1944バルト海海戦33
すでに、バルト海では今年の初夏にソ連艦隊とドイツ艦隊が大規模な戦闘を行っていた。ポーランド領を一気に横断する突出部を形成してドイツ軍を大包囲網内に閉じ込めることを狙ったトハチェフスキー作戦が開始された当初のことだった。
戦闘そのものは、ソ連側の勝利と言って良かった。ソ連艦隊は大きな損傷を受けた艦は少なくなかったものの、大型艦の中で沈没したものはなく、逆にシャルンホルスト級戦艦1隻を始めとするドイツ海軍の有力な艦艇を撃沈していたからだ。
ただし、ソ連海軍がこの戦闘で戦略的な目的を達成出来たのかとなると怪しいものがあった。勿論、彼らは勝利を宣伝はしていたのだが、実際にはバルト海全域の制海権を盤石のものとすることは出来なかった。未だ有力なドイツ艦隊がバルト海の入り口にあるキールに残存していたからだ。
その中には、海戦を生き延びて撤退した艦が少なからず含まれていたようだった。
本来であれば、旧ポーランド領南部を突進し続けていたベラルーシ方面軍と共に陸海からドイツ軍主力を包囲するはずのソ連艦隊は、同海戦の損害を受けて、バルト海沿いにソ連軍が唯一保持している母港、すなわち設備の整ったレニングラードまで後退してその傷を癒やすしか無かったのだ。
残存する艦艇を常時哨戒のために出撃させることも検討されたもののも、バルト海方面軍の進出が遅れて周辺地域の港湾部を確保出来なかった為に断念されていた。本格的な修理どころか補給を行う前進拠点も得られなかったためだ。
海戦の結果が中途半端なものになった理由は明らかだった。陸上部隊の作戦開始に艦隊の行動を無理に合わせたために、海上戦力の集結が半ばのままで戦端を開いてしまったからだ。
本来であれば、白海艦隊とバルト海艦隊を合流した全戦力で出撃するはずだったのだが、狭い運河の通行による遅延や練度不足の懸念から艦隊の全力投入が出来なかったようだ。
今回の作戦は、この教訓を反映したものだった。白海に残留していた大型艦や新鋭のオグネヴォイ級駆逐艦で編制された第23駆逐隊などの増援も続々と運河を越えてバルト海に集結していたのだ。
移動してきたのは艦艇だけでは無かった。ソ連海軍の総司令官であるクズネツォフ海軍元帥自らが指揮を取るべくレニングラードの艦隊に司令部を開設していた。
だが、ここに来てソ連海軍にとって予想外の事態が発生していた。これまでドイツと敵対していた筈の国際連盟軍がバルト海に展開してきていたのだ。
表向きは包囲網に取り残された難民の援護を目的としていたが、そのような理由を信じるものはソ連海軍にはいなかった。少なくとも国際連盟軍がファシストと手を組んだのは間違いない。そう言い合う将兵は少なくなかった。
難民の援護と見せかけて、大規模な船団を投入した国際連盟軍は、ソ連軍の包囲網から開放されているバルト海沿岸からドイツ軍を脱出させるつもりでは無いか、そう考えられていたのだ。
国際連盟軍による悪辣な陰謀を許してはならなかった。ここでドイツ軍の脱出を許しては、何の為に莫大な犠牲を払って包囲網を作り上げたのか、それが分からなくなってしまうのだ。
レニングラードに集結中のソ連艦隊に出撃が命じられたのはそれが理由だった。脱出船団を撃滅すると共に、海岸線を艦隊で包囲することで陸海一体化した完全なる包囲網を構築しようというのだ。
しかし、当初はクズネツォフ元帥は早すぎる出撃命令を渋っていたらしい。
遅れていたレニングラードへの艦艇の移動は、何とか作戦開始までに終了する予定だったものの、艦隊単位で行う訓練をねじ込めるほどの日程の余裕は無かった。
バルト海に投入された国際連盟軍の艦隊戦力は有力なものだった。ソ連海軍も全力で事に当たらねばならないが、その大規模な艦隊運用の経験の無さが支障をきたすのではないか。そのような恐れをクズネツォフ元帥は抱いていたのだろう。
結局はモスクワからの強い指示によってバルト海、白海連合艦隊は出撃していたが、事態はクズネツォフ元帥の危惧していた通りに推移している感もあった。
