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1945ドイツ平原殲滅戦2

 対独降伏後にフランス国内で発生した抵抗運動は、その成立過程から活動内容に至るまで組織によって千差万別だった。

 多くの組織はドイツから割り当てられた労務を拒否して脱走した労働者や国外に逃れて自由フランスに合流することは出来なかったが降伏の際に離隊した元兵士、その他様々な立場の者たちの寄り合い所帯だったからだ。


 また、四六時中ドイツ軍に追われているものばかりでも無かった。というよりも、そのような小規模な戦闘集団だけでは何年も組織を維持する事は出来なかった筈だ。

 実際には、抵抗運動に賛同して有形無形の支援を行いながらも普段通りの生活を続ける多くの一般市民の支持があった。そうした市民の中に埋没する事ができたからこそ多くの抵抗運動が活動を続けられていたのだ。



 抵抗運動の活動そのものも多岐に渡っていた。単純なドイツ軍への襲撃行為を繰り返す過激な組織はむしろ少ない方だったのではないか。多くの組織はユダヤ人やフランス国内に不時着した国際連盟軍搭乗員の救出、情報収集といった任務を地道に続けていたはずだ。

 血気盛んなドイツ軍への襲撃は、一見すると派手な戦果を主張することが出来るが、長期的な視野に立つと危惧すべきことも多かった。大抵の場合は、襲撃にあったドイツ軍は、その損害に倍する勢いで周辺住民を巻き込んだ苛烈な鎮圧を行っていたからだ。

 そのような住民を巻き込んだ過激だが刹那的な襲撃作戦の多くは、比較的組織だった動きをする共産党系の抵抗運動が行うことが多かった。

 独ソ戦が開始されるまでは目立つ動きを避けていた共産党系抵抗運動は、モスクワからの指示でもあったのかドイツがソ連に侵攻を開始した後は急激に過激な活動を始めていたのだ。


 共産党系抵抗運動がドイツ軍将兵を狙うのに対して、自由フランスや国際連盟軍からの支援を受けた組織は、兵士個人ではなく鉄道の結節点や通信網などインフラの破壊を目論む事が多かった。

 英国などから送り込まれた連絡員によって十分にねられた計画と取り扱いに専門知識が必要な爆薬などの機材が得られたからなのだろう。



 だが、戦時中に山中などに潜んでいた抵抗運動の多くは、戦争が終わろうとしている今となっては行動の指針を失っていた。

 ドイツと国際連盟との講和によって、なし崩し的にフランスにも平和が訪れようとしていたが、それは官僚組織などを維持したヴィシー政権と国際連盟軍という後ろ盾を有する自由フランスとの妥協によって成立した歪なものだったからだ。

 おそらくヴィシー政権の上層部は政治の舞台から去ることになるが、実務を行う官僚達に代わりはいないはずだ。自由フランスにしても多くの兵力はそれぞれの故郷へと帰還して中枢しか残らないのではないか。

 しかも、戦時中にヴィシー政権と敵対していた自由フランスは必ずしも国民からの広範な支持を受けているわけではなかった。



 早くも戦後のフランス政界における主導権をめぐる密かな闘争が開始された中で、抵抗運動の扱いが両派にとって重要度を増していた。

 フランス本土から逃げ出したという誹りを受けることも少なくない自由フランスは、積極的に本土で活動していた抵抗運動の取り込みを行っていた。自派に取り込んだ抵抗運動と連動していたとする事で、国内外の抵抗運動の一体化を喧伝しようとしていたのだ。


 ヴィシー政権は自由フランスと比べると大義名分では不利だったが、戦時中の脱法行為の免責などといった実利の点をついて、以前はむしろ対立していた抵抗運動の取り込みを行っていた。

 中には抵抗運動に加わっていたと主張するにわか運動家も現れていたらしい。

 自由フランスが政権を奪取して盤石のものとすれば、当然のことながら戦時中の抵抗運動による脱法行為も取り消されるだろうが、ヴィシー政権の官僚達がそのまま政府内に残されるならばどうなるか分からなかった。

