1944バルト海海戦52
航続距離の限界に位置する大洋の中心に配置されて、大陸間飛行を行う航空機への支援を行うという飛行島計画として始められた計画は、戦時中に氷と繊維材の複合材で出来た氷山空母の建造、運用を行うものへと形を変えていた。
洋上の空港として定期便を受け入れるはずだった飛行島は、既存の空母とは比較にならない広大な飛行甲板を有する巨大空母として生まれ変わっていたのだ。
ただし、飛行甲板に見合う百機を越える航空機収容力を有しているにも関わらず、ノア1として誕生した氷山空母は華々しい攻勢任務に就くことは想定されていなかった。
それどころか、作戦海域も北大西洋というごく狭い海域に限定されたものでしか無かったのだ。
開戦当時、英国空軍は日本帝国などから形振り構わず輸入した機体を含む数多くの大型機に対潜機材を満載して沿岸軍団に配備していた。
敵国への華々しい攻撃に従事する爆撃軍団と時に航空機材を取り合いながらも、沿岸軍団は絶え間なく対潜哨戒機を出撃させることで両国間を航行する輸送船を執拗に狙うドイツ海軍の潜水艦隊を牽制していたのだ。
こうした対潜哨戒網は、開戦当初は直接的な戦果を上げることは少なかった。哨戒軍団の規模は貧弱なものでしか無かったし、有効な対潜戦術もまだ模索中であったからだ。
ただし、ドイツ潜水艦の撃沈記録こそ少なかったものの、航空対潜哨戒は一定の成果を上げているとみなされていた。
英国と世界各国を結ぶ通商路は、入港する直前の英国本土近海で合流していた。
つまり、これを狙うドイツ潜水艦の目で考えてみると、英国本土近海で待ち伏せるのが最も効率よく輸送船を撃沈できるのであり、逆説的に沿岸軍団による対潜哨戒も本土近郊で敵潜水艦を制圧できれば輸送船の生存率に寄与すると考えられていたのだ。
もっとも、開戦当時のドイツ潜水艦は対空兵装が貧弱であったこともあって対潜哨戒はかなりの制圧効果が見られると判断されていたものの、そこには限度があるのも明らかだった。
当時の対潜哨戒機は、爆撃軍団において要求性能未達で最前線での使用に適さずと判断された機体や旧式機ばかりで、当初から専門の哨戒機として採用されたものは殆どなかった。
そのような雑多な機体であっても、潜水艦にしてみれば腰を据えて対空戦闘を行わないかぎり大した差がでないことから、やはり対潜哨戒は成果を上げてはいたのだが、一番の問題はその航続距離にあった。
沿岸軍団は、英国本土のみならずカナダ沿岸など可能な限りの箇所に拠点を設けて、航空対潜哨戒を実施していたものの、航続距離の限界から大西洋中央部には既存の哨戒機が到達できない巨大な穴が存在していた。
氷山空母は、実はこの対潜哨戒網の穴に対応するものとして計画されたものだった。空白海域となっている北大西洋中央部に進出して、この巨大な穴を塞ぐように対潜哨戒を実施しようとしていたのだ。
計画は開戦前から開始されていたが、開戦からしばらくの状況は氷山空母計画の実現を促すものばかりだった。本土からの航空機、水上艦を問わない対潜哨戒を逃れる為に、ドイツ潜水艦隊が大西洋中央部を安全地帯として狩場に選び始めていることが輸送船の損害状況から次第に確認されてきたからだ。
当時は航空機だけではなく、水上艦による護衛体制も貧弱なものでしか無かった。正規艦艇はドイツ軍の猛攻を食い止めるのに最前線に投入されており、残された雑多な護衛艦艇は航空機同様に航続距離の問題から長距離船団の行程全てに随伴する事は出来なかったのだ。
氷山空母計画は、このように不利な情勢に対応するものとして建造が促進されていた。概念研究段階と比べると驚くほど多くの補充人員が投入されて、カナダ北部の特設造船所で密かに建造されていたノア1に携わっていた。
俄に現実の物となっていた氷山空母計画の中で、招集を受けたリット少将も海軍予備員士官に復帰していた。
その時点では計画全体の中でリット少将の立場はさほど大きくは変わらなかった。貴重な実戦経験者として建造計画者などに助言すると共に、就役後は同艦幹部として乗艦する事が求められていたからだ。
