1944バルト海海戦42
後から考えれば、襲撃したソ連機の数は本来の第4航空戦隊の戦力からすれば十分に対処できる程度のものでしかなかったはずだった。それが第4航空戦隊の対応が後手に回ってしまっていたのは、いくつかの不運が重なった結果起きたことだったのではないか。
ソ連機の襲撃は五月雨式に発生していた。日本海軍のように攻撃隊発艦後に艦隊上空で大規模な編隊を組むのではなく、単に発艦順に襲撃を掛けてきているかのようだった。
だが、上空の様子からすると、それほど事情は単純ではない気がしていた。ソ連機の航法能力はこちらが想像していた以上に低いのではないか。石井一飛曹には、ソ連機が子供のように手当たりしだいに突っかかってくるようにしか思えなかったのだ。
あるいは、航法に関わる機器面では充実していても、それを操作する搭乗員の練度の方が追いついていないのかもしれない。今日のバルト海は北方から靄が伸びているようだから、風向きもあってソ連機は、飛行途中の大半は不安定な霧中の飛行を余儀なくされていたのではないか。
しかし、ソ連機がその様な状態であるにも関わらず、第4航空戦隊は敵機の襲来を阻止するのに四苦八苦していた。その最大の理由は、やはりバルト海投入を目前にした時期に慌ただしく行われた再編成によって迎撃戦闘には全く向かない艦上哨戒機を数多く搭載してしまったためだった。
ただし、他にも第4航空戦隊には不利な状況が揃っていた。
この時、局所的なものと思われるが、バルト海には西方に向かって強く風が吹いていた。
ゴーテンハーフェンを出港した脱出船団は、バルト海と北海を隔てるユトランド半島の付け根に位置するキールに向かって航行していたから、船団に随伴する第4航空戦隊にとっては、発艦に不利な強い追い風を受ける状態になってしまっていた。
ソ連艦隊からの攻撃隊発艦という連絡を受けた航空戦隊がこの状況で発艦作業を行おうとするのであれば、2つの手法が考えられた。1つは追い風のまま不足する合成風力を、射出機の勢いで補う事だった。風速はかなり出ているようだから、軽快な戦闘機であっても射出機の助けが必要であるはずだった。
第4航空戦隊に配備されている零式艦上戦闘機44型は、射出機の使用を考慮して機体構造が強化されていたから、大加速度の射出機を用いても支障は無かった。
ただし、この場合は射出機は最大まで加圧する必要があるから、蓄圧にかかる時間を要する為に発艦間隔はかなり長引く筈だった。
発艦間隔を最小限に止めようとすれば、風上に向かって針路を変更する必要があった。今度は合成風力が最大となる為に、戦闘機であれば軽々と連続で自力発艦出来るのではないか。
もちろんこちらの方法にも問題はあった。風向きだけを考えれば船団の針路とは逆方向となるから、第4航空戦隊だけが時間ごとに船団と離れていってしまうのだ。
現在の状況では戦隊付きの駆逐隊も有力な護衛艦艇だったから、発艦作業に時間がかかれば、それだけ船団を危険に晒すことに繋がりかねなかった。
速力に優れる正規空母であれば、このような場合も短時間で発艦を終えて反転すれば鈍足の船団に追いつく事が出来るはずだが、原形が貨客船である隼鷹型では船団の定位置への復帰にも時間がかかるはずだった。
状況を悪化させる要因はそれだけでは無かった。ちょうどこの時、船団出港前から周辺を警戒していた艦上哨戒機を交代させる時刻が迫っていた。
バルト海投入前に、十分な数の艦上哨戒機が配属されていたから、交代機の用意は可能だったが、着艦作業の為にも風上に艦首を向ける必要がありそうだった。
戦艦分艦隊司令部から連絡のあったソ連機による襲来があるとすれば、この艦上哨戒機の交代とほぼ同時刻になってしまうのではないか。
ソ連機の襲来が実際に船団に向かうかどうかは不透明であったし、どれだけの機数が襲来するのかもわからないが、艦上哨戒機の残燃料からすると空襲を避けて長期間の空中待機を行うのは難しいらしい。