 それに枢軸側での参戦が世論によって起こったものであった以上は、抵抗運動も国際連盟側に回ったとみなされていたから、彼らを見るフランス一般市民の目は冷ややかなものだった。それで確固たる免罪符を求めるものが多かったのではないか。



 もっとも、雑多な抵抗運動を一定の形に規定することなど不可能だった。極端に言えば、自分達がそうであると主張すれば、それで一つの抵抗運動の出来上がりだった。元々地下組織なのだから、相当に巨大化した組織でもない限りは、外部のものが証拠を示してその主張を覆すのは難しかったのだ。

 何年か前に乱立する抵抗運動の一体化が自由フランスの指揮下で試みられた時期もあったが、その為に動いていた活動家がドイツに逮捕されて以後は指揮系統の統一は断念されていた。

 元々、フランス本土内では英国に逃れた自由フランスとは距離を保っていた組織も多く、抵抗運動の指揮系統を一体化するのは難しいと考えられていた。

 それどころか、抵抗運動の一体化を行うために英国から再入国していた活動家は、その行動自体を面白く思わなかった他の抵抗運動の構成員によってドイツに密告されたのだという噂もあったのだ。


 結局いくつかの組織が小規模な運動を吸収したり、他の組織と連絡を取り合うことはあったが、それも組織の傾向が似通った一部が行っているのに過ぎなかった。

 その様な意味では、ヴァレリーが参加している抵抗運動は、他の組織とは異なる点が多かった。組織間の連絡や仲介を依頼されることもあるが、基本的に組織の独自性は強かった。組織の構成員が学校の教員や研究者などばかりであったからだ。



 組織の名前は、ただ学校とだけ呼ばれていた。誰に聞かれても奇妙に思われるような単語ではないが、構成員達によってただ学校と言うときはその組織の事を示していた。

 組織に所属する教員達は、進駐してきたドイツに逮捕されそうなユダヤ系などの生徒や家族を密かに匿って国外への脱出に手を貸していた。場合によっては、自分の学校の生徒を撹乱のために他校の先生に預けることもあったが、洒落なのかそのような場合は転校と呼ばれていた。


 そうしたドイツが敵性住民と判断した市民達の国外脱出が一段落してからは、組織の性格から破壊工作などには手を出さずに情報収集に特化していた。生徒やその親が聞き込んできた情報を収集、分析して外部に流していたのだ。

 子供達はある意味で天性の諜報員だった。子どもたちが見聞きしてくる通りすがりのドイツ兵の階級や部隊章、取り留めもない立ち話などを収集してまとめると駐留部隊の正確な移動を推定する事もできたのだ。

 また、フィールドワークの多い研究者であれば、人里離れた地域に赴くのも不自然ではなかった。そこで収集した情報を山岳地帯に根拠地を構える他の組織や国際連盟軍の諜報員に渡せば行動を怪しまれることは無かったし、野外では防諜組織による組織だった尾行も難しかった。



 雑多な情報の断片から全体を推測するというこの学校という組織の指導者となっていたのは、先生と呼ばれる男だった。組織名と同じく先生というのもありふれた固有名詞だったが、組織の中でただ先生と呼ばれた場合は、実際には今はどの学校の教師でもないその男を示していた。

 初老の男が名前を使うときはなかった。昔はパリ近郊にある学校の教師だった男の本名を知るものは少なくないが、組織の中でその名が呼ばれる事は無かった。

 この組織は指導者の先生が一人で作り始めたものだった。粘り強く旧知の教師達の間を回って説得し、教師同士の横の繋がりを巧みに使って学術的なネットワークの中に紛れる形の組織を構築していったのだ。


 ヴァレリーは、この組織の中では古株だったが、他の構成員とは違って教師の職についていたわけではなかった。先生と違って本当に教師だった過去があるわけでもなく、ある学校に20年近く務める用務員というのが表の顔だった。

 だが、先生との付き合いは長かった。元々先の大戦に若くして従軍したヴァレリーは、除隊後に職にあぶれていた。卒業後に即座に志願して前線に赴いたヴァレリーは、従軍経験を除けば職業経験もコネもない田舎者だったからだ。

 その時に学校の用務員という職を世話してくれたのが先の大戦時に同じ部隊にいた先生だった。だが、当時子供が生まれたばかりの先生とヴァレリーが同じ学校に務めていたのはそれ程長い期間では無かった。

