1944バルト海海戦31
ソ連国内で白海とバルト海を繋げる運河の建造が開始されたのは、1930年代の初頭のことだった。両海を結ぶ運河は200キロを越える長大なものだったが、実際に土木工事が行われたのはその四分の一程度に限られていたらしい。
つまり、この運河の大半は、ラドガ湖とオネガ湖に加えてその間を伸びる大河という自然の地形を最大限活かしたものだったようだった。
しかし、自然地形の活用は建造期間の短縮や予算の圧縮という効果をもたらす一方で、運河の基本的な性能に制限を加えることになっていた。
どれだけ立派な閘門などの付随施設を作り込んだところで、自然が作り上げた河川の屈折点や水深によって、通過可能な船体寸法を決められてしまうからだ。
それに、実際には運河の施工期間は長かった。当初は3年ほどで建設を終える計画であったはずだが、実際に運河が実用に供されたのは施工開始から5年ほど後のことだった。
工事の後半には当時急速にソ連と友好関係が深まっていた米国の資本や技術が導入されていたらしく、落成式には米国の報道も入っていたから、その点では情報は正確なはずだった。
ソ連海軍と本格的な交戦が起きる可能性は従来低いと思われていたが、それでも日本海軍はソ連海軍に関連する基本的な情報として運河に関してある程度は情報収集に努めていた。
それによれば、運河建設時に要求されていた性能は1000トン級の貨物船が通過できる程度でしか無かったようだ。この程度の貨物船は使い勝手の良い汎用性を持ったものが多いが、本格的な外洋航行能力は持ち合わせていなかった。
運河の性能がこの程度であれば、軍艦であっても駆逐艦が通過できるかどうかというところではないか。
地中海での戦闘が終わってバルト海に入ってもまだ日本海軍の認識は変わらなかった。運河の存在を殆ど無視していたのだ。
ソ連海軍の実力は不明な点が多かったが、激戦を繰り広げて来た日本海軍が出現すれば、ソ連海軍に大型艦の増援がありえないバルト海で制海権を確保するのは容易と考えていたのだ。
栗田中将の発言は、そのような前提を覆すようなものだった。中将の言うとおりにバルト海と白海をつなぐ運河を戦艦や大型重巡洋艦が通過できるのであれば、実質的にバルト海艦隊と北方艦隊は同一の存在となるからだ。
一体栗田中将はどのような根拠があって目の前の艦隊が運河を通過してきたと言ったのか、司令部要員の多くが中将に視線を向けていた。
しかし、栗田中将はそのような視線を気にした様子もなく言った。
「敵艦がどこから現れたのか、それはこの場で議論すべき事象ではない。運河を伝って来たのだろうと、あるいは戦前からレニングラード内に隠蔽されていたのだろうと、そのこと自体に意味はないのだ。
我々が考えるべきは目前の艦隊とどう戦うか、それだけではないかな」
何人かは当然と言えば当然の指摘に気恥ずかしそうな顔になっていたが、ドイツ海軍から派遣されたネルケ少佐は不満そうな顔になっていた。
「しかし提督、我がドイツ空軍の偵察機は何度も運河上空も飛行しています。そのような大型艦の通過はこれまで確認されておりません」
ネルケ少佐は不機嫌そうな声でそう言ったが、少佐には冷ややかな視線が向けられていた。
「我が英国海軍は栗田提督のご意見に同意します。これまでレニングラードの海軍施設に関しては詳細は明らかとなっていませんし、空軍機の偵察は四六時中行えるものではありません。
それに、仮に運河が予想よりも高性能であるとすれば、ソ連も何としてもこれを隠蔽しようと試みるのではないかな。
さらに言えば、今回のソ連の大攻勢だって貴官らは偵察機ぐらい飛ばしてはいたのではないかね。それでもソ連の兆候を見逃していたではないか」
その場を代表するようにネルケ少佐に向けられたオハラ中佐の声は揶揄するようなものだったが、視線は反論を許さない鋭さがあった。
結局、状況の変化が論争を終わらせていた。大和に対する砲撃は続いていたものの、直進を続けていたソ連艦隊に動きが見られたのだ。
それまで、護衛の駆逐隊と思われる小艦艇を除いた大型艦で単縦陣を構成していたソ連艦隊は、ここにきて急速に隊列の分離を開始していた。
