1944バルト海海戦50
一人の男の命が尽きようとしていた。オグネヴォイ艦橋の片隅に横たわるシルショフ少佐の元からは、既に衛生兵は立ち去っていた。
戦闘の最後の局面になって艦橋に躍り込んできた敵弾の破片は、シルショフ少佐の腹を鋭く切り裂いて内臓をさらけ出させていた。臓腑の傷を治療するのは艦内の乏しい設備で施術出来る範囲を越えていたし、それ以前に少佐は血を失い過ぎていた。
衛生兵に出来ることは、死が少佐に訪れるまでの僅かな間を安らかなものとするために、鎮痛剤を注射することだけだった。
いまだオグネヴォイの艦内には生死の境をさまよい続ける負傷者が溢れていた。まだ助けられる命のために慌ただしく走り去っていった衛生兵の代わりにバーク中佐に出来ることは、何も思い浮かばなかった。
シルショフ少佐が負傷したのはバーク中佐のすぐ近くだった。中佐の顔にも弾片によって生じた傷があったが、呆然としてその血を拭い去ることすら思いつかなかった。
戦闘前には最新鋭のオグネヴォイ級駆逐艦4隻で構成されていたソ連海軍第23駆逐隊は、今では戦力を半減させていた。魚雷は撃ち尽くしていたし、弾薬庫に残された砲弾も残り少なかった。
オグネヴォイ級駆逐艦は、実質的には米海軍の最新鋭駆逐艦であるフレッチャー級の輸出型だった。
米海軍から駆逐隊付きの軍事顧問として派遣されていたバーク中佐にとっても、同級は馴染みの深いフレッチャー級に準じた艦型を有していたのだが、北東に向けて遁走するするオグネヴォイも、それに続航するオスモトリテルニィも、均整の取れた優美な姿は失われていた。
残存する2隻も、戦闘能力はすでに無くしていたから、第23駆逐隊の戦力は全く無くなってしまっていたといっても過言ではなかったのかもしれない。
だが、第23駆逐隊は損害に見合う戦果はあげていた筈だった。駆逐隊は戦闘の終盤に唐突に出現していたドイツ海軍の戦艦に雷撃を敢行していたのだ。
雷撃直後に撃沈されたオティチニィを含む3隻は、敵戦艦と舷を接するまで近づいて一斉に雷撃を行っていた。その前後の牽制射撃を含めて、米海軍の教科書に記載したい程の見事な襲撃行動だったはずだ。
追い打ちで駆逐隊の最後尾に位置していたオティチニィが撃沈されたものの、第23駆逐隊から放たれた魚雷は、短時間の内に次々と目標となったドイツ戦艦に命中していた。戦史上を見てもこれだけの短時間で集中して被雷した戦艦は珍しいのではないか。
雷撃を成功させた第23駆逐隊が戦場を離脱する時には、まだドイツ戦艦は洋上に浮かんではいたものの傾斜は激しくなっていた。今頃は洋上から姿を消して、バルト海の暗い海底にその姿を横たわらせている可能性は高いだろう。
だが、幾ら戦果を上げたところで、戦死した将兵たちが蘇るはずは無かった。戦艦1隻撃沈確実という戦果は、2隻の駆逐艦と乗組員、それに残されたオグネヴォイとオスモトリテルニィの艦内にあふれる負傷者達の群れと釣り合うのだろうか。
バーク中佐は、これまでは深くは考えて来なかったそのような事を今になって考え始めていた。
バーク中佐自身は海軍士官学校を卒業した正規の海軍士官だった。志願した職業軍人なのだから、負傷や戦死はいつでもありえる事なのだと覚悟はしているつもりだった。
だが、祖国アメリカではなく、本来は縁もゆかりも無いソ連海軍の将兵とはいえ、目の前で徴兵された若者達が実際に負傷する姿を見ると、中佐の心は沈んでいた。
残りの生涯を全てかけても癒えることの無い傷を心身に負った水兵たちの姿や、息子や夫の帰りを待ち続けているだろう家族のもとにこれから先に送られる訃報の数々を思うと、当座の仕事がなく余計なことを考えてしまうせいか、バーク中佐はやり切れない思いを抱いていた。