 先生がパリから田舎の方へ行ってしまってから後も、ヴァレリーは近況を知らせる手紙を辿々しい文字で書いては送っていた。

 この戦争が始まってから何があったのかは語らなかったが、久しぶりにパリに戻った先生が学校という抵抗運動を立ち上げる時に真っ先に参加したのもヴァレリーだった。


 肉体仕事で鍛えられたヴァレリーは、組織の中では腕っ節では1番という自信はあった。兵役についていた頃には何度も死線を潜っていたし、他の抵抗運動と連絡を取るために野外活動に出る教師に付き従って山野を巡ることも多かった。

 だが、他の直接的な行動に出ている抵抗運動と比べると、学校が装備も構成員も戦闘能力に欠けているのは間違いなかった。ヴァレリーにしても体力では若いものにはまだ負けないという思いはあったが、いざ撃ち合いとなったときに体が動くかどうかは自信はなかった。


 最近になって先生の紹介で組織に入っていた若者は、組織の中でも例外だった。寡黙で暗い表情ばかり浮かべる若者が自らの事情を話すことはなかったが、ヴィシー政権軍の脱走兵であるのは確かだった。

 先生とは旧知の間柄らしく、ヴァレリーは彼から頼まれてその若者、ジャンを自分の助手という名目で預かっていた。しばらく前に先生と二人で出かけてからは少しばかり表情が和らぐことも増えていたが、今はジャンの浅黒い肌にも緊張が走っていた。



 ジャンとヴァレリーを挟んで座る二人の男達は、ヴァレリーよりも少しばかり若いように思える男と精々30を越えたばかりといったところの男だった。

 ジャン程ではないが、若い方の男は角ばった顔を少しばかり緊張させているようだが、年嵩の伊達男は泰然としてすっかり冷めてしまったコーヒーを口にしていた。


 最初にピカールと名乗った年嵩の男が何でもないかのように言った。

「これはもう来ないかもしれないね」

 その言葉に動揺したのか、若い方のロート大尉と名乗った男がジャンとにらみ合うようにしながら緊張していた。


 だが、ヴァレリーは首をすくめて見せただけだった。

「今日のところはそうかもしれんね。それで、どうするね情報部の旦那としては。明日また奴さんが来る方に賭けてみるか、それとも諦めるか……」

 ピカールはそれにすぐには答えずに首をすくめただけだった。


 先生、というよりも組織内の教師陣の伝手をたどった結果現れたのが目前の二人の男だった。間に何人もの伝手を介しているためにお互いの事情は知らないという体を保っていたが、実際には正体はお互いにしれていた。

 ヴァレリーやジャン個人のことは知らなくとも、正確に情報の流れを追うことができていれば、パリ市内に大規模な情報収集網があることくらいはヴィシー政権の官僚達も気がついているだろう。


 そして、ヴァレリーは目の前の男が有能な情報将校であることを知っていた。男が陸軍省情報部長のピカール中佐本人のようだったからだ。伊達男の情報部長の噂はヴァレリーも以前から聞いていた。対独降伏後に軍上層部が刷新された事で就任したらしい。

 親族の中にも情報関係の軍人がいたらしいが、ヴァレリーは詳しくは知らなかった。そんな事よりもピカール中佐本人が情報部長に就任した後は格段にヴィシー政権軍の情勢が掴めなくなっていたことの方が重要だった。

 ただし、流血を伴う弾圧的な態度で防諜体制を整えた訳ではなかった。情報の統制と巧みな人心の操作で情報そのものの流れを操っていたのだ。


 時たまヴィシー政権の重要と思われる情報が流れてくる事があったが、先生は長時間情報の流れを検討した結果から情報操作によるものだと判断していた。

 説明されてもヴァレリーにはよく分からなかったが、どうやら前後の情報を考慮すると不審な点があったらしい。あるいは、敢えて誤った情報を流して地下組織に何らかの行動を促す事で諜報網の流れを追いたかったのかも知れない。


 そのようにして戦時中抵抗運動と鎬を削っていた相手が目の前に安穏としているのはどこか奇妙な感覚だった。

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