ただし、ノア1の建造が開始された時点では、リット少将が同艦の艦長に就任する可能性は低かった。いくら計画の初期段階から関わっているとはいえ、海軍予備員士官に百機を越える搭載機を持つ空母を預けることは想定されていなかったからだ。
内示があったわけではないが、おそらくは計画がそのまま進めばリット少将は経験を買われてノア1の航海長に就任する可能性が高かった。艦長には正規空母の指揮官を経験した航空畑の正規士官が選ばれることになっていたのではないか。
それに、建造される氷山空母はノア1だけではなかった。ノア2、あるいは色に関するコードネームを与えられた2番艦の建造も予定されていた。鈍足で巨大な氷山空母が艦隊を組むことは考えづらいが、同級艦を就役させて大西洋中央部の広い範囲を常時哨戒可能にする計画であったらしい。
ただし、2番艦の建造計画はノア1の建造が遅延し始めた頃に正式に中止されていた。
氷山空母の建造は苦難の連続だった。現地で建造作業を行う単純労働者はともかく、設計計画作業や製作図面の作図には艦船建造の専門家である造船所や海軍工廠の要員が従事していたのだが、計算は幾度も見直されてその度に建造現場は混乱していった。
これまでに例のない材料や構造である為に、計画作業では既存材料で用いられていた計算式そのものを見直す作業から始めなければならなかった。計算のやり直しで設計が変更され、そうして施工された現場の状況から計算式が見直されるという悪循環が続いていた。
建造促進が強く求められていたことから詳細設計と建造作業の工程が並列して進められたために、そのような事態が発生していたのだ。
しかも、建造現場の環境は過酷なものだった。船渠自体がカナダ北部の寒冷地にあった上に、船体ブロックを建造する為だけではなく、洋上に浮かべたブロックを維持する為にも冷却機が常に稼働していたからだ。
氷山空母の巨体は、単一の船渠内で建造できる大きさを越えていた。建造はそれ一つで通常の艦船一隻分に相当する巨大なブロックを船渠から引き出した後に海上で結合するという例を見ない手法を取らざるを得なかった。
前例のない作業の連続で凍傷になる作業者は少なくなかった。それ以前に、凍傷を恐れて着膨れした作業者の行動は鈍り、通常環境では起こり得ない単純なミスが数多く発生していた。
造船所ではしばしば落下事故も発生していた。殉職者や怪我人はその度に回収されていたはずだが、ノア1の乗員の間では建造時からある噂がまことしやかに流れていた。
船体のどこかに接続されたあるブロックの底には、行方不明となった作業者が氷漬けとなって船体の一部とかしており、自分の身体を求めて夜な夜な幽霊が艦内を彷徨っていると言うのだ。
単なる怪談の類ではあるが、照明からの発熱を嫌って薄暗くされた艦内で聞くと確かに妙な気分にはなった。
問題は、完成間近になっても次々と発生していた。またもや計算式の誤りが発生していた。しかも、問題は致命的なもので、予想よりも船体を構成する複合材の融点が低かったと言うのだ。
あるいは、理論値は正しかったとしても、実験室で特に注意して製造された試験片と、慌ただしい現場で製造された現物では複合材を構成する繊維のばらつきや不純物の混入が避けられなかったのかもしれなかった。
熱源となりうる艦橋付近に設けられた居住区は、急遽高価な断熱材で覆われていた。それでも船体に与える影響を考慮して艦内の暖房は最低限とせざるを得なく、乗員は防寒服を着込んでの作業を余儀なくされていた。
しかも、艦内部の格納庫では修理作業は最低限しか行わないこととなっていた。断熱材で囲まれた上甲板の限定された区画上以外では試運転などを禁止されてしまったのだ。
だが、これらの措置は対処療法でしかなかった。結局は、船体の融解を防ぐためには、構造材そのものを冷却するしか無かった。
初期計画では、展開する海域で計測されていた気温に対して余裕を持って冷却能力が設定されていた筈だったが、実際には冷却機はほぼ全力稼働を余儀なくされていた。
