1944バルト海海戦48
「沈没したドイツ艦はシャルンホルストだったらしい」
戦艦大和の上甲板で艦橋の残骸を見上げていた細谷大尉の背中から唐突に声がかけられていた。慌てて大尉が振り返ると、戦艦分艦隊司令部の砲術参謀が、煙草の箱を手にしてぼんやりと視線を艦橋に向けていた。
小休止中に喫煙しようとした砲術参謀は、狭苦しく人いきれする指揮所を抜け出して上甲板に上がってきたのだろう。
細谷大尉は眉をしかめていた。専門外だったからドイツ海軍にはさほど詳しくないが、シャルンホルスト級戦艦は3万トン級の有力な艦艇であると大尉が所属する艦政本部では考えられていた。
ただし、実際のシャルンホルスト級戦艦の戦力を評価したというよりも、先の欧州大戦後に締結されたヴェルサイユ条約の制限下に長くとどめ置かれていたはずのドイツ海軍が、同条約を破棄した直後にも関わらず以前のように大型艦を難なく建造したという事実の方が注目されることが多かったのではないか。
英国海軍が公式書類に記載しているようにシャルンホルスト級戦艦を巡洋戦艦に類別する組織なども少なくなかった。
英国人達が実際にどの様に判断してシャルンホルスト級を巡洋戦艦と呼称していたのかどうかは艦政本部に所属する細谷大尉にも分からなかったが、速力が早く使い勝手のよい反面で旧式化していたり、艦型が過小であるなどの理由から主力部隊と違って温存されることのない日本海軍の高速戦艦という概念とも似たような意味合いがあったのではないか。
それに講和交渉中のドイツから提供された資料によれば、シャルンホルスト級戦艦の能力に関してはこれまで過大評価されていた点も少なくないようだった。
タラント港で鹵獲されたテルピッツを国際連盟軍が調査した結果からある程度分かっていたことだが、最近建造されていたドイツ海軍の水上艦には目新しい技術は導入されていなかった。と言うよりも、装甲配置などの点では先の大戦時通りの旧弊な機構も目立っていたのだ。
それも冷静になって考えてみれば無理のない事かもしれなかった。ドイツ海軍は、ヴェルサイユ条約の制限によって、大型艦の保有が禁止されていたから、艦艇の建造技術そのものが衰退していたのだ。
ドイツが戦間期に建造した最大級の艦艇は、1万トン級重巡洋艦の艦体に旧式戦艦の主砲に匹敵する30センチ級の砲を搭載した特異なドイッチュラント級装甲艦だったが、その経験だけでは急に三万トン級戦艦の建造を行うには十分ではなく、残されていた旧式戦艦の設計を参考にしていたのではないか。
潜水艦や他の小型艦に関しては、密かに中立国を拠点としたドイツ系造船企業による迂回輸出の実施によって造船技術の維持、発展に努めていたようだが、戦艦や重巡洋艦の様な大型艦ではそのような偽装工作は難しかったのだろう。
大型戦闘艦を保有するだけの余裕を持つ大国の多くは、そもそも自国で建造を行う事が多かったからだ。外国製の戦艦などを発注する場合でも、大型艦の輸出実績のある英国などを選択する筈だった。
それに、最近ではシャルンホルスト級に関してはその設計思想そのものに疑問が投げかけられていた。
今次大戦においても、シャルンホルスト級や同クラスの12インチ級砲を装備する艦艇が実戦に参加していたが、いずれも中途半端な攻防性能を露見させていると日本海軍では判断していた。
今回の戦闘でも、シャルンホルストと同級の12インチ主砲を装備すると思われるソ連海軍のクロンシュタット級重巡洋艦と磐城型戦艦2隻づつが交戦していたが、その結果は一方的なものであったようだった。
クロンシュタット級は、ソ連海軍の呼称こそ重巡洋艦というものであったものの、同国は軍縮条約に非参加であったことを反映しているのか、列強諸国の条約型重巡洋艦とは大きく異なる存在だった。
大和型戦艦などと同じく3連装砲塔3基、計9門を艦橋構造物前後に振り分けて配置された主砲は、旧式戦艦などが装備する12インチ口径の砲だった。
クロンシュタット級の原型は、米海軍で就役が開始されたアラスカ級大型巡洋艦であるらしいが、いずれも実際には巡洋艦と戦艦の間に挟まる超巡洋艦とでも言うべき新たな種類の戦闘艦だった。
