1944バルト海海戦40
隼鷹型航空母艦二隻は、英国本土で行われた大規模な改装工事によって飛行甲板左舷側に大きく張り出して一体化された構造物が増設されていた。
この張り出しは、当初は着艦時の滞留機の置き場所や移動路としか考えられていなかった。元々が大重量となった艦橋構造物と釣り合いを保つために設けられたものに過ぎなかったからだ。
攻撃隊が帰還した際など連続して着艦機がある場合は、前後二箇所以上設けられた昇降機の内、どの空母でも後方のものは使用できなかった。飛行甲板と一体化した昇降機を上げておかないと着艦に必要な甲板長を確保できないからだ。
だから着艦機を格納庫に移動するのに使用できるのは前部昇降機だけとなるのだが、実際には着艦機の間隔に昇降機の速度が追いつかないから、着艦後に艦首付近に待機する機体を置く収容区域を設けるのが通常の運用だった。
着艦機と収容区域の間には、着艦事故から待機する機体を保護するために着艦制止装置が立ちはだかっていた。着艦区域に配置された着艦制動装置に繋がる制動索を捉え残った場合は、最終的に着艦制止装置に突き当たって止まるはずだった。
だが、この着艦制止装置の頑丈な柵は、起倒に時間がかかるために着艦機を収容区画に移動させるには手間となっていた。
隼鷹型で追加された張り出し部は、この着艦制止装置の舷側に位置していた。これは釣り合いを取るべき艦橋の反対側にあったからだったが、当初の運用上は制動索を捉えた着艦機を制止柵を避けて収容区画まで移動させる迂回路とするためでもあった。
しかし、現在の隼鷹型ではこの張り出し部は当初とは異なる運用を行っていた。空母の進行方向に対して着艦機が横滑りしながら斜め着艦を行う際に着艦区画の一部をなすように滑走路帯標識線を書き込まれると共に、着艦誘導灯も斜め着艦に対応する角度に取付角が変更されていた。
この張り出し部を用いた斜め着艦が誰が最初に思いついたのかは未だによく分からなかった。飛鷹乗組の誰からしいのだが、今でも発明者は名乗り出ていなかった。
当初は懐疑的に捉えるものも多かった斜め着艦だったが、昨年度に飛鷹で始めて行われた着艦実験から急速に実用化が進められていた。この新たな着艦方式の利点は明らかだったからだ。
着艦を終えた機体が滞留する収容区画が進行方向にないために、仮に着艦機が制動索を捉え残ったとしても、すぐにエンジン出力を上げれば擬着艦訓練のように何度でも着艦を繰り返す事ができるのだ。
もちろん斜め着艦を終えた機体は張り出し部を伝って移動する事が可能だったから、着艦制止装置が作動していても着艦機の迅速な収容区画への移動も出来た。
最近の艦載機は重量もエンジン出力も増して失速速度が高くなることで着艦の難易度が上がっていた上に、戦乱の長期化で訓練を終えたばかりの搭乗員が一線部隊に配属されることも増えていたから、空母における事故率の低下には斜め着艦は大きく寄与しているはずだった。
詳細は分からないが、二隻の隼鷹型の実績を受けて、今回のバルト海での作戦に参加せずに英国にとどめ置かれている他の正規空母でも斜め着艦を前提とした改装を受ける艦もあるらしいと石井一飛曹は聞いていた。
もっとも、最新鋭艦の大鳳を除けば既存の日本海軍の空母では島型艦橋が小さく、下部湾曲式の煙突を設けていたから、隼鷹型とは逆に左舷側に大きな張り出し部を設けることは左右舷の釣り合いを取らなければならない以上は出来ないはずだった。
精々が既存の飛行甲板に角度の浅い斜め着艦用の標識線を書き込む程度のことしか出来ないのではないか。
それを思うと石井一飛曹は密かに暗い笑みを浮かべる事があった。公式記録には残されていないはずだが、実は日本海軍で始めて斜め着艦を試みたのは一飛曹だったのだ。
しかし、誰なのか定かではない乗員の思いつきに過ぎなかったものだから、当初は斜め着艦の実験は公式なものとはされていなかったのだ。その割には多くの将兵が期待を込めて実験に立ち会っていたものだから、石井一飛曹に掛かる圧力は大きく、辟易するほどだった。
だからこそ、継子扱いされていた隼鷹型の実績を今頃取り入れている他の正規空母の乗員にどことなく鬱屈した感情を抱いてしまっていたのだ。