これが凱旋であればまた違う感想を抱いたかもしれないが、どう言い繕うとも今回の戦闘を勝利とは言えそうも無かった。第23駆逐隊に限れば戦果を上げたかもしれないが、ドイツ軍の脱出船団を撃滅するという戦略目標は達成できなかったからだ。
つらつらと考えにふけっていたバーク中佐はふと我に返っていた。これまでの人生で感じたことが無いほどの鋭い視線を感じたからだ。
慌てて振り返ると、傍らで寝かされていたシルショフ少佐が目を覚ましていた。人が変わったかと思うほどに剣呑な視線をバーク中佐に向けた少佐は何かを言った。
聞き取り辛い声だった。負傷箇所からして肺や声帯まで傷付いたとは思えないが、体に力が入らないのかもしれなかった。
―――もしかするとモルヒネの鎮痛効果が切れたのだろうか。
バーク中佐はあえぐ様なシルショフ少佐の声を聞こうとして身をかがめたが、中佐の腕が床についた瞬間に勢いよく少佐に掴まれていた。
この傷ついた体のどこにそんな力が残されていたのか、不思議に思う程の力だったが、シルショフ少佐の意図は明白だった。無理矢理引きずるように近づけたバーク中佐の耳元で少佐は続けた。
「ニェーメツの戦艦は沈みましたか……」
途切れ途切れになる上に、英語とロシア語の単語が入り混じっていたが、どうやらオグネヴォイが雷撃したドイツ戦艦がどうなったかを訊ねているようだった。
答えようの無い質問だった。あの戦艦が生き延びられたとは思えない。しかし、オグネヴォイが戦場から脱出する際も、霧に包まれて次第に薄れゆくドイツ戦艦の姿はまだ浮かんでいた事も確かだった。
しばらくバーク中佐は言い淀んでいた。ここで嘘をついてもいいものか、答えを探して周囲を見渡した中佐は、ただ前方を見つめるサナエフ大佐の背中に目を向けていた。
それが艦橋や艦内の惨劇そのものに背を向けているように思えてバーク中佐は一瞬苛立ちを感じていた。実際にはサナエフ大佐には振り返る余裕すらなかった。
出撃したソ連艦隊が大きな損害を受けた今、たった2隻の駆逐艦でも貴重な存在となっていた。戦力が半減した駆逐隊を纏めて母港に何とか帰還しなければならないのだ。
言葉に迷っている様子の中佐を見かねたのか、艦橋に配置されている下士官が、シルショフ少佐の隣に身をかがめて何事かを言おうとしたが、それよりも早く中佐は意を決して下士官に手を向けて制しながら言った。
「ドイツの戦艦は沈んだ。オグネヴォイの魚雷を喰らったあの戦艦は間違いなく沈んだぞ」
バーク中佐は、死にゆく男が最後の安らぎを感じる事だけを願っていた。
シルショフ少佐はバーク中佐の思いが通じたのか、中佐の腕を掴む力をふと和らげると、何かを達成した喜びとも安らぎともつかない感情が読み取れる笑みを浮かべていた。
笑みを浮かべたまま、シルショフ少佐はうわ言のように何かを囁いたが、言い終えた瞬間にバーク中佐は自分の腕を掴む力が完全に抜けてしまった事を感じていた。
バーク中佐は、一度目を閉じると思わず口の中で祈りの声を上げていた。共産党から派遣される政治将校ということは、シルショフ少佐は神を信じない共産主義者なのかもしれないが、今はその言葉が切実に必要ではないかと考えていた。
最後の笑みを浮かべたまま事切れたシルショフ少佐の目をそっと閉じてやりながら、バーク中佐は傍らで臨終に立ち会った下士官にたずねていた。
「軍曹、少佐は最後に何を言ったか分かるか。何か土地か人の名前のようだったが……」
下士官も首を傾げながらシルショフ少佐の最後の言葉を繰り返していた。
