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1944バルト海海戦55

 日本海軍の水上機母艦は、今となっては他国に例を見ない特異な艦船となっていた。

 以前は高速で艦隊に随伴して水上機を機動運用する水上機母艦は、日本以外の各国海軍でも大きな期待を掛けられて整備がおこなわれていたが、飛行甲板を持つ航空母艦の実現によって、陸上機形態に対して飛行性能に劣る水上機しか運用できない水上機母艦は次々と戦列を離れていったからだ。



 日本海軍が水上機を偏重していた理由は、リット少将にはよく分からなかった。広大な太平洋で仮想敵を米海軍と定めていた事が原因だったのかもしれない。

 実際に就役した日本海軍の水上機は、他国の同時代機と比べて卓越した性能を有していたが、それが有効に活用されていたとは思えなかった。

 本来は日本海軍の水上機は艦隊決戦時における補助航空戦力として期待されていたとも聞くから、欧州大陸近海の狭い海域での火力支援がもっとも水上艦隊に期待されていた地中海戦線では、想定された状況と機材の特性が噛み合わなかったのではないか。


 本来の用途を失った日本海軍の水上機母艦だったが、地中海戦線では意外な任務についていた。高速輸送艦としてマルタ島などの最前線への強行輸送に転用されていたのだ。

 純粋な輸送船と比べると輸送量は小さいが、大型の水上機母艦は巡洋艦に準ずる程の火力を持つし、速力も艦隊行動について行けるだけのものを持っていた。

 それに水上機の積み下ろし用に大重量のデリックも搭載していたから、場合によっては搭載機やその兵装用に用意されていた格納庫に重砲や軽戦車程度の重装備を積載しても短時間で積み下ろしが可能だった。



 似たような例は英海軍にもあった。水上機母艦ではないが、本来は攻勢機雷戦に使用する筈だった敷設巡洋艦を同様に高速輸送船に転用していたのだ。

 自陣営の海域に敵艦船の侵入を阻止するために行われる防御機雷戦とはことなり、攻勢機雷戦は敵地に侵入して機雷を敷設する危険な任務だったから、敵対海域で行動するために、自然と敷設巡洋艦は自衛戦闘程度はこなせる火力と高速性能を有していた。

 また、艦内には広大な機雷庫も用意されていたが、これを格納庫に転用すれば日本海軍の水上機母艦と同様の機能を持たせられたのだ。


 使い勝手の良い万能艦として運用されていた水上機母艦だったが、日本海軍の水上機母艦の多くは機銃甲板と呼ばれる上甲板より一層上の甲板が用意されていた。

 ノア1と桟橋を結ぶ交通船に日本海軍の水上機母艦が選ばれたのは、これも理由であったらしい。船内の水上機格納庫や上甲板に詰め込められた避難民は、機銃甲板に固定されたノア1から降ろされた舷梯を伝って乗艦することとされたのだ。



 杜撰で無理のある計画だった。利点があるとすれば、単に現地でも容易に確保できるありふれた資材だけで準備が整うことぐらいだった。この計画をたてたものは、訓練された将兵の行動を前提とする上陸作戦を行う兵員輸送船の数値でも元に細部を決定していたのではないか。

 少しでも考えてみれば分かりそうなものだった。水上機母艦での移送そのものは大した問題は出ないだろうが、機銃甲板は通常の空母の飛行甲板程度は海面からの高さがあるはずだった。

 その距離を階段や梯子を伝って登った後に、ノア1の飛行甲板まで一気に上がり詰めなければならないのだから、海軍の将兵でも一苦労であるはずだった。それが老人や子供を抱えた母親達では恐ろしく時間が掛かってしまうだろう。

 実際、作業の監督を行っている部署では、階段を上がりきれずに途中で立ち往生したり、飛行甲板に特設されたデリックで最初から吊り上げられる老人達も多いと報告が上がっていたほどだった。


 当初の計画よりもノア1への避難民収容は手間取っていた。幸いなことに周辺海域の安全は確保されているが、ゴーテンハーフェンからの出港は時間がかかりそうだった。

 この分では他の大型艦にも避難民を収容させるように依頼したほうが良いかもしれない。リット少将はそう考え始めていた。


 ノア1の護衛部隊に編入された部隊は水上機母艦だけではなかった。オーストラリア及びニュージーランド海軍の艦艇を集約させたANZAC艦隊と、これの指揮下に置かれた若干のドイツ艦艇があった。

