1944バルト海海戦56
デム曹長が乗り込むFw190Dに割り当てられた離陸順が、ようやく回ってきていた。思わず安堵のため息をついた曹長は、慌てて真面目な表情を取り繕いながら愛機を誘導路に前進させていた。
Fw190Dに地上から指示を行う誘導員や作業を見守る何人かの整備兵は、揃って陰気な顔つきをしていた。彼らにあからさまに喜んでいる姿を見せつけないようにしながら、デム曹長は離陸を開始していた。
デム曹長が所属するドイツ空軍第53爆撃航空団、戦闘飛行隊は実質的に全滅していた。Fw190Dが配備された曹長達の飛行中隊は未だに戦闘可能であったが、飛行隊の主力であるMe262装備の飛行中隊からは稼働機はすべて無くなっていた。
今回の本国への帰還命令は、貴重なジェットエンジン搭載機の操縦経験を持つ部隊を後方に下がらせて再戦力化を図るためのものであるらしい。
しかし、本国に撤退できるのは輸送機の数からも飛行隊の搭乗員やジェットエンジンの整備を担当する隊付の整備員に限られており、これまで基地機能を維持してきた基地隊隊員の多くは、ソ連軍の包囲下におかれた旧ポーランド領に取り残されていた。
これから先彼らも包囲網からの脱出を図る陸軍部隊に合流をはかるというが、仮に本国に帰還できたとしても長く苦しい地上戦に巻き込まれることは避けられなかった。だから一足先に空中を撤退する将兵に恨めしそうな顔を向けるものが多かったのだ。
新鋭のジェット戦闘機の配備を受けた航空団の再編成途上にも関わらず航空団各隊から抽出されて東部戦線に派遣された飛行隊の目的は、敵爆撃機、襲撃機の阻止にあったが、そのような任務にはデム曹長達Fw190Dを装備する中隊はほとんど参加していなかった。
飛行隊の編制は、Me262とFw190Dをそれぞれ装備する飛行中隊の混成という変則的なものだったが、主力装備はあくまでも高速のジェット戦闘機であるMe262だった。
だが、高性能である一方で、これまで実績のないジェットエンジンを搭載したMe262は、実戦を想定した場合は数々の懸念事項が発生していた。
高速機であるために離着陸速度が高く、また整備された滑走路を必要とするということは、脆弱となる離着陸時にこれを援護する戦闘機部隊を編制に含むことが必要となるという事を示しており、戦闘機を戦闘機が援護するという矛盾した事態が発生していたのだ。
Fw190D配備の飛行中隊はこの離着陸援護を行うための防衛部隊であるから、Me262が出撃し続ける間は基地防衛以外の用途に転用することは控えられていたのだ。
飛行中隊に配属されたごく少数の新兵や若手士官の中には、接敵する機会の少ない防衛部隊への配属を不満に思うものもいたが、デム曹長のような軍歴の長い下士官の大半は、生存率の高い部隊への配属に安堵するばかりだった。
しかし、新鋭のFw190D戦闘機による援護をもってしても、飛行隊主力であるMe262の消耗は激しかった。
旧ポーランド領の全域を舞台とする連続攻勢を僅かな間に集中して行ったソ連軍は、当然のことながら航空機による攻撃も盛んに行っていた。
開戦初期にドイツ空軍が行った電撃戦を思わせるような激しい襲撃に対して、戦闘飛行隊は果敢に抵抗していた。戦果は大きかったが、それに比例して損耗も拡大していったのだ。
それに技術的に熟成された従来型のレシプロエンジンに比べると、実用化が始まったばかりのジェットエンジンは寿命が短く、信頼性も低かったから、飛行中隊は急速に戦力を消耗させていったのだ。
もっとも、この飛行隊は他隊と比べると消耗は少ない方らしいとも聞いていた。この隊にやや遅れて複数のMe262装備の部隊が東部戦線に投入されていたが、中には短時間で機材人員ともに消耗し尽くして実質的に消滅してしまった部隊もあるらしい。
確かに飛行隊は主力機であるMe262こそ稼働機は全て失っていたものの、離着陸時の事故やジェットエンジンの寿命が来て放棄された機体も多かったから、搭乗員の損耗は機材と比べると低かった。
航空基地の整備体制の充実や予備部品の潤沢な補充が行われていたのならば、今でも飛行隊は戦力を保持し得ていたのではないか。
元々、この飛行隊は爆撃航空団隷下の双発爆撃機部隊だった。