おそらくその装甲も自艦の主砲に耐久しうる強固なものが施されているのではないか。
だが、日英海軍などからすると、このクラスの戦闘艦は中途半端なものにしか見えなかったのも事実だった。
日本海軍でも、水雷戦隊を含む巡洋艦部隊の指揮艦としてこのような大型艦の計画が持ち上がっていた時期もあったらしいが、詳細な設計を行う段階までには至らなかったというから、早々に立ち消えした計画でしか無かったのではないか。
あるいは、単に軍縮条約の無効化によって建造が中止された磐城型戦艦の後期建造艦計画が何処かねじ曲がっって伝わった話だったのかもしれなかった。
連装41センチ砲を搭載した磐城型は、軍縮条約改定による保有枠増大分の3隻が建造された後は、旧式艦した金剛型の代艦として3連装の36センチ砲塔を搭載した後期艦が建造される予定だったらしい。
主砲塔の重量が41センチ連装砲塔と36センチ3連装砲塔では随分と異なると思われるが、その分は砲弾の威力差を反映した装甲板の厚みを変えることで最終的に同程度の排水量に抑えるつもりだったのかもしれない。
いずれにせよ日本海軍は巡洋艦と戦艦の中間となる中途半端な戦闘艦を建造する予定は無かった。そのような艦艇は費用対効果が劣悪なものにしかならないという認識があったからだ。
12インチ級の砲弾の重量は、徹甲弾でも凡そ500キログラム程度でしかないが、これが16インチ砲の砲弾であれば重量はその倍の1トン程度にもなっていた。初速が同程度だとすると、貫通距離に直結する砲弾が持つ運動量はこの砲弾重量に比例することになる。
つまり、戦艦の装甲厚が想定する交戦距離で自艦主砲に対応することを前提に決定されていることを考慮すると、12インチ級の主砲では相当接近しない限り16インチ級砲を搭載した戦艦の装甲は貫けなくなるのだ。
より格下の重巡洋艦が相手の場合は、12インチ級砲を搭載した艦艇は優位に戦闘を進めることが出来るはずだが、ここにはある視点が欠けていた。
既存の列強諸国が建造した条約型重巡洋艦は、戦艦の様に自艦主砲に耐久し得るほどの装甲を有するものは少なかった。仮に条約型巡洋艦で戦艦に準じる設計基準をとったとすれば、主砲搭載数や速力、巡航距離といった機能が削ぎ取られた歪なものにしかならなかった筈だった。
例えば、日本海軍の巡洋艦は高い打撃力と艦体防御を併せ持つ一方で、主砲塔の防護は脆弱なものでしか無かった。
日本海軍が巡洋艦に期待する夜間戦闘では自然と近距離での交戦機会が多くなるから、主砲塔を分厚くしてもどのみち貫通されると判断していたからだ。だから主砲塔の分の装甲を艦体に回して残存性を高めていたのだ。
要するに基準排水量で1万トンという条約の巡洋艦規定に収めるためには、どの国の海軍でも何らかの犠牲を払わない限り望むだけの機能を盛り込む事はできなかったのだ。
だが、その様に制限された巡洋艦を撃退するには、12インチという主砲口径は過剰だった。条約型巡洋艦の上限である8インチ砲にすら耐久出来ない巡洋艦にそれ以上の口径の主砲を撃ち込んだ所で最終的な結果は変わらないのでは無いか。
12インチ砲対応の装甲も同様に実戦における効果は薄かった。重巡洋艦が装備する8インチ砲に対しては相当の余裕を持つはずだが、本物の戦艦が装備する14インチ以上の砲が相手では安全距離はほとんど無くなるのではないか。
つまりは、12インチ砲搭載艦が効率が良いのは、8インチ砲以下では対応できないが、戦艦主砲を用いるまでもない相手ということになるのだが、軍縮条約によって巡洋艦と戦艦の境目がはっきりとしてしまった結果、そのような中途半端な艦艇はほとんど居なくなってしまっていたのだ。
磐城型戦艦とクロンシュタット級重巡洋艦との戦闘も、このような日本海軍の想定を反映したものであったようだ。
発射速度と手数において優位にあるクロンシュタット級は、果敢に威力に劣る自艦主砲で磐城型の装甲を貫通できる距離まで接近を図っていたらしいが、速力に大した差がないものだから接近機動は成功していなかった。