 自分の指揮下ではその戦力を活かせるとは思えなかったために、名目上の指揮権を利用してANZAC艦隊司令官であるカナンシュ少将に日本海軍との合流を命じていたのだが、現在は港外でソ連海軍を撃退した日本艦隊と共に待機しているはずだった。

 日本海軍も複数の戦艦や重巡洋艦を有していたから、工夫すれば数万人の避難民を大型戦闘艦に収容することはできるだろう。



 リット少将は中々進まない避難民の収容に頭を悩ませていたから、副官であるスミス中尉から声をかけられた時も、先任指揮官である日本海軍戦艦分艦隊の指揮官からの督促ではないかと生返事をしていた。

 だが、スミス中尉は自信のなさそうな声になりながらも、リット少将に繰り返していた。怪訝そうな顔で振り返った少将に中尉が言った。

「住民の代表という男が、是非にも本艦の責任者と話したいと言っています……」


 リット少将は怪訝そうな顔になっていた。状況からして、その男が試運転中の戦闘機の横を通って先程艦内に入ってきていた避難民だとは思えなかった。早々とノア1に乗り込んでいた一人ではないか。

 それに、避難民の受け入れ作業は副長であるマットン中佐に任せていた。中佐はリット少将と同じく海軍予備員士官出身の実直な士官だった。だから、大抵の問題は中佐のところで止められると思っていたのだ。


 リット少将の怪訝そうな顔に気がついたのか、スミス中尉は困惑した表情のままいった。

「どうもその男は……なんと言いましたか……クライスレイターとか言う役職についているらしく、住民を代表して意見があるそうです」

 思わずリット少将は眉をしかめていた。マットン中佐がいい加減な対応をしているとは思えないから、その男はかなり強引に自分の立場を持ち出して抗議した可能性が高かった。

 眉をしかめたまま、リット少将はスミス中尉にうなずいてやむを得ずにその男に会おうとしたが、それよりも早く艦橋入り口で騒ぐ声が聞こえていた。



 スミス中尉が慌てて振り返ると、制服らしきものを着た男が艦橋に強引に押し入ろうとしているところだった。男の制服は、ドイツ国防軍や武装親衛隊の意匠に似てはいたものの、褐色の色彩は軍のものとは思えなかった。

 今回の国際連盟軍の移送任務においては、対象は民間人に限られていた。未だドイツと完全に講和したわけではないこの状況では、危険にさらされた避難民の救出という大義名分を守る必要があるからだ。

 先発したドイツ輸送船はどうだか知らないが、交通船となった日本海軍の水上機母艦に乗り込む時点で、軍服を着た人間は乗艦を拒否されているはずだった。どうやら、褐色の制服は正規の軍やそれに準ずる武装組織ではなく、党の役職についているものらしい。


 リット少将は、クライスレイターというのが、党の地区代表者であることを思い出していた。

 ダンツィッヒ周辺を管轄する大管区指導者、ガウライターの下に就くクライスレイターは、表向きは単なる地区のまとめ役に過ぎないが、実際にはナチス党が政権を握った後は現地行政を従わせる権力者であると事前情報にはあった。

 怒り狂った様子からして、ノア1艦長に感謝の意を表しに来たとは思えないが、その権力者が何の用かは分からなかった。



 だが、ドイツ語で捲し立てる威勢のよさに反して、男の制服は薄汚れて擦り切れていた。元はきっちりとアイロンが掛けられていたのだろうが、避難民に混じってゴーテンハーフェンまで逃げ延びてきた際に、前線の兵士のように汚れていったのだろう。

 男の制服は階級章まで褐色なものだから、泥汚れと混じってどこまでが汚れているのかよく分からなかった。むしろ左腕の真っ赤な党章の方が浮いて見えていた。


 リット少将が艦長だと気がついたのか、男は勢いのままに近寄って、口角泡を飛ばす様に捲し立てていた。

「貴官が艦長だな。私はクライスレイターとして、党とドイツ市民を代表して貴官らに抗議する。誇り高きアーリア人として家畜のように……いや冷凍肉のように扱われるのは我慢ならない」


 男が上げる金切り声に、思わずリット少将は顔を背けていた。そんな少将の様子を見て怖気づいたとでも思ったのか、男はさらにまくし立てていたが、少将は話半分に聞いていただけだった。

