1944流星4
唐突に四四式艦上爆撃機の後席からエンジン音よりも大きく柏手を打つ音が聞こえてきていた。垣花二飛曹が怪訝そうな表情になって操縦席から振り返ると、偵察員の井手中尉が左翼に見える厳島に向かって頭を垂れる姿が見えていた。
すぐに頭を上げた井手中尉は、垣花二飛曹の視線に気がつくと照れ笑いをしながら言った。
「正月は宮島神社に参拝しようとガンルームの中で話が出ているんだが、どうだ二飛曹も一緒に来ないか」
年齢は垣花二飛曹よりも少しばかり上のはずだが、規律に厳しいとされる海軍兵学校を卒業したと言う割には井手中尉には子供じみた屈託の無さがあった。それ自体は中尉の育ちの良さが伺えるものではあったが、同時に時たま無神経な所も感じられていた。
垣花二飛曹は言葉を選びながら言った
「戦時中とはいえ、厳島の初詣は人集りになると聞きますよ。島に渡る船便も限られているらしいですから、門限までに帰れないかもしれませんよ」
だが、井手中尉は一笑していた。
「だがなあ、戦地に赴けば来年の初詣に行けるかどうか分からんのだから、門限破りくらいを恐れても始まらんのじゃないかねぇ」
垣花二飛曹は唖然としていた。士官搭乗員である井手中尉の耳にはこの第545航空隊が欧州に派遣されるという話がもう来ているのではないか、そう考えてしまったからだ。
確かに、これまでに例をみない艦爆、艦攻の2機種を統合した四四式艦爆の訓練期間は長引いていたが、配属されてきた新兵を含めてすでに概ね航空隊としての練度は及第点に達していると最近では判断されていた。
だからこれまでの傾向からすれば、新機材に対応した十分な練度を有する航空隊が前線に派遣される可能性は高かったのだが、ここしばらくのドイツとの正式な講和条約が締結間際と噂される情勢からすると、自分たちが欧州に派遣されるという事態にどことなく現実味を感じられなかったのだ。
新聞報道などを通したあやふやな情勢の雰囲気を除いたとしても、目ざとい下士官であれば些細な変化から講和の機運を読み取っていた。
例えば、四四式艦爆の眼下に広がる広島湾の光景が変化していたこともその一つだった。航空隊が新規に編制された当初は、広島湾内には荷役作業や船団を組む僚船を待つために数多くの商船の姿が見えていた。
この辺りは古くから牡蠣の養殖が盛んに行われており、沿岸部には数多くの牡蠣を付着させた筏が浮かんでいたが、その牡蠣筏の間を縫うようにして荷役を行う為の艀や曳船がひっきりなしに行き来していた。
広島市南部の海岸沿いに位置する宇品地区には船舶輸送を統率する陸軍船舶司令部や糧秣の調達管理を行う糧秣支廠もあったから、商船だけでは無く船団に同行する特殊船や軍の運送艦などの姿を見ることも多かった。
ところが、わずか数ヶ月の間に広島湾の様子は一変していた。湾内で待機する商船の数が激減していたのだ。
これまでも、商船の姿が一斉に消え失せる事が無いわけではなかった。それは大規模な護送船団が出発した直後のことだった。
商船が長期間の待機を強いられていた理由の半分は、日本各地の港における荷役能力が飽和したためだった。船団を構築する多数の商船の積み下ろしを一挙に行えるほど数多くの熟練作業者を確保することが難しかったのだ。
つまり多くの商船は自船の荷役作業そのものに時間がかかっているというよりも、船団に編入された他船の準備が終わるのを待っている船が多かったのだ。だから、船団が出発した直後は一時的に滞留していた商船の姿が無くなっていたのだ。
大規模な護送船団の場合は、護衛艦艇を除いた純粋な商船だけで100隻を越えるものも珍しく無かった。勿論だが広島湾から出港する商船だけでその数になるわけではなかった。
日本各地や満州共和国、シベリアーロシア帝国などから出発した護送船団を構成する各船は、本土近海の沖縄や台湾沖に設定された海域で順次合流した後に南下していた。
ドイツ潜水艦隊の跳梁する大西洋の入口となる南アフリカまでは、同じことの繰り返しだった。アジア圏の植民地などからの輸送船と合流することで船団構成は次第に膨れ上がっていった。
シンガポール、インドといった中継点では商船が次々と合流するとともに護衛艦艇の交代が行われていた。
護衛艦艇としては大型の海防空母は概ね全行程に随伴していたが、大西洋では特に厳重に警戒が行われていたために、一部の対潜部隊は大西洋から出ることなく危険海域における追加の護衛艦艇専任であったらしい。
しかし現在はそのような大規模な船団が構築される事は少なくなっていた。
日本本土などから英国に向かう輸送量が急激に減少したわけではなかった。その証拠に広島港の沖仲仕が作業員の雇い止めを行ったという話は聞かなかったし、今も荷役を行う為に艀が行き交う姿も見えていた。
姿を消したのは荷役や僚船を待っていた商船だったのだ。
商船の独航を禁じて大規模な護送船団を構築する主な理由は、商船の方ではなく護衛兵力の方に存在していた。
船団護衛に必要な護衛艦艇の数は、護衛対象の数に比例しなかった。仮に1隻の商船を護衛する艦艇1隻が必要であったとして、これが商船が10隻となっても護衛艦艇も10隻が必要になるとはならなかった。
商船が一塊になっていれば、敵潜水艦が狙う船団側面の長さは見かけ上減少するし、周囲に護衛艦艇を展開する余裕も出来るからだ。極論すれば、商船10隻が横並びで航行した場合、敵潜水艦が攻撃出来るのは1隻だけという事になる。
国際連盟軍は、この原則に従って護送船団を構成する商船の数を増大させていった。
