1945ドイツ平原殲滅戦1
パリの片隅にあるカフェの客足は疎らだった。年寄りの店長が一人が半分居眠りしながら店に立っていたが、それでも客が少ないものだから店は回っていた。
そんな場末のカフェに大の男が四人も居座れば、逆に目立ってしまうのではないか。年齢も容姿も大きく違う四人の男たちの中でただ一人大して旨くもないチーズをつまみに昼からビールを呑んでいる赤ら顔の中年男であるヴァレリーはそう考えていた。
このカフェに閑古鳥が鳴いているのは、裏通りの端にあるという立地条件が大きかった。それに元々観光客や富裕層ではなく、昼の労働を終えた労働者向けの店だったから、普段から昼間は客は少なかった、
ただし、表通りの有名店でも最近は客入りは悪かった。ようやくドイツ軍の占領が終わってパリの行政権が返還されたその日はお祭り騒ぎだった。表通りどころか、場末のこんなところまで繰り出した市民で大賑わいだったらしい。
だが、すぐにフランス国民はこれからが厄介事が始まることに気がついていた。フランス国内で政治的な決定権を握るものが誰もいなかったからだ。それが内戦という事態になるかどうかは分からないが、主導権争いが本格化するのは間違いなかった。
常識的に考えればドイツ軍が去ったということは、国際連盟軍の一員として彼らと戦っていた自由フランスが勝者ということになるのだろうが、彼らは最近になって著しく弱体化していた。
元々、自由フランスは対独降伏を良しとせずに英国に脱出した将兵を母体として構成されていた。装備を据てて着の身着のままダンケルクから逃れたものも多かった。
だが、彼らには政治的な正統性が欠けていた。自由フランス指導者であるド・ゴール少将も辛うじて降伏時の内閣の末席にいた国防次官の地位に過ぎなかった。フランス本土から高位の政治家が脱出する余裕は無かったし、大軍を動かすのに必要な官僚組織も無かった。
王室などを含む政府重鎮で構成された各国亡命政権と比べると、対独降伏時のレイノー政権から連続していると主張できるだけの正統性が薄かったのだ。
そのように政治的に不安定だった自由フランスの国際連盟軍内部における発言力を支えていたのは、数としての軍事力だった。
対独降伏直後の時点では1個師団を構成する人員数すら確保できなかった自由フランスは、彼らが言うところの枢軸国からの解放を行ったインドシナなどの植民地からの徴兵や、開戦前から駐留していた植民地師団といった欧州外の海外駐留部隊を糾合することで、20万とも言うほどの大兵力を手にしていた。
だが、この大兵力のうち純粋なフランス軍と認められる戦力はさほど多くは無かった。自由フランス軍の兵士達はその多くが植民地から徴兵された有色人種だったからだ。本土に住むフランス人からすれば彼らを同胞として迎え入れるには葛藤があるのではないか。
しかも、その中でも大きな比率を占めるインドシナ植民地は、自由フランスに対する戦時中の協力と引き換えに独立を約束されていた。
現在は自由フランス極東師団と一纏めにされていたが、彼らは既にベトナム、ラオス、カンボジアの3王国として独立を宣言し、国際連盟加盟国から承認されていたのだ。
この自由フランスが行った独立承認は、彼らの兵力を拡大させることには成功したものの、フランス本土に残った住民の反発、ヴィシー政権による枢軸国側にたっての参戦という事態を招いていた。
ヴィシー政権の枢軸参戦は自由フランスによるインドシナ植民地の一方的な独立承認だけが理由ではなかった。
ドイツ側の戦力となることを阻止するために行われた対独降伏直後の英国海軍によるフランス海軍襲撃が、皮肉なことに国際連盟勢力に対するフランス人の不信感を醸成する一因となっていたのだ。
英国側から見ればフランス海軍襲撃がもたらした弊害は大きかった。対独降伏直後に海外植民地警備についていたごく一部を除いて、フランス海軍の中で自由フランス側についた艦艇、部隊は無かったのだ。