最終的に第4航空戦隊が下した判断は中途半端なものだった。直衛の駆逐隊のみを随伴した空母2隻は船団を離れて反転、風上に向かって艦載機の収容を行った後に再度回頭して、今度は最大戦速で船団を追い掛けつつも射出機を用いて順次戦闘機隊を発艦させて行くのだ。
戦隊司令官の逡巡が伺えるやり方だった。しかも、結果的にみれば司令部の判断は誤りだった。艦上哨戒機の収容を終えて隼鷹と飛鷹が船団に向けて再度反転する頃には、次々と電探がソ連機の接近を探知していたからだ。
ソ連機からすると、駆逐隊を引き連れた隼鷹、飛鷹の2隻は誘蛾灯のようなものだったのではないか。船団後方に移動していた事で思いがけずに第4航空戦隊の存在が船団位置を暴露していたからだ。
ただし、駆逐隊を含む第4航空戦隊が直接狙われることは無かった。よほど指揮官の決心が徹底されているのか、戦闘艦には目もくれずにソ連機は船団を構成する輸送船を執拗に襲撃していたからだ。
ソ連機が発見された当初は、さほど厄介な事態とは思われなかった。最初に発見されたソ連機の数は少なく、射出機によってこちらの戦闘機隊は発艦し続けるはずだからだ。
しかし、いち早く発艦した石井一飛曹は、楽観的な予想が早々と覆っていくのを感じていた。ソ連機が続々と姿を表し始めていたからだ。
ソ連機が大規模な編隊を組んでいなかった事が災いしていた。こちらの電探を操作する将兵は、飽和するように現れるソ連機の位置を正確に把握出来なかったのだ。
飛鷹からの発艦作業はやはり遅れていた。そのせいで短時間のうちに組織的な戦闘は出来なくなってしまっていた。
開戦以後の戦訓を受けて、日本海陸軍の航空部隊では最小単位を従来の3機からなる小隊から2機編隊に細分化していた。
従来の3機で構成される部隊では、隊内の他の2機を同時に確認しながら飛行しなければならないのに対して、2機編隊であれば1機しか無い僚機だけ見ていればいいから、より自由度の高い機動の余地があったからだ。
もっとも通常は最小単位の2機ではなく、2機編隊2個の計4機からなら小隊で行動することが多かった。2つの編隊がお互いを援護しながら戦えば、従来の3機小隊とは比べ物にならないほどの戦力を発揮するからだ。
だが、現状は小隊単位での戦闘を行う事は出来なかった。次々と現れるソ連機を迎撃する為には、戦力には劣っていても最小単位である2機編隊に分割しないと手が足りなかったのだ。
それに、射出機を使用した発進の場合は、飛行甲板に備えられた射出機の数から同時発艦は2機となっていたから、急を要する事態で小隊を組む間も惜しんで逐次戦闘に投入するほか無かったのだ。
この空域には当初から在空していた直援機もあった筈だが、彼らも小隊を解いて2機編隊で対応しているのではないか。
しかも、守るべき船団にも大きな問題が生じていた。避難民を乗せた船団はドイツ国内に残されていた雑多な船舶で構成されていた。船団に編入する際に若干の対空兵装を搭載した輸送船もあるようだったが、基本的には丸腰で鈍重な船ばかりだった。
しかも空襲の警報を受けた船団各船は、浮足立って我先に速力を上げていたから、船団はこれまで以上に広がっており、結果的に直衛に残された石狩型軽巡洋艦による援護の効果も薄れていた。
しかし、僚機を引き連れながら次々と輸送船団に迫ろうとするソ連機に対処しながらも、石井一飛曹は命の危険は感じていなかった。数は多いが、ソ連機の性能は低かったからだ。
艦上戦闘機も、最新型とは言えなくなってきた零式艦上戦闘機44型と比べても世代の違う旧式機だった。日本海軍機が小隊を解いて戦闘能力に劣る2機編隊での行動を始めたのも、ソ連機に対処するには2機で十分という判断があったからではないか。
元々の機体性能がさほど高くない上に、雷爆装によって攻撃機は鈍重な動きしかできていなかった。五月雨式に船団に迫る敵機を追尾しながら、半ば機械的に石井一飛曹は愛機を操縦していた。
妙な気配を感じたのは、1機のTBDデバステーター艦上攻撃機にとどめを刺した時だった。