当初から空母として建造された高速の正規空母と比べると低速の隼鷹型に設けられた張り出し部は、攻撃隊を発艦させる際にも使用されていた。改装後の隼鷹型が攻撃隊を発艦させる際は、まず配列区画の最前部に重量のある艦攻を配置するが、この機体は最初に射出機を使用して発艦した。
これまでであれば連続射出が不可能であるために、次に発艦する予定の艦攻を並べて蓄圧の完了を待つか、射出機の使用を諦めて自力発艦機に配列位置を譲るしか無いのだが、改装後は次に射出機を使用する機体を張り出し部に待機させておくことが出来た。
だから、蓄圧中は射出機待ちの艦攻に遮られずに軽快な艦上戦闘機や艦上爆撃機が自力発艦を行うことが出来たのだ。
改装前の隼鷹型は、速度に劣るために合成風力に期待出来ないことから、発艦区画を長く取らざるを得ずに攻撃隊の配列区画を短くせざるを得なかったが、この射出機の使用と自力発艦を交互に繰り返せば、低速の隼鷹型でも攻撃隊の編成を大規模にすることが出来るはずだった。
隼鷹型2隻からなる第4航空戦隊が地中海での戦闘に投入されたのは、この新たな発艦方式が採用された為でもあるはずだった。
だが、実際には第4航空戦隊の意気込みとは異なり、第1航空艦隊や航空分艦隊司令部が隼鷹型にかける期待はさほどのものではないようだった。それは第4航空戦隊に配属された航空隊の編成からも明らかだった。
第4航空戦隊が地中海に投入された当時の日本海軍の艦載機は、零式艦上戦闘機、二式艦上爆撃機彗星、二式艦上攻撃機天山の三機種が主力だった。
以前は、日本海軍の空母は艦爆や艦攻の搭載数が多かった。大型空母に艦攻が搭載されたのは敵主力艦に雷撃を行ってその戦力を削ぐためだし、艦爆はそれに先んじて敵空母の飛行甲板を叩いて制空権を確立するためのものだった。
しかし、地中海で有力なドイツ空軍の基地機と交戦を余儀なくされる中で、艦上戦闘機の搭載比率が次第に向上していた。防空能力を高めて艦隊の保全を図るためだった。
それだけではなかった。最近では、打撃力を多少損ねたとしても、艦攻や艦爆に外装式の対空電探を装備して艦隊外周で早期警戒に当たらせることも増えていた。
遠距離で発見された敵機には、整備を徹底させて到達距離などが改善された無線で戦闘機隊を誘導するのが一般的な戦策になっていた。これでうまくゆけば敵攻撃隊を艦隊の姿を見せることなく阻止することが出来るはずだったからだ。
もちろん、零式艦上戦闘機も開戦当初から英国本土で義勇航空隊として投入されていた初期型から進化していた。
初期の11型と比べると、地中海戦線終盤の主力戦闘機だった全面改修型の零式艦戦33型ではエンジン出力が5割増しとなっており、防弾板の追加や兵装の強化で自重が増大しているにも関わらず速度性能も大きく向上していた。
それにエンジン出力の強化によって、爆装可能な重量が増大していることも無視できなかった。流石に艦攻ほどの搭載量はないし、艦爆と違って機体強度の関係から急降下爆撃は不可能であるために緩降下爆撃に限られるのだが、強化された銃兵装もあって地上銃撃には十分な威力を発揮していた。
というよりも、地中海戦線で多用される軽快な戦闘機による地上攻撃が可能であったからこそ、日本海軍は艦上戦闘機の搭載比率を上げていたのではないか。
ところが、第4航空戦隊には零式艦上戦闘機33型は配備されなかった。その代わりに隼鷹型に搭載されたのは零式艦上戦闘機44型だった。この2機種は、どちらも零式艦上戦闘機の派生型ではあったが、同時並行で開発されていた機体で、開発、生産を行っていた製造業者も異なっていた。
33型は初期型から開発に携わってきた三菱重工業が同社製の空冷エンジンである金星を搭載した言わば正当進化した機体だった。これに対して高速戦闘機を指向した44型は、一部の零式艦上戦闘機の委託生産を行ってきた中島飛行機が開発した戦闘機だった。
ただし、44型の開発に携わった企業は中島飛行機だけではなかった。搭載されたエンジンの生産及び、水冷エンジンの艤装に関しては愛知時計電機が協力を行っていたのだ。
