1944バルト海海戦54
氷山空母の原型となった飛行島計画は、今次大戦の勃発によって大西洋の中央部に対潜哨戒機の航空拠点を設けるという氷山空母計画へと変質していた。
だが、氷山空母の建造が正式に認可された頃は、戦後は大陸間航空路の中間結節点の建設という本来の姿に計画が移行すると期待していた関係者は少なく無かった。
計画の本流にいた研究者たちにしてみれば、氷山空母は飛行島計画の亜流の一つという認識でしかなかった。実験船などではなく、実際に建造にこぎつけた意義は大きいが、いずれ再開されるであろう飛行島計画の資料となれば十分とでも考えていたのではないか。
しかし、北大西洋に居座る氷山空母に籠もりながら、リット少将は戦後の飛行島計画が再開される可能性は低くなってきていると考えていた。遠い将来を想定した概念研究程度ならば継続される可能性はあるが、研究計画の陣容は大幅に縮小されるのではないか。
戦後は軍縮も進むだろうが、国防費用の削減以上に戦災からの復旧に予算が集中されることになるだろうから、長期的な学術研究に投入される予算は削ぎ取られてしまうはずだった。
それ以前に、航空機の性能が飛躍的な向上を遂げたことで、大陸間飛行の支援という飛行島計画の意義そのものが大きく低下している事実も無視できなかった。
今次大戦における軍用航空機の高速化、大型化は目覚ましいものがあった。開戦前の航空輸送は、極限られた特殊なものでしかなかったし、その能力も小さかったが、戦場の広域化と高速化を背景とした軍事輸送需要の大幅な増大を受けて、輸送機の数も質も向上が図られていた。
例えば、開戦時の日本軍の新鋭輸送機である一〇〇式輸送機は、初期型で武装兵を30人も詰め込めば精一杯だったものだったが、軽戦車すら空輸できる最新の貨物輸送機であればその三倍程度は楽に運べる筈だった。
勿論、離陸重量が大きいということは、その分燃料搭載量も増やせるから、航続距離も飛躍的に進捗していた。
飛躍的に向上したのは輸送機の性能だけではなかった。航空輸送という需要の拡大は、同時に戦場となっていた欧州から極東を結ぶ航路の整備をも促していた。
従来も英本土から極東に向かう航空路そのものは存在していたのだが、高価な航空運賃を簡単に支払えるのは政府要人や貴族などの上流階級に限られていたから、便数は然程多くなかった。
ところが、戦争という需要の存在は定期、不定期便を問わず広大なユーラシア大陸を左右に行き来する航空便の数を著しく増大させており、従来の貧弱な航空路ではこれに対応するのが難しかったのだ。
英日など国際連盟加盟国は、開戦以後急速に中東やインドなどの欧州、極東航路の中間に位置する空港の整備を行っていた。
整備事業は、土木工事量を軽減するために地形の改良を含む既存空港の改修や拡張工事が大部分だったが、中には適当な位置に既存空港がないために滑走路から完全に新規に建造された空港もあった。
整備されたのは滑走路だけではなかった。最新の輸送機は爆撃機に搭載されていたものを転用した航法用方向探知機を搭載するものも珍しくないから、空港側もこれに対応した機材を配置することもあるらしいと聞いていた。
実のところノア1にも同様の装置が取り付けられていた。母艦から電波を発振することで、視界の悪い気象条件下や戦闘の混乱によって自位置を失った搭載機に対して母艦の方位を知らせるものだった。
大戦という巨大な需要に対応するために国際連盟軍は多数の軍用輸送機を製造しており、同時にこれを支援する機材をも整備していたが、戦後はその多くが余剰となる筈だった。
もっとも戦時中に製造された輸送機の期待寿命はまだ十分に残されているから、動員解除後に本国へ復員する将兵たちを輸送した後は、予備機やスクラップヤード送りになる機体を除いても、民間に払い下げられる機体も多いのではないか。
これが何を意味するのかは明白だった。安価な機体価格で放出される輸送機は、戦後の世界に一大航空産業を誕生させる筈だった。既存の航空業者も自社保有機の拡大をはかるはずだが、初期投資が抑えられる為に終戦直後に航空会社を立ち上げるものも多くなるはずだ。
輸送機の操縦士も軍縮によって軍からあぶれたものを雇えば良いだけだし、むしろ軍から放り出される操縦士や目端の利く主計などが軍役についていたときに得たコネを利用して自ら会社を立ち上げようとする動きもあるだろう。
しかし、勃興する航空会社の多くは戦前から研究されていた飛行島計画などには見向きもしない筈だった。戦後世界には既に整備された空港が英日など国際連盟加盟諸国やその影響下にある各国に存在しているからだ。
しかも急増する航空会社は、競合が激しくなるから顧客を得る為に料金を低く設定せざるを得ない筈だった。これまでの様に極限られた富裕層だけを相手にするのではなく、幅広い客層を呼び込まなければ、航空業界を満たす需要を確保出来ないからだ。
自然と零細企業ほど運航費用を切り詰めようとするから、飛行島計画の様に莫大な初期投資が必要な計画よりも、既存の施設を耐用限界ぎりぎりまで使い続けようとするのでは無いか。
それに、航空技術における飛躍的な発展は、航続距離の進捗をも意味していたから、飛行島計画の発端である大洋間飛行における補給、救難を行う中間結節点という前提そのものが不要となる日も近いかもしれなかった。
概念研究としての飛行島計画が残されたとしても、実際に建造可能となる頃には、航空機側からは不要となっているという事も十分に考えられた。