皮肉なことに、日本海軍の方では開戦前まで磐城型戦艦の戦闘能力に疑問を抱くものが少なくなかった。
磐城型が装備する主砲そのものは、同型建造時において日本海軍最有力の戦艦であった長門型戦艦と同型となる41センチ連装砲塔だった。ただし、3万5千トンという条約の制限を遵守した磐城型では、その主砲搭載数が長門型に劣る3基6門でしか無かったから、火力面での不安があったのだろう。
もっとも磐城型戦艦の装甲は戦艦らしく自艦主砲の威力を前提とした分厚いものだった。装甲配置も、相次ぐ改装工事によって段階的に防御能力を向上させていた長門型戦艦のそれを参考にして更に発展させたものだった。
今回の戦闘でも重要区画を覆う装甲はクロンシュタット級の12インチ砲弾に最後まで耐えきっていたようだった。磐城型戦艦の防御は長門型戦艦をも凌ぐものとなっているはずだから、適切な砲戦距離さえ保つことができれば、12インチ砲の貫通を許すことはないのではないか。
その一方で、手数は少ないながらも磐城型戦艦の41センチ砲はクロンシュタット級重巡洋艦のどこに命中しても装甲を貫通して致命傷を与える事ができたようだ。
戦艦並みに3万トン程度の排水量を持つらしいクロンシュタット級の巨体は、磐城型にとってみれば当たりどころが悪かったのか一撃で戦闘不能に追い込まれることは無かったようだが、被弾の度に装甲が貫通された重要区画の機能が失われていった。
大和や数に勝る敵軽快艦艇群と交戦していた巡洋艦部隊とは異なり、2隻のクロンシュタット級重巡洋艦を無力化した後も、磐城型戦艦2隻からなる第10戦隊は戦闘能力を保持していた。少なくとも主砲に関する機能は損なわれていなかったようだった。
ソ連海軍は、巡洋分艦隊が合流した直後に撤退していたから、戦隊司令官の岩渕少将は追撃を分艦隊司令部に進言していた。第10戦隊単独ではなく、合流した巡洋分艦隊からも抽出した戦力を加えて、戦闘力を残した艦艇のみで特設隊を編成してソ連艦隊の殲滅を図るつもりだったらしい。
だが、大和の通信能力が低下していることを除いても分艦隊司令部の反応は鈍かった。傍から見ても大和が大きな損害を被っていたのは明らかだったから、無線が完全に使用不可能だとでも考えていたのか、岩渕少将は戦隊旗艦である磐城を接近させて発光信号まで送ってきていた。
放っておけば、今にも癇癪を起こした岩渕少将が内火艇で大和に乗り付けてきそうな勢いだったが、流石に戦闘配置も解除されていない状況では、戦隊司令官が洋上で不在となる事態は憚られたのか、それ以上の動きは見せなかった。
実際には、大和の無線機能は完全に失われていたわけではなかった。
確かに相次ぐ被弾による空中線の切断によって送受信距離は短くなっているようだったが、戦闘中に破損した無線機本体なども予備機材や応急部材を用いて通信科が必死になって修理した結果、最低限の通信機能は確保されていた。
艦内の通信網はまだ不通のものもあったが、全体では支障はなかったようだ。
大和に座乗する分艦隊司令部が追撃命令をくださなかったのは、その必要性がないと判断されていたからではないか。
状況からして無事に撤退し得たソ連艦の数は少なかった。再度ソ連艦隊が出撃することがあったとしても、遠く離れたレニングラードまで撤退して長期間の補給、修理作業を行わなければ不可能のはずだった。
それに、バルト海に進出した日本海軍の目的は、ポーランド内のソ連軍包囲網内に取り残された民間人の救出、あるいはその援護だった。つまり脅威となるソ連海軍を撤退に追い込んだ時点で作戦目的は達成したと言えた。
長距離攻撃機などの経空脅威は未だ無視できないが、対空火力を提供するには船団付近まで引き返したほうが良さそうだった。
あるいは、栗田中将は友軍艦艇の損害を受けてこのような判断を下した可能性もあるはずだった。
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