ソ連艦隊は主に3つの集団に別れ始めていた。
隻数が多いのは、巡洋艦を主力とした最後尾の集団だった。戦場を迂回する様に回頭していたが、艦の合流や変針に手間取っているのかその動きは鈍かった。隻数が多いために隊列は乱れていたが、先頭はキーロフ級軽巡洋艦であるらしい。
ソ連海軍の呼称こそ軽巡洋艦ではあったが、キーロフ級の原型となっているのは、米海軍のノーザンプトン級重巡洋艦だった。備砲はソ連独自の18センチ砲だったが、これを三連装に収めた主砲配置は重厚なもので、他国列強の重巡洋艦に十分匹敵する戦力ではないかと思われていた。
それにキーロフ級軽巡洋艦には既に航空機を送り出した後の航空巡洋艦も続航していた。マクシム・ゴーリキィ級はキーロフ級と同型と思われる砲塔を4基も備えていたから、この集団の火力は無視できなかった。
巡洋艦群が戦場を迂回するように機動しているのに対して、残りの2群は砲撃を続けながらゴーテンハーフェンに向かう海域を塞ぐように配置されている戦艦分艦隊に接近する針路を保っていた。
それぞれガングート級3隻、クロンシュタット級重巡洋艦2隻からなるこの2群の集団は、並進しながらもお互いの間隔を開けつつあるようだった。
態勢表示盤の中で別れつつあるソ連艦隊の動きを見た戦艦分艦隊司令部要員の中には、困惑したような声を上げるようなものもいた。その声を受けたのか参謀長が言った。
「どうやらソ連艦隊はこちらを分断する手に出たようですな。我が方は敵艦隊を完全に阻止しなければならないが、ソ連は戦力を残した艦がゴーテンハーフェンに到着するだけで船団の出港を阻止できますから」
だが、栗田中将は参謀長の声が聞こえていなかったかのような様子で言った。
「第7、第10戦隊の司令官に下命。第10戦隊は2隻のクロンシュタット級を、第7戦隊は前衛の駆逐隊と合同で敵巡洋艦群の機動を阻止せよ」
慌てた様子で参謀長は振り返っていたが、栗田中将は態勢表示盤を見つめたまま動かなかった。
現在の戦艦分艦隊は、巡洋分艦隊から配属された駆逐隊を除いて3個戦隊で編成されていた。栗田中将の決断は、戦隊単位で分散した敵艦隊にあたろうとしたもののようだった。
だが、戦力比はこちらに不利だった。分艦隊指揮下の3個戦隊はそれぞれ2隻で構成されていた。重巡洋艦2隻の第7戦隊と戦艦2隻づつからなる第2、第10戦隊だった。
しかし、この内第2戦隊は戦艦武蔵が被雷して戦列を離れていたから、大和ただ1隻しか残されていなかった。栗田中将の決心は、この大和1隻でガングート級3隻を相手取ろうというもののようだった。
しかも早期に他の戦隊が救援に駆けつけてくるという期待も望み薄だった。
第7戦隊は重巡洋艦伊吹、石鎚の2隻で構成されていた。軍縮条約の保有枠増大を受けて建造されていた伊吹は、最上型軽巡洋艦の発展型とも言える艦だった。
最上型軽巡洋艦は発射速度、初速共に高い15.5センチ三連装砲塔を備えた有力な大型軽巡洋艦だったが、伊吹型重巡洋艦はこれを原型として砲塔を連装20センチ砲塔に置き換えたものといってよかった。
航空艤装が省かれているために索敵能力には劣るが、最上型よりも主砲塔の搭載数が1基増えており、12門もの20センチ砲を備えている有力な重巡洋艦だった。
ただし、火力には優れていたものの、伊吹型重巡洋艦の防御力には些か疑問視する声もあった。
条約規定の一万トンに排水量を抑えた上で、機関や兵装に重量を配分すると、条約型巡洋艦では戦艦の様に攻速防を高い次元で揃えるのは不可能だった。この限りある防御への割当を、日本海軍の巡洋艦は比較的船体部分に配分しており、逆に重巡洋艦でも砲塔部分の防御は疎かにされていた。
これは、夜戦を重視していた日本海軍では、想定されうる戦場が視界の効かない近距離戦闘になると想定していたからだった。
船体が頑丈であれば、撃破されても母港まで後退して再起を図ることも出来るが、水平弾道となる近距離戦闘では砲塔部をどれだけ分厚くしても撃ち抜かれると考えていたのだ。
条約が無効化された後に建造されていた石鎚型重巡洋艦は、このような制約を取り払って必要なだけの排水量にまで拡大したものだった。
