言うわけではないのだが、古株の隊員達の自慢話は前後の脈絡がなく続く上に、一つ一つの話が大きくなりすぎるのだ。

 自分達の経験談というよりも威勢のいい軍記物の講談でも聞いているかのようだった。精々十年、二十年ほど前の話のはずなのに、厨川少佐が子供の頃に喜んで読んでいた三国志か何かのようだった。

 実際隊員の何人かは軍衣よりも山賊風の毛皮でも纏った方が余程それらしく見えるだろう。



 ある意味で腹立たしい事に、特務遊撃隊の隊員達は実戦経験が豊富なだけでは無く、兵士としての技量にも優れていた。厨川少佐の原隊である機動連隊と比べてもそれぞれの兵の練度に引けは取らないはずだった。

 いささか個人の蛮勇に偏りがちではあったが、その点では厨川少佐も人の事は言えなかった。少佐が陸奥守の作刀と言われている先祖伝来の刀を軍刀拵えで佩びていたのは本来は指揮刀程度のつもりでしかなかったのだが、実際にはすでに何度か実戦で部隊の先頭に立って敵兵を斬っていた。

 シチリア島上陸作戦の際に後方撹乱を目的に潜入した際には、ドイツ軍の将官の首を文字通りの意味で刎ねていた程だったのだ。


 厨川少佐は特務遊撃隊の隊員達にしばしば苦言をしていたが、実際には他隊から見れば少佐自身の行動も旧時代の豪傑じみたそれでしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