1944バルト海海戦46
戦艦大和の損害は当初の想定よりも大きかった。艦政本部から遣欧艦隊に派遣された技術将校である細谷大尉は、半ば廃墟のように崩れかけている艦橋構造物を上甲板で佇んだまま呆気にとられた様な表情で見つめていた。
大和には戦艦分艦隊司令部が座乗していたが、司令部要員は広大な戦域に分かれて各個に交戦していた分艦隊所属艦や、合流した巡洋分艦隊から続々と送られてくる損害報告の集計などの作業で多忙にしていた。
本艦固有の乗組員は更に忙しかった。衛生科は負傷兵の治療に追われていたし、他の各科の将兵も負傷兵の移送や応急作業に駆り出されていた。それらの喧騒から単なる便乗者である細谷大尉だけが取り残されていた。
今回の海戦で大和が被った損害は、ほとんどが戦闘初期のガングート級戦艦3隻との交戦によって発生していたのだが、戦闘が開始された当初は大和は3隻の敵戦艦に対して互角に渡り合っているように思えていた。
そのこと自体はさほど不自然では無かった。先の欧州大戦時に建造されたガングート級は著しく旧式化している筈だから、余程徹底した近代化改装でも受けていない限り新鋭の大和型戦艦との性能差は大きいと考えられていたからだ。
数の上では不利だったが、当初は実際に大和の方が優位に戦闘を進めていた。少なくとも敵1番艦を撃破する迄は大和に乗り込んだ誰もがそう考えていたのではないか。
大和の射撃は近弾が多く発生していたようだったが、敵艦を早期に撃破し得たのはそのおかげであったかも知れなかった。1番艦に対する最後の射撃では、水中弾らしい効果が出ていたからだ。
軍縮条約の規定に従って廃艦とされた未成艦を標的とする一連の砲撃実験において、日本海軍では目標手前に着弾した砲弾の一部が海面近くを水平に突き進む水中弾効果を観測していた。
また、その後の研究結果を反映した砲弾の弾頭形状の工夫によって、水中弾の発生確率を高めるとともに水中弾道の最適化が図られていた。
そうした弾頭の改良にも関わらず、水中弾効果は安定して発生するわけでは無かった。海面落着時の入射角や存速といった数々の条件によって発生確率は大きく変化するからだ。
もっとも日本海軍ではそのような限定的な使用しかできないにも関わらず、水中弾効果に対する期待は大きかった。
先の欧州大戦後、各種光学機器や射撃盤などの射撃管制装置の改善によって実用的な戦艦主砲の射程は大きく伸びていたが、これに対応するように装甲配置や装甲厚も改善が施されていた。
しかし、水中弾効果が発揮された場合は、その重装甲の隙間を突くように魚雷のように水面下を直接破壊して致命的な浸水を敵艦にもたらすことができるかもしれないのだ。
今回の戦闘では、幸運にも大和の射撃によって敵1番艦に早々に水中弾が発生していたようだった。艦橋に配置されていた見張り員からの報告によれば、敵艦の甲板上や周囲の海面ではなく、着弾からやや遅れて魚雷が命中したときのように敵艦側面に大きな水柱が発生していたらしい。
その直後に傾斜しながら敵1番艦が離脱していったことからしても、水中弾が見事に発生したことは間違い無さそうだった。ガングート級の建造時期からしても水中防御は新鋭戦艦に比べれば貧弱なものであるはずだから、一撃で致命的な損害を被ったとしてもおかしくはなかった。
だが艦橋見張り員がさらなる吉報を上げることはなかった。敵1番艦が戦場を離脱するよりも早く、ガングート級戦艦群からの射撃が短時間の内に艦橋に集中して着弾していたからだ。
艦橋に命中した敵弾がどこから撃ち込まれたものかは分からなかった。敵1番艦が離脱前の最後に放った斉射弾であったのかもしれないし、後続艦からのものかもしれなかった。
確かなのは、格下であるはずのガングート級から打ち込まれた12インチ砲弾によって、第一艦橋およびその上部の測距儀が設けられた主砲射撃指揮所が共に致命的な損害を被ったということだった。