開戦当初の護衛艦艇の数が少なかった頃は、この手法で船団護衛部隊の割当を確保していたし、戦時建造艦艇の数が揃ってきてからは、余剰となる護衛艦艇と海防空母で積極的な潜水艦狩りを行う対潜部隊を編成する余裕まで生まれていた。
だが、護送船団の構築は、これに参加する商船からすると不経済な点が多かった。
船団で航行する場合は、落後船を出さないために航行速度は最も遅い船に合わせなければならないし、対潜警戒の為に行う之字運動は頻繁な転舵を要求するから、集団での航行に不慣れな商船乗員は常に僚船との衝突を警戒しなければならなかった。
それに大規模船団であれば、出発、到着地共に一挙に到着した商船団によって港湾の荷役能力は飽和するから、長期間の待機を強いられる商船も少なくなかった。
同一の諸元を有する戦時標準規格船が次々と就役したことで、船団航行時に発生する欠点は弱まってはいたが、荷役能力は船団側では向上させようもないのだから、経済性の悪化は避けられなかった。
ドイツ海軍潜水艦隊の中でも行方不明になった潜水艦があるらしく、またソ連や米海軍にも警戒する為に大西洋における独航こそ未だに禁止されていたが、船団の規模は小規模化されて航行は容易くなっていた。
船団の集結地点も主に南アフリカで一挙に行うようになっているらしく、荷役を終えた商船はすぐに広島湾内から出港するようになっていたから、湾内の様子は様変わりしていたのだ。
そのような様子を見る限りでは、航空隊が欧州に赴く前にこの戦争も終結するのではないかと楽観的に考えるものが出てきてもおかしくはなかった。
ただし、垣花二飛曹は以前同じ広島湾内でそのような楽観論を打ち消すような光景を目にした事があった。湾内奥深くの呉工廠に向かうのか、大きく傷ついた戦艦がゆっくりと航行している姿だった。
欧州にいる間に応急修理を済ませたせいか、傍目からするとまともな姿に見えたが、敵味方艦の識別帳に記載された姿と比べるとその戦艦には違和感があった。
開戦以後の防諜体制の強まった時期に就役していたから詳細は不明だったが、大和型戦艦は高角砲などに損害を被っていたようだ。
現在では英国本土にまで進出した支援部隊は、戦艦でも浮揚できる浮き船渠まで持ち込んでいたし、英国本土ばかりかインドなども造修能力は高かった。それをわざわざ日本本土まで帰還させたということは、目に見えない箇所にも重要な損傷を被っている可能性もあった。
―――やはり、このまま帝国はソ連となし崩しに戦争になってしまうのだろうか……
数ヶ月前にバルト海で発生したという戦闘のことを垣花二飛曹は思い出していた。
ドイツ占領下のポーランドに取り残された難民の救出中に発生した海戦は、国際連盟軍の勝利で終わっていた。友軍の損害は詳細は伝わって来なかったが、ソ連海軍の主力艦は無力化されたらしいという話は伝わってきていた。
それにバルト海での海戦に前後して各報道の論調が変化して来ていた。
欧州に派遣された報道員の一部は既にドイツ国内に入っていた。新聞などには英国空軍の夜間爆撃機を主力とする国際連盟軍の爆撃で破壊された街並みや、焼き出された住民を写したものも載っていたが、大半の報道内容はポーランドなどから西へと追い出された難民達の姿に関するものだった。
キール沖に到着後放棄された特殊な輸送船、そこから疲労困憊した様子で助けを借りながら下りてくる老若男女の難民達の姿や命からがら逃げ出してきた彼らの体験談といった内容の報道が連続していた。
おそらくは、これまでの敵対関係から一転する対独支援に正当性を与える為に世論の喚起を促す為のものだったのだろう。
垣花二飛曹達にとって重要なのはそこでは無かった。単に戦争はまだ続くという点にあった。
開戦以後、陸軍に引き摺られるようにして日本海軍は各航空隊と母艦や地上の基地などの支援部隊の指揮系統を区別する空地分離方式を採用していたが、それと同時に航空隊は名称ではなく、やはり陸軍の飛行戦隊と同じように番号が割り振られていた。
この航空隊の番号には固有の法則があった。第545航空隊の場合は呉鎮守府隷下の艦爆隊ということになる。
しかし、欧州に派遣された場合は航空隊の番号が変更される可能性があった。第545航空隊の番号は、同時に地上基地に展開する部隊であることを示していたからだ。
ここ最近は、航空隊には集中して瀬戸内海を航行する練習空母を使用した発着艦訓練が行われていたから、欧州派遣となった場合には旧式機を装備し続けている既存の空母搭載部隊と入れ代わりで空母に搭載される可能性は残されていた。
このように母艦や基地の所属に縛られることなく柔軟な運用が可能となるのが空地分離方式の利点だったが、艦上機部隊の場合は500番台ではなく600番台の番号が割り振られていたから、本当に母艦に搭載されるときは航空隊の名称も変わることになるのだ。
派遣される場合はどのような手順になるのか、それも分からなかった。できる事ならば、兵員輸送仕様とされた戦時標準規格船に積み込まれて延々と船旅を行うのが良かった。
兵員輸送用の船は、標準型の戦時標準規格船から南方海域を航行するための通風装置に加えて多くの将兵を乗せるために一日中稼働し続ける給食施設や厠などは増設されているものの、多段ベットの寝心地は大して良くは無いらしい。
しかも、長旅の間は周りの仲間と話し込む以外に何もすることは無かった。
だが、兵員輸送船にも利点が一つあった。長旅の間に状況が急変して彼らが不要となるかもしれなかったのだ。
四四式艦上攻撃機流星の設定は下記アドレスで公開中です。
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