この2機種に関しては、性能は甲乙つけ難かった。軽量な空冷エンジン搭載機の33型の方が上昇能力に優れるし、最高速度では空気抵抗の少ない44型の方が一歩先んじていると言えたが、模擬戦を行えば機体性能ではなく技量優良な搭乗員が乗り込んだほうが勝利すると言われているほどだった。
実際には、日本海軍の目論見としては海軍の戦闘機に関して日本帝国の2大航空業者である三菱と中島の生産能力を最大限引き出すためにこのような変則的な対応を行っていたのではないか。
しかし、艦上戦闘機の主力と認識されているのは33型の方だった。44型の生産数が少ないというわけではなかったが、艦載機よりも基地航空隊配備とされる場合のほうが圧倒的に多かった。
これは、性能的に44型が上昇能力に劣ることも理由の一つではあったのだろうが、本音で言えば制限の多い空母の整備能力を考慮した結果ではないか。
日本海軍の艦載機は、戦闘機に限らずこれまで空冷エンジン搭載機ばかりだった。当然のことながら、整備員や機材も空冷エンジンに対応したものばかりだった。
これに対して、零式艦上戦闘機44型や開発に参画した愛知時計電機が生産している二式艦上爆撃機彗星が搭載する水冷エンジンの空母上の整備能力は限られたものだったのである。
結局、日本海軍で艦上運用される機体は空冷エンジン中心に戻っていた。二式艦上爆撃機彗星も、水冷エンジンを搭載した12型から零式艦上戦闘機33型に搭載されたものと同型の空冷金星エンジンに換装した33型が主力生産機に切り替わっていたのだ。
その例外となっていたのが隼鷹型2隻からなる第4航空戦隊だった。第4航空戦隊は、零式艦上戦闘機44型が集中して配備されていたのだ。
水冷エンジン搭載機の配備は戦闘機隊だけではなかった。他の航空戦隊で空冷エンジン搭載の33型が配備されつつある為に余剰となっていた水冷エンジンの二式艦爆12型まで隼鷹型に配備されていたのだ。
艦上攻撃機だけは、水冷エンジン搭載機がないためか他隊と同じ型の二式艦攻が配備されたが、その数は少なかった。実質的には外装電探を装備した哨戒機としか認識されていなかったのではないか。
まるで余剰機で航空戦隊をでっち上げたような印象だった。実際、急遽船団護衛部隊を離れて編制された第4航空戦隊は、その搭乗員も他の航空戦隊からの転籍者は少なかった。
第4航空戦隊の編制が行われていた時期は、日本海軍の航空行政が大きく揺れ動いていた時期でもあった。地中海戦線での戦訓から従来重点的に整備されていた陸上攻撃機隊や水上機部隊が次々と改変されていたのだ。
零式艦戦44型に乗り込む石井一飛曹も以前は水上機部隊に所属していたのだが、同僚たちも陸攻や水上機の搭乗員から転籍してきたものが多かったのだ。
もちろん海軍上層部の判断にも理由はあった。生産能力からしても、艦載機を一挙に33型に統一することは出来ないが、水冷エンジン搭載機と空冷エンジン搭載機を1隻の空母に混載するのは支障が大きかった。
整備員に要求される能力や予備部品がエンジンの冷却方式で大きく異なるから、ひどく使い勝手が悪くなってしまうのだ。第4航空戦隊に水冷エンジン搭載機を集中したのはそれが理由と説明されていた。
しかし、海軍の上層部がどう考えているかはわからないが、第1航空艦隊司令部は第4航空戦隊の配属は困惑する事態として捉えていたようだった。
隼鷹型空母の設定は下記アドレスで公開中です。
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零式艦上戦闘機(33型)の設定は下記アドレスで公開中です。
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零式艦上戦闘機(44型)の設定は下記アドレスで公開中です。
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二式艦上爆撃機彗星の設定は下記アドレスで公開中です。
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二式艦上攻撃機天山の設定は下記アドレスで公開中です。
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