ある意味においては、指揮所に陣取る戦艦分艦隊司令部の機能もまたこの時点で消失していた。
艦橋に被弾したことで、大和の幹部の少なくない数が一気に戦死するか、行方不明となってしまっていた。
その後も生存した中で最先任の士官によって大和の戦闘は継続されていたが、相次ぐ被弾の中で正規の情報の流れは途切れており、個艦での戦闘継続を優先する大和の指揮系統から指揮所は取り残された形になってしまっていた。
どのみち、艦橋付近に集中配置されていた各種電探は機能が損なわれていたものも多かったから、指揮所の機材や人員だけが無事でも戦闘開始前の十全の機能を復旧させる事は難しい筈だった。
それに、分散して突破を図ろうとするソ連海軍に対抗するために戦艦分艦隊も戦隊単位で離散していたから、単艦で戦闘を行う大和にとって分艦隊司令部の機能は当座必要が無くなっていたのも事実だった。
細谷大尉は今回の作戦前に大和に乗り込んでから、違和感を覚えることが多かった。
大和型は日本海軍でも最新鋭の戦艦だったが、建造が開始された当初はまだ日本海軍は今次大戦に本格的な参戦は果たしていなかった。友邦英国海軍は、すでにドイツ海軍などと散発的な戦闘を行っていたが、戦艦の設計に本格的に活かせるほどの戦訓は十分には得ていなかった筈だった。
つまり、大和型戦艦は設計思想としては開戦前までに蓄積されていた技術で建造されたといって良いはずだった。そのようにして完成した姿に今次大戦で得られた各種情報が集約される指揮所という新たな概念を継ぎ足したものだから、どこか木に竹を継ぎ足した様な違和感があったのではないか。
今回の戦闘では大和艦内に設けられた指揮所自体も安全とは程遠い状況だった。
連合艦隊旗艦として運用されることも想定されていた大和型戦艦は、司令部要員や戦隊司令官など各級指揮官を一堂に会して会議などを行うだけの広さと調度品が整えられた長官公室を備えていた。
指揮所はこの長官公室の空間を転用して設けられたものだった。建造当時に配置されていた調度品などは無造作に取り除かれて、無骨極まりない電探表示面や巨大な態勢表示盤などの機材が壁をぶち抜いて搬入されていた。
だが、本来は長官公室は艦隊運用にとって必要不可欠な存在であると認識される一方で、分厚い装甲の施された重要区画の中には入れられなかった。贅を尽くした調度品ごと長官公室が破壊された所で、大和単艦の戦闘能力そのものは低下しないからだ。
そもそも戦闘配置の際は艦隊司令長官は艦長と共に第1艦橋が居場所となるし、参謀たちの多くもその直下の作戦室に配置されていたから、兵員居住区などと同じく戦闘中は長官公室も無人となる筈だったのだ。
改装工事によって用途が変更された後も、指揮所は重要区画の外にあった。弾辺防護程度の軽易な装甲板を配置する案もあったらしいが、結局は重量の増大や区画面積の圧迫を理由として取りやめられていたらしい。
仮に装甲板で囲まれていたとしても、主砲砲戦では障子紙のように抜かれる程度のものでしかないし、電探などの各種電線や冷却装置などの開口部が広すぎてあまり効果は期待出来ないものにしかならないのではないか。
もちろん改装工事の計画が持ち上がった当時から、艦隊指揮系統の中核である指揮所も重要区画内に収めるべきではないかという議論はあったようだ。
電探や無線連絡機能の強化によって、必ずしも周囲の状況を把握するのに自らの視覚に頼る必要が無くなった今では、無防備な艦橋に指揮系統を集約させる必要は無くなっていたのだ。
しかし、現実的には大和の重要区画内には指揮所を収容できるような広大な空間は無かった。
改装計画が持ち上がっていた一時期は、副長や応急指揮官が配置される艦橋下部に存在する司令塔の内部に指揮所を設ける案もあったらしいが、分厚い装甲で覆われた司令塔内部は長官公室と比べても著しく狭く、司令部要員を収容する事は出来そうも無かったのだ。