主砲は20センチ砲を三連装砲塔4基計12門備えており、同時に想定される砲戦距離で戦艦のように自艦の主砲に対して耐久し得るほどの重装甲を有していた。
ただし、石鎚型重巡洋艦は攻防両面を充実させた為に基準排水量で2万トン近いという大型艦となってしまっていた。条約明け後に、米海軍は恐ろしい勢いで巡洋艦の大量整備を行っていたが、これに対抗するという明確な目的がなければ高価な石鎚型の建造はあり得なかったのではないか。
しかも、日本本土では大量の戦時標準型船や海防空母などの護衛艦艇の建造も進められていたため、石鎚型の建造は遅れていた。むしろ、米海軍のような大量建造が望めないからこそ、質を極めなければならなかったと考えるほうが自然だった。
石鎚と伊吹の2隻の重巡洋艦は高い打撃力を持つものの、数で勝るソ連巡洋艦群に対してどこまで戦えるかは分からなかった。それに相手には20隻程度の駆逐艦も随伴していた。
仮に勝利を得られたとしても苦戦は免れないのではないか。
条件は第10戦隊もさほど変わらなかった。同戦隊の磐城型戦艦も条約改正による保有枠増大を受けて建造された艦だった。
主砲は16インチ、40センチ砲という大威力砲だったが、長門型戦艦と同じ規格の主砲塔は、3基6門と長門型よりも手数が少なかった。
磐城型戦艦は、条約規定の排水量三万五千トンという上限の中で速力や防御を充実させた結果、火力に関しては長門型を下回ってしまったのだ。
元々同艦は6隻が建造される予定だったらしい。軍縮条約の消滅で日の目を見る事は無かったが、磐城型の後期建造艦は金剛型戦艦の代艦として36センチ砲を搭載する予定だったようだ。
おそらく一門あたりの重量からして、砲塔基部は40センチ連装砲を搭載した原型艦に合わせつつ、36センチ三連装砲塔を搭載する事になったのではないか。
だが、計3隻が建造された磐城型は、すでに地中海で1隻が沈んでいた。排水量で言えば、超大型巡洋艦であるクロンシュタット級重巡洋艦と同程度でしかないこともあって、主砲の口径に差があったとしても戦力差は殆ど無いのではないか。
戦艦分艦隊司令部の中には不安そうな顔が多く見られていたが、栗田中将は顔色一つ変えることなく言った。
「本艦を先頭に一斉回頭を行った後に各戦隊を分離する。次の着弾と同時に発令する。後続各艦に以上を伝達せよ。
それと……平文で戦闘開始と座標を無指向で送れ」
通信長が要領を得ない様子で顔を上げていた。
「平文、ですか。それだとソ連艦隊どころか包囲網周辺のソ連地上軍にも傍受される危険がありますが……」
栗田中将はへの字に口を曲げながら言った。
「それは承知している。巡洋分艦隊及び接近中のドイツ艦をそれで誘導する」
慌ただしくなった司令部の中で、ふと細谷大尉はあることに気がついていた。
―――この艦ならガングート級とだって渡り合えるだろうが、この指揮所は12インチ砲弾に耐久できるのだろうか。
手元に仕事がないまま、細谷大尉はぼんやりとそう考えていた。
大和型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbyamato.html
クロンシュタット級重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cakronstadt.html
磐城型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbiwaki.html
マクシム・ゴーリキィ級軽航空巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/clmakcnm.html
キーロフ級軽巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/clkirov.html
伊吹型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/caibuki.html
石鎚型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/caisiduti.html