勿論だが、そのような状態に計画が置かれるのであれば、既にある程度の情報が集積されている海域調査の為に計画専属の調査船が配備される可能性は低いだろうから、リット少将は戦後の行き場所を失っていることを感じとっていたのだ。
広大なノア1の飛行甲板では、今にも飛び出さんという勢いで不時着機がエンジンテストを行っていた。それをぼんやりと見つめていたリット少将は、不時着機が試験を行っている艦橋近くに設定された整備区画の向こうから近付いてくる集団を見つけていた。
既に英国本土に飛び立っていったノア1の艦載機は、何度も北大西洋で哨戒飛行に出撃していた。着艦の度に摩擦熱などで融解と氷結を繰り返していた飛行甲板は、就役時の平滑を失ってしまっていた。
そんな凸凹だらけの飛行甲板を苦労しながら歩いてくるのは、老若男女問わない雑多な集団だった。ただし、時節柄か若い男らしい姿は見えなかった。男の姿が見えても、少なくとも中年は過ぎているか、あるいは志願年齢にも達していない子供のどちらかばかりだった。
リット少将は僅かにため息をつきながら、新たに到着した避難民の群れに視線を移していた。試運転中の戦闘機を見つけたのか、興奮した様子の子供の姿も見えていたが、厳つい警備の海兵に促されて次々と艦橋入り口に吸い込まれるように移動していった。
避難民の数は多かった。体力に差があるせいか、統制が取れない様子で長々と列を作っており、警備の兵隊を困らせている様子だった。おそらく、交通船代わりにされた水上機母艦に詰め込めるだけ詰め込んできたのだろう。
だが、臨時に居住区とされている巨大な格納庫にたどり着いたとしても、避難民達が満足な安息を得る事はできなかった。ノア1は彼らをソ連に包囲されたポーランドから連れ出してはくれるだろうが、格納庫内は文字通り凍りついた空間だったからだ。
海軍内部の誰がこのような計画を立案したのかは分からないが、艦載機をすべて下ろした現在のノア1は、バルト海における最大の避難民輸送船となっていた。
これまで就役したどのような艦船よりも、ノア1の収容人口は多い筈だった。先行して脱出した客船の中には、旅客定数を遥かに越える避難民を収容した船もあったそうだが、ノア1ならば居住環境に目をつむれば旧ポーランド領に取り残された避難民を数十万の単位でも受け入れる事が出来るはずだった。
だが、ノア1をバルト海の奥にあるゴーテンハーフェンまで回航して来るのは苦難の連続だった。
元々氷山空母は冷厳な北大西洋で使用する事を前提として計画されていたから、実際に建造されたノア1が夏のバルト海の環境で船体規模を維持できるかどうかは未知数だった。
現在もそうであるように、分散して船体各所に設置された冷却機を全力稼働させても次第に船体は溶け出している筈だった。
尤も、実は英国本国で艦載機を下ろしていた頃には冷却機は停止していた。その間に徹底的な整備を受けていたのだが、整備作業自体は停止の理由では無かった。
バルト海と北海を隔てるユトランド半島東部とスカンジナビア半島の間にはカテガット海峡が広がっていた。海峡はデンマーク王国を構成する大小様々な島嶼を縫うようにして航路が設定されていたが、いずれも隘路の様に狭く、水深も浅かった。
航路の中でも最大幅、最大深度となる箇所を満潮時に通過すれば、計算上はノア1の巨体でも海峡を通過できるというが、それでも余裕は無く搭載機など容易に移動できるものは艦を軽くするために次々と陸揚げされていたのだ。
冷却機の停止も、船体の肥大によって喫水線の変動が起こるのを防ぐ為だった。逆にある程度船体が溶け出してくればノア1の排水量は低下して海峡通過が容易になる筈だった。
しかし、それで海峡を突破できたとしても船体が融解してしまえば苦労してノア1をバルト海に持ち込んだ意味がなかった。だから、海峡を抜けてバルト海に入った直後から、冷却機は今度は最大出力で稼働し続けて船体の維持を図っていたのだ。
問題はそれだけでは無かった。ノア1の船体はあまりに巨大だった。それ故に避難民の移送船に選ばれたのだが、民間人の収容に際してはその巨体が仇となっていた。
東プロイセンの拠点として戦時中も整備されていたゴーテンハーフェンの港湾施設は充実したものだったが、ノア1の巨体を桟橋につけるのは不可能だった。
客船が貧弱な桟橋に係留できない場合は、通常はその搭載艇であるテンダーボートを使用して乗客を母船である客船に収容するのだが、ノア1の巨体にちまちまとテンダーボートで少人数ごとに乗せていくのはあまりに非効率だった。
それ以前に、ノア1の船側は断崖絶壁の様な氷壁の垂直面で構成されていたから、精々数トンから数十トン程度でしかないテンダーボートが取り付く場所も無かった。
これに対応するため、急遽ノア1の護衛部隊の陣容が強化されると共に、突貫工事でキール軍港沖合で改造工事が行われていた。改造工事の内容は、ノア1の側面に巨大な階段を取り付けるものだった。つまり、巨大な舷梯を設けていたのだ。
ただし、それだけでは大量の避難民を短時間で収容することは出来なかった。舷梯を構成する階段は大の大人が並んで上がってこれる程の余裕があったが、そこまでテンダーボートで輸送して来るのはあまりに効率が悪いし、老人や子供を含む避難民が洋上で容易に乗り移れるとも思えなかった。
ノア1の護衛部隊は、これまで純粋に護衛艦艇として参加していたハント級駆逐艦だけだったが、ここに日本海軍の水上機母艦が2個戦隊4隻も加えられたのは、基準排水量で1万トン前後もある巡洋艦にも匹敵する水上機母艦を交通船代わりとするためでもあった。
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