「よく分かりませんね。確かに街と女の名前のようでしたが……聞いたことのない名前でした」
二人は首を傾げていたが、シルショフ少佐が今際の際に残した言葉に対する答えは意外な所から聞こえてきた。それまで真っ直ぐに艦首の方を見つめながら、冷徹な様子で周囲に次々と命令を下していたサナエフ大佐が言ったのだ。
「それはシルショフ少佐の故郷と妻と娘の名前だ……航海長、少し代わってくれ。操艦渡すぞ」
損傷した海図盤の上に広げられたしわくちゃの海図に向かって苦労しながら記録していた航海長は、慌てて舵貰いますと言ったが、それよりも早くサナエフ大佐はシルショフ少佐の遺体に向き直っていた。
バーク中佐は怪訝そうな顔をサナエフ大佐に向けていた。
もっとも、少し考えてみればそう不思議な話でも無いはずだった。
ソ連海軍の規模が拡大し始めたのは、それほど前のことでは無かった。より小規模で狭い社会でしかなかったソ連海軍の中で、正規の海軍士官と政治将校という立場の違いはあれども、シルショフ少佐とサナエフ大佐が以前からの知り合いである可能性はあった。
だが、これまでの間、サナエフ大佐とシルショフ少佐の間には、相手の故郷や家族まで知り得るほどの親密さは感じられなかった。バーク中佐が違和感を覚えたのはそのような理由があったからだ。
当のサナエフ大佐はいつもよりも厳しい表情を浮かべていたが、バーク中佐には何故か今は感情を押し殺しているように見えていた。
「故郷と妻と娘の名前だ」
立ち尽くしていたサナエフ大佐が続けて同じことを言ったが、僅かな間に大佐の表情は崩れ始めていた。そして、次の瞬間にバーク中佐と傍らの下士官は驚いて顔を見合わせていた。
「ニェーメツに殺された俺の妹と姪の名前だ」
唖然としてバーク中佐は、シルショフ少佐を見つめながら茫然とした表情になっているサナエフ大佐の顔を見つめていた。
つまり、サナエフ大佐とシルショフ少佐は、軍務を離れれば義理の兄弟と言うことになるということらしい。
バーク中佐と下士官を押しのけるようにしながら、サナエフ大佐はシルショフ少佐の傍らに跪いていた。
俯いた大佐の膝の上には零れ落ちるものがあった。唖然として場所を譲るために後ずさりながらも、バーク中佐はサナエフ大佐が流した涙を見つめていた。
シルショフ少佐の遺骸を抱き抱えたサナエフ大佐は、等々こらえ切れなくなったのか、滂沱として流れ落ちる涙を抑えることも無く、絞り出すようにしながら言った。
「マルティン・ボリーソヴィチ、やはりお前は嘘つきだ。結局俺一人を残して先に逝きやがって。俺だけが、俺だけが何故一人で生きなきゃならないんだ。ミーシャ答えてくれ。答えてくれ」
これまでの厳しい態度がまるで嘘であったかのように、サナエフ大佐は泣き崩れてシルショフ少佐の体を抱きかかえながら叫んでいた。
―――もしかすると、この男は単にこれまで悲しむことが出来なかっただけではないか。
サナエフ大佐の姿を見ながらバーク中佐はぼんやりとそう考えていた。この戦争では、幾多の悲劇が発生していた。多くの人間はその場で悲しむことで感情を処理するのだが、大佐はこれまで人前で悲しみを顕にすることが立場上許されなかったのかもしれない。
周囲の乗組員もその事を察したのか、無言でそっとサナエフ大佐から視線をそらしていた。その様子は、同じような悲劇を幾度も味わった彼らが、大佐が悲しみの声を上げるのを邪魔しないように示し合わせているようにバーク中佐には思えていた。
レニングラードへと向かうオグネヴォイの艦橋内には、一人慟哭する男の声がいつまでも響いていた。