1944流星10
家族にも行き先を隠したまま日本国内から次々と著名な学者が姿を消していったが、当初はそれが世間で話題となることはほとんど無かった。行方をくらませていたのが物理学者に限られていたからだ。
だが、噂は次第に研究者たちの間に密かに広まっていった。詳細は不明だが、政府は何らかの極秘計画を始めている。しかも、それは異例であることに多国籍で行われているらしいというのだ。
日本帝国の参戦以前より、英国は少なくない数の技術者や研究者の集団を本国から欧州から遠く離れた日本帝国など同盟国などに移動させていた。生産設備の移転を含むその措置は、ドイツ空軍によって空襲を受けている英本土からの疎開として組織的に行われていたものだった。
疎開してきた技術者達の多くは日本国内の企業などで英本土と同様の研究開発に従事していたのだが、中には公開情報からは所在がつかめなくなったものもいたらしい。
大半は技術者だったが、中には著名な研究者もいたという噂だったが、保安の為に疎開者の名簿は一般には秘匿されていたから詳細を把握しているのは両国政府の一部官僚に限られていた。
もっとも、海軍に入隊してさほどの月日が経っているわけでもない山岡大尉には、いずれも縁遠い話だった。
海軍委託生制度の出身である山岡大尉もとある帝国大学を卒業していたから、行方が分からなくなった物理学者達を全く知らないというわけではなかったが、在学中は数学を専攻しており、海軍入隊後は艦政本部の電気部に一貫して所属していたから物理学とは少しばかり距離があったのだ。
ところが、次第に事情は変わり始めていた。姿を消していく研究者が物理学者に限らなくなっていったのだ。むしろ、研究者というよりも、より実務者寄りと言える技術者達が配属先を告げられずに招集される例が増えていた。
山岡大尉の知り合いの数学者や計算機開発に携わるものも何人か連絡が取れなくなっていた。
得体の知れない何かが始まろうとしていた。シベリア送りという言葉が囁かれ始めたのはその頃のことだった。ロシア帝国内部で大量の物資と資金、それに建設部隊に動きがあったのだ。
最初に動員されたのは、ウラジオストックに司令部を置く日本陸軍遣露軍団隷下に配置されていた陸軍飛行場設定隊の一つだった。
飛行場設定隊は、その名の通り航空基地の急速建設を行うために、先の欧州大戦以後の急速な航空部隊の増強に伴って海軍設営隊と共に重点的に整備されていた部隊だった。
遣露軍団隷下の飛行場設定隊は、シベリア―ロシア帝国西部が日本陸軍の予想戦場であることもあって特に優先的に機械化された装備優秀な部隊が編成されていた。指揮官も佐官級だというから、部隊の格の上でも大隊から連隊に匹敵する大規模なものであるらしい。
その飛行場設定隊が動員されていた。ただし、建設されたのは航空基地ではなかったようだ。部隊の性格上、飛行場設定隊は正規の軍人ばかりではなく、専門職の軍属も多数が配属されていた。噂の出処はそこ辺りであるようだった。
大規模な飛行場設定隊の場合、各中隊毎に装備や人員の配置が決まっていた。飛行場という広大な施設を建設するという事業では伐採や整地といった前段階の工程や掩体壕の建設など様々な作業に分かれていたから、各作業内容に特化した部隊編成が取られていたのだ。
ところが、動員されたのは飛行場設定隊の一部のみだった。出動した中隊の顔ぶれから推測すると、未開の原野を切り開いて大規模な整地作業を行うらしい。
だが、留守任務の部隊も安穏と駐屯地で休暇を過ごしていたわけではなかった。駐屯地に残る彼らには出動した部隊から次々と必要な資材を調達するように命令が出ていたからだ。
その内容は首を傾げざるを得ないものだった。多くの資材は建築用、しかも真冬のウラジオストックでも過ごせそうな本格的な建屋を作るようなものばかりだったからだ。
彼らはシベリア奥地で街でも作ろうとしているのか。そんな冗談が隊内で交わされていたが、ウラジオストックなどから民間人の大工までもが徴用されたと聞いて次第に冗談を言うものは少なくなっていた。
民間人の雇用は、日本陸軍が主体となっていたものでは無かった。ロシア帝国政府が直接雇用を行っていたらしいが、彼らもシベリア奥地に向かったまま帰らなかった。
街かどうかは分からないが、送り込まれている資材の量からしても相当大規模である上に越年して使える施設がどこともしれない場所に建てられようとしているらしい。
ソ連に不法に占拠されていると彼らが主張する西部を除いても、ロシア帝国は広大な領土を有していた。しかしソ連と分割された領土の人口密度は低く、しかも人口密集地はアムール川やシベリア鉄道といった交通手段に隣接する箇所に限られていた。
主要な交通網以外では、日英資本などによって建設されていた鉱山などを一歩でも離れると未開の原野が広がっていた。そうした場所に秘密裏に都市を建設したとしても外部から発見するのは相当困難となるはずだ。
その頃になるとシベリア送りという言葉も定着していた。多国籍で何らかの科学的な秘密事業が行われていることは、技術者達にとって公然の秘密となっていたのだ。
搬入される資材はシベリア―ロシア帝国で現地調達される建材や日本国内から持ち込まれるものだけではなかったらしい。ベルギー領となっているアフリカ植民地からも何らかの物資が厳重な警戒態勢で持ち込まれたというが、詳細は不明だった。
建設部隊の動向など周辺の情報からそこまでは推測はできたものの、肝心の研究内容は不明だった。多国籍事業であるにも関わらず機密度が相当に高いのか、計画の中枢に関わる情報は全く出て来なかった。