それがジェット戦闘機であるMe262を装備する戦闘機隊となったのは、同じ双発機を運用していた為に取扱に慣れているであろうという判断ももあったようだが、実際には不要となった爆撃航空団の人員を転用するという側面があった事も無視できなかった。
もっとも、この部隊にジェット機の配備が開始された当初は、速度性能を活かした高速爆撃機として運用する計画だったらしい。
Ju88など高速爆撃機として開発されてきた機体はこれまでにも何機も存在していた。どの時代でも、従来機から隔絶した高速性能を持ってすれば、敵戦闘機の迎撃を振り切って無力化する事ができると考えられていたからだ。
しかし、このような戦闘機無用論は何れも退かれてきた。技術の進歩によって爆撃機の高速化が図られたとしても、それは一時的な現象に過ぎなかったからだ。
当たり前といえば当たり前の話だが、仮に画期的な技術を導入した高速爆撃機がある時点で就役したとしても、同様の技術を敵戦闘機が導入すれば、爆弾槽や多くの搭乗員を載せる空間に重量を割く必要の無い戦闘機のほうが高速となるのは自然な現象だったからだ。
それどころか、爆撃航空団の使用する爆撃機よりも軽快な急降下爆撃機でさえ消耗率が激しくなる一方だった。現在では急降下爆撃航空団の多くは、爆弾を抱えた急降下爆撃からロケット弾を主に使用する緩降下爆撃に戦術を切り替えて、戦闘爆撃機を配備する地上攻撃機航空団に転科されていた。
そもそもどれだけ高速性能を発揮したとしても、Me262を本格的な爆撃機として運用するには制限が大きかった。
Me262は双発機と言っても機体規模はさほど大きなものではなかった。揚力に直結する主翼面積もさほど大きなものではなかったから、爆弾搭載量は500Kg爆弾2発程度が限度であり、合計して3トンを越える爆弾を搭載するJu88とは比べものにならなかった。
もちろん、その程度のことはドイツ空軍も把握していたはずだった。Me262の爆撃機型は、本来であればJu88などの本格的な爆撃機に対する正統な後継機として認識されていたわけではなかったようだ。
デム曹長は詳しくは知らないが、ドイツ空軍ではより本格的なジェット爆撃機の開発が進められていたらしい。今は亡きヒトラー総統の鶴の一声で開発推進が行われたというMe262の爆撃機型は、そのジェット爆撃機が配備されるまでのつなぎとして限定的に生産される予定だったという話だった。
だが、こうして戦闘が一段落してから落ち着いてみると、デム曹長にはヒトラー総統やドイツ空軍の上層部にはまた別の思惑があったのではないかと考え始めていた。
ジェットエンジンの脆弱性を考えると、十分に熟成されるまでの間は急速な機体操作を行わない爆撃隊に配備して問題を洗い出そうと考えていたのではないかと思っていたのだ。
第53爆撃航空団がJu88からMe262に機種転換、さらには戦闘機隊に転科して実戦投入されてから後も、Me262装備部隊は次々と誕生していたが、後発のそれらはいずれも純粋な戦闘機部隊だった。つまり、レシプロ戦闘機からジェット戦闘機に機種転換を行っただけだったのだ。
戦闘機部隊としては、鈍重な爆撃機乗りを強引に転科した部隊よりも、純粋な戦闘機乗りを乗せた方がより多くの戦果が得られると期待していたのではないか。
詳しくは知らないが、戦闘機隊総監のガーランド少将がこの方針を推し進めているらしい。
ガーランド少将はMe262の試験飛行にも立ち会ってその性能に惚れ込んだという話もあったが、以前から戦闘機無用論とは反対に生まれながらの戦闘機乗りだというから、ヒトラー総統亡き後にこれ幸いと強引にMe262の戦闘機隊への配備を行ってしまったのではないか。
ところが、現実はガーランド少将が考えていたよりも過酷だった。実際には、同規模の部隊だったとしても、後から前線に投入された純粋な戦闘機隊の方が早々に戦力を喪失して後方に送られていたのだ。
離着陸時の事故や未成熟なエンジンの損耗といった戦闘以外の条件は、爆撃航空団から転科した部隊でも同様なのだから、損害がより多いということは予想に反して戦闘機隊の方が弱いということになってしまうのではないか。
理由はいくつか考えられていた。1つは機種転換訓練の短縮だった。
