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1944バルト海海戦51

 特別輸送艦隊の指揮官とノア1の艦長を兼任するリット少将が副官のスミス中尉から声をかけられたのは、丁度日本海軍の戦闘機が試運転を開始した頃だった。

 広大な飛行甲板にそそり立つ単独峰のように巨大な艦橋の側面には、格納庫に繋がるエレベーターと待機区画が設けられていた。ノア1の飛行甲板に悪影響を及ぼすものだから、膨大な熱量が発生する試運転を行うのは、特別に保護された床面を持つ待機区画以外では許可されていなかったのだ。



 書類形式上は空母に類別されていたものの、飛行甲板に並ぶ航空機が無ければ初見でノア1を空母と認識できるものは少ないはずだった。しかも、今はノア1の飛行甲板や格納庫に搭載されていた航空機は、全てバルト海に入る以前、北海を航行中の間に英国本土に移動していた。

 だから搭載機と言えそうなのは、先程の戦闘で被弾して不時着した日本海軍の戦闘機2機だけだったのだ。


 もっとも搭載機はノア1を去っていたものの、人員の輸送は間に合わなかった事から、整備員は少なくない数がまだ残されていた。整備すべき機体を失った彼らは暇を持て余していたから、不時着機に必要以上の人数が群がってごく短時間の間に試運転までこぎつけていたようだ。

 それに、不時着した日本海軍の零式艦上戦闘機は、ロールスロイスのマーリンを搭載した型式だった。日本製のライセンス生産だというがマーリンエンジンの基本的な構造には変わりがなかった。

 不時着機はエンジン自体も損傷していたものだから、折角だからと残されていた予備エンジンに交換してしまったらしい。艦内の整備区画に残されていたのは暇に任せて整備隊が玩具代わりに徹底的に整備し尽くしたエンジンだったから、素性は折り紙付きだった。



 ノア1には通常の空母と同じところは殆ど無かった。船体の寸法は新鋭の艦隊型空母と比べても遥かに大きく、広大な飛行甲板は艦載機どころか一部の多発陸上機の発着艦すら容易だった。

 実際に、北大西洋で実戦に従事していた頃は、英国最強の戦闘機であるスピットファイアに加えて、双発の高速爆撃機であるモスキートや、輸入された日本海軍の九六式陸上攻撃機を原型とするハドソン哨戒爆撃機などが満載されていたのだ。

 ただし、ノア1の船体寸法は一定では無かった。素材の関係上、海面状況や気温によってもいくらか変化してしまうことは避けられなかったのだ。


 ノア1の外観は、そこだけは英国海軍の新鋭空母に類似した艦橋や、甲板にいくつか散らばっている冷却装置の煙突を除けば、不自然なまでに上部が平に整形された氷山にしか見えなかった。

 水面下には推進器なども取り付けられているのだが、単体で見れば戦艦でも動かせそうな大出力の推進器も、ノア1の巨体の前では目立たない存在でしか無かったのだ。



 ノア1は、氷山空母などと俗称されているが、実際にはその船体は単純な氷で出来ているわけではなかった。以前より研究されていた、パルプ繊維と氷との複合材が船体を構築していたのだ。それは単純な氷よりも強度が高く、また融点も高かった。

 ただし、複合材とはいえ大部分が氷で構成されていることは間違いなかった。ノア1にいくつもの冷却装置が設けられたのも、船体を維持するのにそれ自体を冷却しなければならなかったからだ。


 ただし、ノア1は当初から軍事用の空母として計画されていたわけではなかった。概念研究の段階まで遡れば、相当以前から研究が進められていたこの計画は、当初は大陸間空路を支援する為の人工島として提案されたものの1つだったのだ。



 当時は、航空機の能力は今よりも低かった。長距離飛行に不可欠な航続距離だけではなく、エンジンの信頼性そのものも不安視されていた。

 そんな状況であったから、大陸間移送の主役である客船に対して、到達時間の飛躍的な短縮など大きな可能性を秘めていたとはいえ、大陸間飛行は商業ベースに乗るどころか特別な設計、改造を施された機体による冒険飛行の域を越えるものではないと考えられていたのだ。