強大な敵戦力に対して、分散による突破の成功率や指揮系統の単純化の為に、連合艦隊を率いるクズネツォフ元帥は、早々に戦隊を分離していたのだが、ソ連海軍は全体の数を生かせずに苦戦していたのだ。
特に、主力から離れた巡洋艦群ではそのような動きが激しかった。下手に配属された艦艇が多いものだから、連携がとれずに混乱を招いていたのだ。
ところが、ソ連艦隊に対して日本海軍巡洋艦群の動きは巧みなものだった。艦の数は少なく、主力である僅か2隻の巡洋艦は同型艦とも思えなかったが、恐ろしく息のあった巧みな機動でソ連巡洋艦群を牽制していたのだ。
個艦の性能に関しても、日本海軍の方が優位にあるようだった。2隻の何れも8インチ砲を搭載した重巡洋艦のようだったからだ。特に先導艦の火力は大きかった。米海軍の新鋭重巡洋艦にも匹敵する火力に特化した艦なのではないか。
巡洋艦を補佐する駆逐艦の働きも大きかった。数は少ないのだが、巧みに襲撃機動を繰り返してソ連艦を翻弄して数に劣る日本海軍巡洋艦群の包囲を許さないのだ。
ソ連艦隊指揮官の動きは鈍かった。半数が広大な飛行甲板を有する航空巡洋艦である事を除いたとしても、火力の発揮は不十分だった。多数の戦隊を有機的に運用した経験が乏しいものだから、各隊の連携がとれずに場当たり的な対応に終始していたのだ。
第23駆逐隊の転進もそれが理由だった。現状の混戦では数の優位を生かせない一方で、主力たる戦艦、重巡洋艦の援護は不十分だった。クズネツォフ元帥の采配自体に問題があったとしか言いようがなかった。元帥は数で勝る巡洋艦群に大きな期待を寄せすぎたのではないか。
戦艦群が敵主力を抑え込んでいるすきに巡洋艦群を船団の予想位置まで浸透させようとしていたのだろう。それで多数の駆逐隊を援護につけたと思われていた。
ところが、実際には巡洋艦戦隊司令官の指揮能力不足によって、上級司令部を持たず、所属艦隊も異なる駆逐隊は、ただ目の前に出現した敵艦に砲火を浴びせる以外に何の自発的な行動も取れなかったのだ。
第23駆逐隊の転進も、実際にはまともに指示をよこさない巡洋艦戦隊司令部に業を煮やしたナサエフ大佐が意見具申の形で抗議したと言ったほうが正しかった。
ここで無駄に駆逐隊を狭い海域に集中して飽和させるよりも、同格の相手と交戦する戦艦、重巡洋艦を援護すべきだというのだ。
ナサエフ大佐は決然としていた。もしも戦隊司令部からの命令がなくとも猶予時間を過ぎれば転進しようとしていたのだ。
しかし、これは独断専行となる危険な行為だった。オグネヴォイの艦橋でナサエフ大佐が決心を告げた時も、艦橋要員の中には息を呑んだものが少なくなかった。場合によっては大佐の誤断を咎めなかったとして連帯責任を負わされることもありえたからだ。
駆逐隊付き政治将校のシルショフ少佐も翻意を促そうとしていた様子だったが、最終的にはナサエフ大佐の迫力に呑まれていていた。
ナサエフ大佐は決心を曲げるつもりはなさそうだった。戦闘の渦中にありながら無為に時間を過ごすことに耐えられなかったのではないか。
戦隊司令部から転進を許可する命令が下ったのは、ナサエフ大佐がオグネヴォイの艦長に転舵を命じたのとほぼ同時だったから、殆ど大佐の行動を追認したようなものだった。
ただし、戦隊司令官が積極的に駆逐隊に転進を命じたわけではなかった。バーク中佐は命令を記載した電文用紙を直接目にしたわけではなかったが、戦隊司令官の命令文は単に行動の自由を許可したという程度のものだったようだ。
混戦となって数の優位を活かせないというナサエフ大佐の判断を無視することはできないが、独断専行の片棒を担ぐつもりはないようだ。この後に第23駆逐隊が戦果を挙げられなければ、分離を命じた戦隊司令官にも責任が及ぶことになるのだろう。