しかも、悪いことに過去に記録されていた海水温度のデータは十分なものではなかった。観測対象となった年は比較的温度が低かったらしく、ノア1が出港した年は海水温そのものが高かったのだ。
苦心惨憺の末にノア1は就役したものの、その頃には氷山空母を強く望んでいた大西洋における戦況は大きく変化していた。相変わらずドイツ海軍潜水艦隊は大西洋の中央部を狩場としていたが、航空哨戒の網は格段に強化されていたのだ。
開戦時と比べると、沿岸軍団の陣容は格段に強化されていた。特に日本帝国が本格参戦してからは、同国製の長距離飛行可能な機体が続々と根拠地となる英国本土やカナダに進出していた。
参戦直後に、大きな損害を受けて第一線からは引き上げられた一式陸上攻撃機も、対水上レーダーや磁気探知機といった最新鋭の対潜機材を搭載した哨戒機へと改装されて沿岸軍団の指揮下に入っていた。
従来の九六式陸上攻撃機と比べると、一式陸攻は格段に性能が向上していた。航続距離、搭載量が増大していたことから、九六式陸攻よりも敵潜水艦が発見された際に長時間の制圧を行うことが可能だったし、対潜爆弾の搭載数も多いから敵潜の撃沈数も増えていた。
ショートサンダーランドや日本製の二式飛行艇などの航続距離の長い大型飛行艇も配備数が増えていたから、哨戒の密度も上がっていた。これら新鋭機材の配備によって、ノア1が就役した時には大西洋中央部に存在する対潜哨戒の穴は急速に狭まっていたのだ。
強化されていたのは、航空対潜哨戒だけでは無かった。開戦に前後して戦時建造体制で建造が開始されていた護衛艦艇が続々と就役していたのだ。沿岸警備用の小型で簡易なものもあったが、ハント級護衛駆逐艦のように本格的な長距離護衛艦も数多く船団護衛に投入されていた。
従来の高価な艦隊型駆逐艦に比べると護衛駆逐艦の戦力は限られたものでしか無いが、護衛駆逐艦は最低限の外洋航行能力を有しており、特に日本海軍の松型駆逐艦のように、日本から英国本土まで遠路遥々航行してくる長距離輸送船団に随伴する艦もあった。
さらに、護衛される側の輸送船も戦時建造されている標準規格船が増えていた。
これらは、標準規格に則って量産性が高められているだけでは無かった。仕様の統一によって、性能面でも均一化が計られていたから、大規模船団構築時に対潜警戒のためにしばしば行われる一斉回頭の連続による之字運動などの複雑な行動も格段にやりやすくなっていた。
また、仕様の統一は港湾関係者の負担も軽減されていた。荷役時も船体寸法がおおよそ同様の船が連続するものだから、作業者も船倉の形状などに慣れてくるし、予め入港前にある程度荷物を固めておくことも可能だった。
最近では、戦時標準規格船の形状に合わせたパレットに荷物を載せたものを用意しておいて、荷役時はそのパレットごと一挙に搭載するという手法も研究されていた。
大規模船団を構成する際には、日本本土などの資源や物資を積み出す側で荷役能力が飽和して効率が悪化することが明らかとなっていたから、こうした面での効率化は長い目で見れば輸送量の拡大に大きく寄与するはずだった。
だが、輸送船団にとって画期的な出来事はそれだけでは無かった。貴重な艦隊型空母に変わって、戦時標準規格船の設計を流用して建造された簡易な護衛空母が船団に随伴するようになっていたのだ。
そして、この簡易を極めた護衛空母の存在が、大仰な氷山空母計画にとどめを刺したと言えるのかもしれなかった。
ハドソン哨戒爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/96g3.html
松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddmatu.html
二式飛行艇の設定は下記アドレスで公開中です。
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