重量物の爆弾か魚雷を抱えたまま、そのデバステーターは零式艦上戦闘機から放たれた20ミリ機銃弾を主要部に食らって吹き飛んでいた。盛大に吹き飛んだ艦爆の破片から逃れるように、石井一飛曹は機体を旋回させていたのだが、周囲を見渡す目はすぐに一点に集中していた。
発見されたのは、これまでのソ連機とは明らかに異なる様子の敵機だった。
石井一飛曹達の様に緻密な2機編隊を保っていたが、そのこと自体はさほどおかしくは無かった。これまでも編隊を保っていた敵機と遭遇したこともあったが、少数機でしかないからその単位で同時に発艦した集団だったのだろう。
ただし、速度は恐ろしく速かった。もしかすると、零式艦上戦闘機と同程度の速度は出ているのではないか。
―――新型の……艦上戦闘機か……
石井一飛曹はそう考えながらも旋回を続けていた。本当に敵機が戦闘機なのだとすれば、積極的に交戦する必要は無かった。第4航空戦隊としては、襲来する敵機から船団を防衛するのが目的だったからだ。
つまりは、最優先で撃破すべきは避難民を満載した輸送船を撃沈出来る爆弾や魚雷を積み込んだ攻撃機であり、相手が戦闘機であれば優先順位は下がっていた。
全く装甲の無い輸送船には戦闘機の機銃掃射も十分な脅威となり得るが、一撃で致命傷を与えられる攻撃機を始末する方が先だった。
しかし、列機からの通信が石井一飛曹の注意を引いていた。列機に乗り込んでいるのはあまり経験の無い操縦員だった。確か本土の練習航空隊から転属してきたばかりだったはずだ。
無線機から聞こえてきたのは頼り無さそうな声だった。開戦前の少数精鋭の集団だった頃の海軍航空隊であればそれだけで鉄拳を食らいそうなものだった。
列機を任せたものの、石井一飛曹は若い操縦員に一抹の不安を抱いていた。前線での激しい消耗戦に備えて、最近では本土の練習航空隊も規模が大きく拡大されていた。
大量の搭乗員が供給されてくるのは良いが、まるで徒弟制度の様に熟練した教官が選びぬかれた少数の訓練生をじっくりと育成するような余裕はなくなっていたから、粗製乱造とまでは言わないが新兵の練度は戦前と比べると低下している、それが航空隊の古参搭乗員の多くが抱いていた思いだった。
だが、列機の搭乗員は意外なほどはっきりとした口調でいった。
「あの機体は……爆装しているのではないですか」
石井一飛曹は反論することも忘れて一瞬唖然としていた。常識的にはありえなかった。戦闘機が爆装することそのものではなかった。
以前は日本海軍では戦闘機の爆装はさほど重要視されていなかった。広大な太平洋を舞台とした米海軍を仮想敵とする想定では、主力艦隊による決戦を前に制空権を確保するために、まず敵空母を無力化することが日本海軍の正規航空母艦の役割とされていた。
その様な大規模な戦闘では、攻撃隊に随伴する艦上戦闘機は鈍重な艦爆や艦攻を敵戦闘機から守ることが優先されるし、それ以前に軽快な戦闘機は航続距離の点では劣るから増槽を搭載するのに手一杯で爆装するような余裕はなかった。
それ以前に戦闘機に搭載できる程度の爆弾では前衛の駆逐艦程度にしか損害は与えられないのではないか。
だが、地中海での戦闘では事情は変わっていた。厳重に防護された敵艦隊などどこにも存在していないから、日本海軍の空母艦載機も上陸作戦を支援する対地攻撃が主任務となっていたからだ。
自然と母艦から目標までの距離も近くなるから、航続距離の短い戦闘機が爆装しても支障はなかったことも無視できなかった。
もっとも艦上戦闘機の爆装が多用されるようになったのは、搭載されるエンジンの出力が大きくなっていったのも理由の一つだった。大重量の爆弾を抱えても発艦作業に支障が出ない程であったわけだが、それでも爆装時には航続距離や速度の低下が激しかった。
その様な事情はソ連機、というよりも米海軍機でも同様のはずだった。いくら新型戦闘機であっても、爆装して零式艦上戦闘機と同程度の速度を出せるとは到底思えなかったのだ。
しかし、そのように列機搭乗員の言葉を否定する一方で、石井一飛曹は嫌な予感を覚え始めていた。
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