結局、自由フランス軍は最後まで陸上戦力に著しく偏った戦力しか持てなかった。装備する数少ない艦艇や航空機といった重装備は国際連盟加盟国、特に英日から供給されるものに頼り切っていた。
ポーランド海軍などが降伏時に健在だった戦力の大半を脱出させて艦艇などを再整備の上使用し続けていたのと比べると、自由フランスの正統性を疑わせるものではあった。
しかも、自由フランスの数少ない欧州系人種部隊は最近になって戦力を激減させていた。
自由フランスは旧インドシナ植民地系の部隊をイタリア戦線に残す代わりに、昨年行われた本土上陸作戦において主力とも言うべき欧州人系部隊をフランス本土であるニース橋頭堡に向けて送り出していた。
だが、その部隊の多くは残存するヴィシーフランス海軍の総力を上げた襲撃を受けて、乗り込んでいた輸送船ごとコルシカ島とニースの間に広がるリグリア海に沈んでいた。
実は、自由フランスが欧州系の人種からなる兵力を大規模に確保できる地域が一箇所だけあった。前世紀末のドレフュス事件の後に大規模なユダヤ系の移民が行われていたマダガスカル島だった。
今でもマダガスカル島がフランスの植民地であることに変わりはないが、同島は実質的にユダヤ系の半独立国だった。どうやらリグリア海で戦死した自由フランス軍部隊の多くはマダガスカル島出身者で構成された部隊だったらしい。
自由フランスがインドシナ植民地の独立の様に何らかの見返りをユダヤ人達に約束していたかどうかは分からない。何れにせよ兵士達がその恩恵を受けることは出来ないだろう。
フランス本土から生まれてこの方一歩も外に出たことがないヴァレリーには、マダガスカル島は全く縁のない土地だった。
今でも根強くフランスに限らず欧州諸国ではユダヤ系への差別意識は存在していた。ナチスドイツによるユダヤ人狩りに積極的に協力した市民がいたという話も嘘ではないのだろう。正直に言えば、姿形は自分たちと変わらなかったとしても、やはりユダヤ人という立場は同胞とは言い難いものがあった。
結局、自由フランスが勝利者だったとしても、その兵力は言ってみれば借りてきたものばかりに過ぎなかった。このまま戦争が終われば、旧インドシナ植民地やマダガスカル島から徴用された兵隊達は自分達の故郷へと帰るはずだ。
だから戦後の自由フランス勢力に残された軍事力は大きなものととはならないはずだった。
これに対して国際連盟軍と枢軸国との戦争という構図の中では敗者となったと言ってもおかしくはないヴィシー政権は、ニース橋頭堡を除くフランス全土を未だに掌握し続けていた。
国際連盟軍は、ドイツ側からの講和申し出までの間にニース橋頭堡から大きく西進する事は出来なかった。というよりもニースへの上陸作戦は彼等にとってフランス本土への本格的な攻勢というよりも、主戦線であるイタリア戦線に対する側面攻撃という面が強かったのではないか。
その証拠に上陸した国際連盟軍主力の日本軍は、橋頭堡を確保した後はニースからの東進、つまりイタリア半島の付け根に当たるポー平原への進撃を開始していた。ドイツ軍は広大なポー平原を舞台に機動反撃を行うつもりだったというが、最終的には講和申し出までの間はひたすら後退を続けていた。
ニース橋頭堡の防衛を任されていたのは自由フランス軍だったが、戦力を損耗させていた彼らには首都パリやヴィシーに向かって進軍する力は残されていなかった。日英製の装備を与えられた機甲師団は健在だというが、彼らの補給線の乏しさを考えれば大規模な攻勢を継続することは難しいらしい。
不思議な事に、ニースを包囲したヴィシー政権軍も交戦を避けるように周囲に布陣したのちは警戒を続けるばかりだった。
ヴィシー政権軍は、上陸作戦時に行われた戦闘で有力艦の多くを失った海軍を除けば、概ね兵力を温存させていた。
この時期にヴィシー政権が多くの重装備を用意できたのは自由フランスとは違って国内の産業を使用できたからだったが、それ以上にドイツ側に立って参戦した後に急遽再軍備が行われた為でもあった。