ただし、ある程度の推測は可能だった。計画初期の要員が物理学者である事は間違いなかった。それから大規模な設備の建設が行われていることに加えて計算機や数学者が動員されていると言う事は、計画が次の段階に至ったということではないか。
詳細は不明のままだったが、初期の物理学者は何らかの研究事業の中で理論を組み立てる為に必要だったのだろう。その段階を終えたあとは理論を現実のものとする為に膨大な計算が必要となった。その為に計算機や数学者が必要となったと推測するのが自然だった。
おそらくは次にくるのは建設用ではなく、研究内容を具現化する為に必要な資材や機械加工に関わるものなのでは無いか。もしかするとアフリカから持ち込まれたという何らかの物資もそれに関連するものなのかもしれなかった。
ところが、実際には膨大な資材、機材や一線級の研究者達が密かに動員されていたにも関わらず、研究計画は足踏みをしている可能性もあった。射撃盤の改良というある種の計算機に関わっていた山岡大尉にも異動の内示があったからだ。
書類を用意していた上司は、異動先が明示されておらず、ウラジオストックへの移動日だけが記載された紙面を見て、意味有りげな表情で身辺整理をしておけといっただけだった。
山岡大尉は、男の前で苦虫をかみ潰したような苦々しい顔になっていた。大尉に焦燥があるという男の指摘は間違いではなかった。
確かに山岡大尉には焦りがあった。ウラジオストックに向かう船便で出発するまでさほど日はなかった。おそらく今回の射撃試験の成果を検討したとしても、更に担当する射撃盤の改良を行うことはもう出来ないだろう。
実験結果の内容によっては、手掛けている射撃盤の改良は継続されることなく、引き継ぎ者のいないままここで打ち切られてしまうかも知れなかった。
だが、男は山岡大尉の考えを一蹴するようにいった。
「こう言っては何ですが、大尉は必要以上に異動命令を恐れていると思えます。あるいは、現在の射撃盤に対して固執しているとも言える」
呆気に取られて、山岡大尉は男の顔を見つめたが、すぐに不機嫌な表情を浮かべていた。射撃諸元算出に必要な時間を短縮しようと思えば射撃盤の改良を行うのが一番効率が良かった。
だが、その様な事情を外部の人間が把握しているとは思えなかった。
山岡大尉の表情の変化に気が付いていないかのように男は続けた。
「大尉も射撃速度の高速化が求められている事は十分に理解されているように思えます。しかし、基本方針に関しては海軍内部でも確固たる方針は確立されていません。
それで大尉は射撃盤の計算速度を向上させようとしていたようですが、必ずしも射撃盤の高速化だけがその手段では無いはずです」
山岡大尉は首を傾げていた。すでに電探による精密測定の実施など方位盤の改良は先行して進められていた。順番からすれば次にあるべきは高精度化した方位盤に射撃盤の速度を合わせていくことではないか。
だが、それを問いただすと男は何でもないかのようにいった。
「必要なのは射撃指揮に必要な機構全体としての機能を向上させることであって、個々の装置の改良に拘っていては木を見て森を見ずということになりかねません」
山岡大尉はふと気がついていた。もしかすると男が言っている機構というのは、射撃盤と方位盤の統合のことではないか。
以前高射装置においては両者を一体化した構造のものもあったが、結局は艦橋頂部に据え付けるには大型となってしまった上に複雑化し過ぎて、結局は射撃盤を分離したものが後継となっていたのだ。
だが、男の話は続いていた。実際にはそのような単純な話ではなかったのだ。
「環境の変化を恐れる必要はありません。むしろこれまでとは違って異才に囲まれることで生まれてくる考えもあるのではないですか。正直にいって既存の構造を保ったままでは機械式計算機である射撃盤の抜本的な改善は難しいでしょう」
そこで一旦言葉を止めると、男は山岡大尉の目を覗き込むようにしていった。淡々とした口調だったが、山岡大尉は蛇に睨まれた蛙の様に身動きができなくなっていた。あるいは、悪霊に取り憑かれたのかもしれない。脳裏の片隅でそのように考えていた。
「大尉もご存知の通り、貴方の異動先には有能な研究者や技術者が数多く在籍しているでしょう。その中には、優れた理論やアイディアを有していても、既存組織の中で才能も埋もれていた方もいるのではないですか。
そうした異能ともいえる研究者との会話で山岡大尉にも得られるものが多いと思いますよ」
一体この男は何処まで何を知っているのか。山岡大尉は不気味に思っていたが、すぐにそのような事は忘れていた。
ふと、以前相談しようとしていたことのある研究者が姿を消していることを思い出したのだ。予想が正しければ、日本放送協会付きの研究所に採用されたばかりだったその若い友人も、山岡大尉よりもずっと早くシベリア送りとなっていた筈だった。
―――確か最後には増幅する鉱石を発見したとか言っていたか……
その時は真空管のように振る舞う鉱石があると聞いても単なる与太話としか思えなかったのだが、今はもっと詳しい話を聞いてみても良いのかもしれないと考え始めていた。
色々と考え始めた山岡大尉は、いつの間にか内火艇から男の姿が消えていることに気が付かなかった。それどころか、呉工廠本部近くの桟橋に降りた頃には艇内で誰かと話したこと自体を忘れていた。
ただし、今後の研究方針だけは定まっていた。