 大平洋などにはいくつもの島嶼が散在していたが、いずれも航路から離れていたり、過小すぎて十分な設備を持つ滑走路を建設するのが難しい箇所もあったから、中継地として適しているとは言えなかった。


 結果的にノア1の原型となった計画は、このような経緯から持ち上がったものだった。大洋の真ん中に中継地となる人工島を建設するのが最終的な目標だったのだ。

 ただし、当初から氷山やその複合材を使用するという計画では無かった。拙速に結果を求めるというよりも概念研究として様々な可能性を模索するものであったからだ。



 氷山案以外にも人工島の実現化にはいくつもの案があった。実現性に乏しいものや建造費が莫大なものとなってしまうものもあったが、中には費用削減を推し進めすぎて逆に却下されるものもあった。

 在来の飛行艇を大型化した上で、不足する航続性能や緊急時の救難体制を整えるために各海域に補給船を配置するという案だった。考案者としては、安価に大陸間空路を安定して開設出来る案と考えていたのではないか。


 英国に加えて日本やロシア帝国などとの共同研究であったとはいえ、いずれの国も先の大戦からの復興期にあったから、予算の圧縮という点では飛行艇案は魅力的な提案のように思えていた。

 だが、この案は早々に廃案となっていた。いまだ長距離飛行自体が研究段階にある段階で行われていたこの計画は、今日明日にも使える既存の手法ではなく、十年、あるいは半世紀といった長い視点が求められていたからだ。


 それ以前に、この飛行艇案には致命的な誤りがあった。空路を支援する補給船側の視点が欠けていたのだ。飛行艇案では、大洋のど真ん中に補給船を配置することとなっていた。

 補給船は、本船用と飛行艇用の燃料を満載して補給を行うと共に、飛行艇に事故が発生した際は、現場海域に急行して船内に不時着した飛行艇から乗客を救出して余剰の客室区画に収容することとなっていたのだが、実際にはこの任務を行うのは難しかった。



 リット少将が計画に加わったのはこの頃だった。少将はダートマスの海軍兵学校を卒業した正規の士官ではなく、商船乗組員を対象とする英国海軍予備員制度を志願した予備員士官だった。

 英国海軍予備員制度は、戦時において不足する正規の将兵を補うためのものだった。一般市民にまで門戸が開かれている海軍志願予備員制度に対して、平時から船舶関係の職務に携わる海軍予備員は、いってみれば正規の海軍将校に近い存在だった。


 しかも、リット少将は海軍予備員士官の中でも豊富な実戦経験を有する人材だった。

 陸上での訓練を終えた海軍予備員士官は、通常1年の艦隊勤務を経験することとされていたのだが、少将の場合は訓練期間中に先の大戦が勃発したものだから、そのまま艦隊勤務に就いていたのだ。


 その後も最前線に留まり続けていたリット少将は、ユトランド沖海戦などの主要な戦いに参加しながら幾つもの艦を乗り継いでおり、最終的に大戦が終結した時には駆逐艦の艦長として船団護衛の任務に就いていた。

 戦乱の長期化と就役艦艇の増大で中級指揮官となる正規士官が不足していたとはいえ、艦長としての抜擢は当時のリット少将が海軍から高く評価されてのことだといえた。



 だが、戦後はこの豊富な実戦経験が役に立つことはなかった。教育期間中に海軍予備員に招集されたリット少将は、民間の船会社からすると商船士官としては扱いづらい存在になってしまっていたからだ。

 戦時中は、多くの商船士官も海軍予備員として招集されていたが、その多くは終戦と共に動員を解かれて元の船会社へと復帰していた。それに対して、リット少将は当時は商船士官としては新人に過ぎなかった。


 ところが、海軍予備員士官としては、下手をするとリット少将の方が上司たちよりも階級が上になってしまうし、戦時中殆どの期間を洋上で過ごした少将の経験は豊富だった。

 社内と海軍内で階級のねじれが生じたことから、リット少将は幾度は不愉快な思いをする羽目になってしまっていたのだ。

 結局、リット少将が本来入社するはずだった船会社は、戦後短時間で退社することになっていた。海軍時代の上官から誘われて飛行島計画に加わったのはそのような理由があったからだった。