対独降伏後、建前上は独立を保っていたヴィシー政権は国内の治安維持や本土防衛を目的とした軍備の保持を許されていた。この最低限の軍備がいわゆる休戦軍だったが、その規模は小さく開戦時の大陸軍とは比べようも無かった。
削減されたのは兵員数だけでは無く、数々の重装備も解体や没収を受けてしまったのだ。もちろん軍需産業も生産力を民需への転換やドイツ軍への納品に振り分けることを余儀なくされていたから、技術開発も停滞していた。
ただし、休戦軍への再編成は、同時に旧弊な装備や戦術からの転換も可能にしていた。旧態依然とした重装備は否応なく捨て去られ、数ばかり多い高級将校も軍を追われていた。
結果的に休戦軍では新たな同盟国となったドイツ式の戦術が研究されていた。当然のことながら、ドイツから再軍備を許可された後の新生フランス軍もドイツ式の訓練と戦術で生まれ変わっていた。
実際には没収を免れた旧式装備を装備する部隊も混じっていたとはいえ、少なくとも戦術の柔軟性という点では旧軍よりも優れているという評価はあった。
新生フランス軍に配備された装備は新規に生産された国産品が多かった。当初はドイツ製の装備を購入するという案もあったのだが、実際にはそれは不可能だった。
拡大する一方の前線からの要求に対応する為に、ドイツの軍需産業は自軍向け装備の生産で手一杯の状況だった。それどころか、枢軸側での参戦に伴って帰国するフランス人労働者や対独降伏時の捕虜達の分の労働力を失った事で四苦八苦している所だったのだ。
結局はフランス軍の装備はフランス自身で生産する他なかった。ただし、対独降伏後の数年間でフランス軍需産業の技術は陳腐化していた。開戦前の旧式装備を生産したところで数合わせにしかならないのだ。
そこで、フランス軍需産業には大々的にドイツから技術導入が図られていた。
フランス純正の機体構造に最新のドイツ製品をライセンス生産したエンジンを搭載した航空機などは、どことなく木に竹を継ぎ足した様な違和感を感じさせるものだったが、性能諸元だけを見ればそれまでのフランス純正の機体よりも優れているのは確かだった。
それに、戦前の扱いづらい雑多な多品種少量生産された兵器群に辟易していたヴィシー政権下の軍は、補給や整備の手間を省く為にドイツ占領軍の圧力を背景にして各社に生産の統一を迫っていた。
場合によっては、強権を持って他社製品の生産や他業種への人員引き抜きまで行っていたらしい。ドイツ占領地帯では枢軸参戦後も強制労働紛いの事まで行われていた事をヴァレリー達も掴んでいた。
これらのヴィシー政権の少壮官僚達の働きもあって、表向きは新生フランス軍の装備は統一されたものとなっていた。
実際には士気の低下、定数割れ、装備の優劣の存在など問題は山積みだったが、最前線に配備されたものは特に優遇された部隊ばかりとなっていたから国際連盟軍から見れば気が付かなかったはずだ。
この精強に見せかけた軍隊が現在のヴィシー政権の発言力を強化していたのだ。
ドイツの国際連盟との講和に対して、ヴィシー政権は概ね同意する旨を早いうちから表明していた。そこには、戦後の主導権争いにおいて戦力を減耗させた自由フランスに対して優位に立っているとの認識があるはずだった。
自由フランスとしても、ヴィシー政権に対して強硬な姿勢を取り続けるには得策ではないというものもいるらしい。単に寄り合い所帯である自由フランスの弱みが出たとも言えるが、それだけではないはずだった。
仮にヴィシー政権を完全に否定すると国際連盟軍が彼らの武装解除に動くことになるが、その場合は多国籍の国際連盟軍によって治安維持能力すら失ったフランス本土に軍政が敷かれる可能性も否定できなかったのだ。
この様な状況の中で、ヴァレリー達フランス本土に残留して抵抗運動を行っていた者たちの取り込みがヴィシー政権、自由フランス双方で盛んになっていた。