仮に司令塔内部に無理に指揮所を押し込めたとしても、既設の操舵機能などへの障害や収容人数の減少といった問題が起こっていたのではないか。
抜本的な改善を行うには重要区画の拡充、すなわち装甲の追加を行うしかないのだが、それは戦時中の改装工事で行うには難しかった。
大和型に限らず戦艦の装甲配置は建造計画当初に決定されていた。装備する主砲の射程や貫通距離、更には落下角を考慮して単純な装甲厚だけではなく装備方式まで綿密な計算を繰り返して計画されていたのだ。
長い就役期間の間に、大規模な改装工事を受けて装甲の変更を行う戦艦も少なくないが、その場合も改装工事に必要な設計には長い時間がかかるのが普通だった。
それに装甲だけを変更する改装工事は少なかった。実際には主砲射撃に関わる射撃盤や主機関など多くの艤装品の変更を伴う大改装工事と共に行われる事が多く、それはほとんど何万トンもある巨大な戦艦を作り変えるようなものだったのだ。
だが、今回の大和の改装工事においてはそこまでの予算や時間を割くことは出来なかった。
地中海での戦いには目処が立っていたとはいえ、ドイツとの正式な講和は未だなされていなかったし、その内にバルト海への投入という計画すら持ち上がっていた日本海軍には、欧州に展開する最有力の戦艦に対して整備を兼ねるとはいえ改装工事の工期を長く取るほどの余力はなかった。
それ以前に日本本土から遠く離れた英国本土まで日本製の装甲板を輸送する事自体も難しかったのではないか。
それに、英国本土の既存の船渠では巨大な大和型戦艦を入渠させる事すら物理的に不可能だった。
大英帝国は他国に先んじた産業革命によってこれまで世界の工業界を牽引して来たが、先駆者であるが故に現在ではその設備の旧式化が目立つようになっていた。
予算不足によって修理施設、造船設備の増強が断念されていたことから、英国海軍の大型艦は全長が抑えられた肥えた船型に甘んじるものが少なくないようだった。
大和型の改装工事自体は、日本本土から遥々輸送してきた浮き船渠を使用する事で可能だったが、船体が破損している様な中大破状態の艦船の修理工事などにも、収容可能な制限の小さい浮き船渠は需要が多かった。
結局大和の改装工事は、大部分の工期を桟橋に係留した状態で工作艦の支援を受けながら行うしかなかった。船渠内の工事を最低限とすることで工費、工期を共に抑えなければならなかったのだ。
長官公室を転用するという姑息で場当たり的なやり方ではなく、本格的な指揮所の追加を戦艦大和に行うことがあるとすれば、戦後に余裕ができてからのことになるだろう。細谷大尉はそう考えていた。
今時大戦において日本海陸軍は人員、装備共に飛躍的な拡大を行っていた。おそらくその反動で戦後には大規模な軍縮が実施されるはずだが、大和型を始めとする新鋭戦艦などはその例外となるのではないか。
日本帝国が国際連盟軍の一員として欧州に大規模な戦力を派遣する一方で、太平洋の向こう側に存在する米国も軍備拡張を行っていたからだ。
しかも、保護すべき航路を対ソ貿易に用いるもの以外に持たない米国は、日英のように膨大な護衛艦艇や輸送船団の構築を行う必要が無かったから、戦艦や大型巡洋艦の様に砲艦外交や抑止力に有効となる大型戦闘艦の建造を優先している気配があった。
戦後になっても、日本海軍は戦艦などの決戦に投入される兵力は安易に削減できないのでは無いか。むしろ個艦の戦闘能力を向上させるために積極的に戦訓を取り入れた改装工事を行う可能性すら高かった。
尤も、そのように質を極めたとしても指揮所が十分に機能するかどうかは分からなかった。今回の戦闘では重要区画に機材を収められて冗長性が確保されていたはずの主砲射撃機能に支障をきたしていたからだ。
大和型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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