 男の言うことから意味のない装飾を剥ぎ取ってみると、避難民の収容先が凍えた格納庫であった事が気に入らないようだった。



 一気にいい終えて疲れたのか、男が口を閉じた一瞬を見計らってリット少将が短く言った。

「まだ桟橋には乗船を待っている難民が多数残されている。本艦の収容能力は大きいが、格納庫の他に何万もの難民を乗せる場所はないのだ。それとも飛行甲板で住民を吹きさらしにさせるつもりかね」


 思わぬ反撃を受けた男は、鼻白みながらも即座にいった。

「この空間があるではないか。自分達だけ暖かい所でぬくぬくするつもりか」

 だが、男はそれ以上言えなかった。向き直ったリット少将が冷ややかな視線を向けていたからだ。



 一見すると猛々しく見えるところを除けば、然程特徴の無い中年の男だった。髪も染めているだけで実際には白いものがかなり混じっているらしく、手入れもままならなくなってきていたのか、生え際のところが他と違う色になっていた。

 もっとも、リット少将よりもは若そうな中年のこの男が先の大戦に従軍した経験があるかどうかはあやしいところがあった。おそらく、この男はこれまでは単にナチス党の権勢をかさに来て周りのものに言い聞かせていたのではないか。


 リット少将は、たっぷりと時間をかけてから口を開いていた。

 表情と同じく冷ややかな声だった。大声ではなかったが、若い頃に実戦を幾度も経験し、何よりも人生の半分を洋上で過ごしたことで、自然と少将の声には聞いたものを従わせる迫力がついていた。

「この艦橋は本艦の運行に必要不可欠なものだ。本来であれば民間人の立ち入りは許されぬ。それに、貴方は党が党がと言うが、我が軍は貴国政府の要請によって作戦を実行している。その政府の正式な指揮系統を無視したいち政党職員の我儘を聞く謂れはない。

 海兵諸君、こちらの方の用は済んだ。他の避難民の所へお連れしてくれたまえ」


 男が慌てた様子で振り返ると、無骨な短機関銃を手にした屈強な海兵がリット少将に負けず劣らずに冷ややかな目で男を見つめていた。いつの間にか現れていた海兵の無言の迫力に押されて、男はなおも懇願するような声でいった。

「だが……難民の中には女子供も病人もいるんだぞ。何日もあんな所に閉じ込められては生きていけない」

 リット少将は取り合う様子も見せずに海兵に手を振っていた。海兵は男の腕を掴むと、有無を言わさずに艦橋から連れ出していた。



 しばらく気まずい空気が漂っていたが、スミス中尉は何か戸惑っている表情を浮かべたままだった。

 男が去った後、リット少将は不機嫌そうな顔になっていたが、スミス中尉の表情に気がついて視線を向けると、おずおずと中尉が言った。

「あの男が言うように、難民の中には妊婦や病人も含まれています。キールまで持つかどうか分かりません。本艦の居住区は航空隊が退去した分の余裕がありますから、断熱した区画に若干の難民を受け入れる余地はあるかと思うのですが……」


 リット少将は、忌々しそうな顔でかぶりを振っていた。

「どうやって難民の中から特別扱いをするものを抽出するつもりだ。賭けても良いがね、そんな事をすれば難民が自分達もそっちに入れろと暴動を起こすぞ。

 仮に暴動とならなくとも、今度は子供から老婆まで布切れでも腹に詰め込んで私は妊婦だと叫びだすぞ。そんなことになったら誰も見抜けまい」


 リット少将はそう言ったが、スミス中尉の思案顔にふと思い出していた。確か、中尉は子供が生まれたばかりだったはずだ。それで感傷的になっているのかもしれない。

 次々と難民が覚束ない様子で歩いてくる飛行甲板に目を向けながらリット少将は考え込んでいた。今のノア1で混乱を鎮める事と、将来のドイツ人、戦争を起こしたドイツ人達を一人でも救うべきなのかどうか。


 ゆっくりとリット少将は表情の消え落ちた顔でスミス中尉に振り返っていた。

「いいだろう。スミス中尉、手すきの海兵分遣隊を使って君が然るべきと判断した人間を居住区内に収容したまえ」


 喜色を浮かべて去っていったスミス中尉の背中を見ながら、リット少将はこれで良かったのかいつまでも考えていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] たぶん何年も後にリット少将のもとに避難民からの感謝の手紙が届くに違いない。と妄想。
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