そのような危惧を抱いた戦隊司令部の判断が、転進を許可するという曖昧で姑息ささえ感じられる命令文となって現れたのではないか。戦隊司令官は軍人というよりも官僚的な人物なのだろう。
もっとも、命令を受けたナサエフ大佐自身は特に戦隊司令部の害意を感じなかったようだ。むしろ、行動の自由が与えられたことを単純に喜んでいるだけだった。
オグネヴォイの艦橋では矢継ぎ早にナサエフ大佐が命令を下す声が響いていた。鋭い角度で変針したオグネヴォイを先頭とする第23駆逐隊は、混戦が続く戦域から颯爽と抜け出していた。
先程まで第23駆逐隊を牽制していた日本海軍の駆逐艦が放った主砲弾が、オグネヴォイの後方に虚しく水柱を上げていたがそんなものに気を取られている乗組員は少なかった。
これまでの戦闘では、オグネヴォイは敵駆逐艦主砲か巡洋艦の高角砲によるものと思われる射撃を何度か受けていたが、目立った損害は出ていなかった。
後続艦の詳細までは不明だったが、狙われやすいのが先頭艦であることや、そもそも日本海軍の射撃が牽制にすぎないことを考慮すれば大きな差異は生じていないだろう。
第23駆逐隊は今でも戦闘力のすべてを発揮できる状態のはずだった。
混戦から抜け出すと、次第に情報が入るようになって来ていた。
オグネヴォイ級には、原型となった米海軍のフレッチャー級駆逐艦に搭載されているものと同型の対水上レーダーが艦橋直後のマストに備えられていた。レーダーの表示面は狭苦しくはなるものの艦橋内に配置されていたから、レーダー員からの報告は早いはずだった。
ただし、視界がよほど悪くない限りはレーダーよりも目視の方が頼りになるかもしれなかった。余裕のある大型艦に搭載されているものはともかく、駆逐艦に搭載されている型式のものは信頼性はさほど高くはなかった。
バーク中佐が見たところ、少なくとも駆逐艦に搭載できるような小型のレーダーは未だに武人の蛮用に耐える段階には達していないようだった。組織的な対空戦闘には有用だというが、詳細は水雷畑を歩いていた中佐は知らなかった。
米海軍の空母は、実験的なものを除いて、コロラド級からずっと偵察能力と共に主力たる戦艦群の上空を援護することを主任務としていた。ワスプ級空母のように急速発艦能力を重視したものもあったから、敵機を発見後に速やかに戦闘機を発艦させる為に長距離捜索用のレーダーが求められたのだろう。
だが、駆逐艦の場合はそのような要求はなかった。というよりも前世紀末の米西戦争以来米国は国家間の大規模な戦争に関与することはなかった。植民地やインディアンの反乱、中南米への干渉といった戦例はあるが、いずれも海軍には大規模な艦隊を派遣する機会は無かった。
そのせいもあってか、近代的な駆逐艦を使用した戦術に関しても確たる定見は持たなかった。勿論、米海軍も列強各国の艦艇の性能に関しては情報収集を怠ってはいなかったから、何れもこれに匹敵する艦艇を整備しているという自負はあったが、実戦経験の無さは否めなかった。
ただし、バーク中佐を含めて米海軍の軍人の多くはその事自体は深刻に考えていなかった。
共産主義者のソ連人の前で公言するのは憚られるが、続々と就役する新鋭戦艦が象徴するように、神が与えたともいえる立地条件がもたらす潜在的な米国の工業力を駆使すれば、その程度の不利など軽く吹き飛ばせる範疇に過ぎないと考えていたのだ。
何れにせよレーダーの制限に関してはナサエフ大佐も承知していた。だからこそ見張りを重視するとともに、自らも大型の双眼鏡を構えて敵情を把握しようとしていたのだろう。
やがて見張員がオグネヴォイ前方で繰り広げられている戦闘の様子を伝えていたが、それは予想外のものだった。
コロラド級空母の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cvcolorado.html
ワスプ級空母の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cvwasp.html