 勿論、リット少将に求められていたのは学術的な知識や経験ではなかった。飛行島計画がどのような形に結実したとしても、結局は船舶による補給が必要なのは変わりなかった。計画が進むにつれてそのような点が重要視され始めていたのだ。だから船乗りである少将が計画に参加する事ができたのだろう。


 海軍軍人として、またその後の商船士官としてのリット少将の経験からすると、補給船そのものを飛行島の代替とする飛行艇案は、安価に実現出来るように見えて、実際には現実性に乏しいように思えていた。

 飛行艇案では補給船として5万トン級の大型貨客船を原型としたものを提案していたが、詳細は検討されていなかった。これは当時としても相当の大型商船となるものではあったが、リット少将はこれに異を唱えていた。


 確かにそのクラスの大型貨客船であれば太平洋の横断でも楽にこなせるだろうが、定期航路をとる飛行艇を大洋の中心で待ち受けるとなると話は別だった。太平洋にせよ、大西洋にせよ、その中心部は決して安穏な環境ではなかったからだ。

 時期によっては台風の発生などで大きく時化ることもあるから、補給船が飛行艇の着水を待って長期間定点で待機を継続するのは困難だった。それ以前に、そのような荒れた海面では飛行艇の着水すら難しいのではないか。

 勿論だが、いくら大型の貨客船といっても、船舶も飛行艇もどちらも動揺する環境では、民間の船員が洋上補給をこなすのは難しいはずだった。場合によっては大型貨客船の巨体に船体を激突させて飛行艇が損傷する可能性もあるだろう。



 飛行提案が早々と廃案となった後もリット少将は計画に関わり続けていた。計画案の中には、浮き桟橋を連ねて洋上空港とする案や、環礁を埋め立てて空港を建設するものなど様々なものがあったが、いずれも設置する海域は慎重に選択する必要があった。

 概念研究とは別に、洋上空港の建設予定地に関しては詳細な海洋、気象環境を観測する必要があったが、長期間の調査を行う観測船にリット少将は幹部として乗り込んでいたのだ。


 その頃有望な計画案とされていたのは、長期的な視野に立って人工島を建設するという案だった。大型空母形式が考案されたこともあったが、大陸間航路に投入されるような大型機が離着陸出来る空母となれば相当な大型船となってしまうはずだった。

 そのような大型船の建造、維持には莫大な設備投資が必要だった。建造費用では人工島も変わらないだろうが、建造や点検作業に使用するドックなど付随する維持費用は無視できなかった。



 当時の氷山空母案は、このような問題を解決する為の、いわば派生案に過ぎなかった。

 それに、立案当初は現在のように堅甲な複合材を用いるものでもなければ、船体内部の格納庫や冷却装置といった永久設備を備える予定もなく、単に安価に氷山を切り出すことで臨時の滑走路とするというものに過ぎなかった。

 勿論、そのような氷山そのものの船体は極短時間で使用に適さなくなるはずだったが、北大西洋に運用海域を限定すれば、氷山の代わりなどいくらでもある筈だった。


 計画案の実現性を調査してみると、実際には氷山を加工する費用が膨大となることがわかってやはり廃案となっていたが、今度は新たに考案された複合材を使用する現在の氷山空母案が出てきていた。

 それでも計画全体では、日本やロシアが推す人工島案の方が有力であるようだった。



 そのような情勢がひっくり返されたのは、開戦に伴って計画自体の存続が問われ始めた頃だった。皮肉なことに、飛行艇案を葬り去った理由の一つだった長期的な視野が仇となって本格的な飛行島の建設に関する研究は早々に打ち切られていた。戦時中には即座に運用できるものが要求されていたからだ。

 氷山空母の計画に携わっていた科学者の一人が有力政治家に働きかけて飛行島計画の存続そのものは認めさせたというが、その時点でこの計画は大きく変貌したものになってしまっていた。

 哨戒機を運用する氷山空母計画は、どう見ても飛行島とはかけ離れたものだったからだ。

ハドソン哨戒爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/96g3.html

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