以前の戦闘で壊滅的な損害を受けた為に本国で再編成中に機種転換を受けた爆撃航空団は、十分な訓練期間が設けられていた。というより空軍上層部からすれば、新たな概念のジェットエンジン搭載機を爆撃機として運用する際のモデルケースとでも考えていたのではないか。
デム曹長達の援護用レシプロ戦闘機隊が配属されることになったのも、この期間の研究の結果であったらしい。つまり機種転換訓練に留まらずに、この時期はある種のジェットエンジン搭載機の実験期間とも考えられていたのではないか。
だが、後発の戦闘機隊ではそのように贅沢に期間を設ける余裕は無かった。それで搭乗員達もジェットエンジンに十分に慣れることが出来なかったのではないかと言うのだ。
しかし、デム曹長はいささか納得しかねるものを感じていた。機種転換訓練期間が短縮されたのは事実だが、それだけが理由とは思えなかったのだ。それに矛盾も存在していた。
例えば、機種転換訓練の過程は爆撃航空団の転科訓練時の実績に基づいて設定されているはずだった。操縦員の習熟が不満足というのは事実なのだろうが、爆撃機から転科するという条件を加味すれば、個々の搭乗員の練度にさほど大きな差は存在しないはずではないか。
確かに、ジェットエンジン搭載機は従来のエンジンとはかなり特性が異なっていた。例えば、原理上ジェットエンジンの稼働にはレシプロエンジンよりも遥かに大量の空気を必要としていた。しかも、その空気の流れはエンジンに対して真っ直ぐに流れていないといけないらしい。
技術者ではない上に、ジェットエンジン搭載機の操縦者でもないデム曹長は詳しいことは知らないが、エンジン内の燃焼条件がレシプロエンジンよりもかなり繊細なものであるようだった。
そのような技術的問題から、適切な燃焼条件を保つためにジェットエンジン搭載機は急速な機動を行うことは禁止されていた。急激な加減速を行うためのスロットル操作を行うと容易にエンジンが停止してしまうからだ。
それに、圧倒的な高速性能を有する一方で、Me262は大重量のエンジンが重心から離れた主翼に配置されている双発機故のロール率の悪化という欠点を有していた。
これにスロットル操作の難しさからなる低い加速性能が組み合わさると、Me262はただまっすぐに飛行するのが主な戦術機動となってしまうのではないか。
生粋の戦闘機乗りには、ジェットエンジン搭載機の特性は余り好まれていないようだった。空軍入隊から長く戦闘機に乗り続けていたデム曹長が言うのも奇妙なのだが、ドイツ空軍の戦闘機搭乗員は護衛戦闘や迎撃任務よりも敵機との格闘戦闘を好む傾向があった。
大雑把な空域の指定を除けば搭乗員の判断に大部分を委ねるフライヤクト、自由な狩りが好まれたのもそれが理由なのだろう。
だが、この傾向がジェットエンジン搭載機に搭乗した際に無用な犠牲を生む結果を招いたのではないか。つまりジェットエンジンに慣れていない多くの戦闘機乗り達は以前の搭乗機と同じ感覚でMe262の操作を行っていた可能性が高かったのだ。
勿論、Bf109やFw190では容易だった急角度の旋回を行えば、あっさりとMe262はエンジンが消火して操作不能に陥っていたはずだった。
混戦の最中に友軍機の正確な最後を確認できたものは少なかったが、戦闘時の損害にはそのようにして発生したものもあったのではないかとデム曹長は考えていた。
これに対して、爆撃航空団から転科した元爆撃機乗りたちには、ある意味でそのような余裕は無かったはずだ。これまでも間近で「高速爆撃機」が次々と撃墜される光景を見ていた彼らは、対戦闘機戦闘は避けるように教育されていた。
つまり元爆撃機乗りたちは、Me262の高速性能を活かすことで敵戦闘機を避けて、愚直なまでに本来の標的である敵攻撃機の襲撃のみに集中していたのだろう。
それに爆撃機はもともと急速な加減速を行うことは少ないから、Me262の機体特性とは相性が良かったはずだった。それが戦闘時における飛行隊の損害極限に繋がっていた側面も無視できない。デム曹長はそう考えていたのだ。
ふとデム曹長は視線を上げていた。すでに離陸してからかなりの時間が過ぎていたが、ようやく前方に先行していた輸送機の姿が見えてきたからだった。