1944バルト海海戦27
状況の変化は唐突に訪れていた。岩渕兵曹は、なんの覚悟もないままにその時を迎えていた。
きっかけとなったのは、島風の側面を航行していた鳥海から発振された電探波だったのかもしれなかったが、当事者たちにそのような認識はなかった。
鳥海による電探使用を逆探で観測した後も、島風は特に何の行動を取る事なく漫然と前進を続けており、鳥海との位置関係は殆ど変わっていなかった。
逆探の観測から推測されていた電波源の針路や規模が正しいのだとすれば、鳥海を先頭とする巡洋分艦隊主隊は電波源の縦列と交差する形になるが、その側面を行く島風は隊列後方を通過する事になるのではないか。
ただし、逆探の感知強度からして電波源は近接する距離にある筈だが、電探と比べると精度の低い逆探では正確な距離は分からなかった。
これはある意味で危険な状況だった。実際には電波源の詳細が分からないのに2つの隊列の針路は交差していたからだ。
隊列が予想よりも近距離にあれば、衝突を避ける為に巡洋分艦隊主隊が急速回頭を行う可能性も少なく無かった。その場合、主隊が取り舵をとると今度はその延長線上には島風が存在する筈だった。
つまり単艦で行動する島風も、2つの隊列の位置関係を正確に把握し続ける必要があったのだ。
しかし、島風艦長の浅田中佐には緊張感はさほど感じられなかった。逆探から鳥海による電波発振の報告を受けた後も変わりはなく、落ち着いた様子で中佐はいった。
「他艦が電探波を発振したことは分かるのに、これを利用する術が無いのは残念だな。鳥海からの電探波を本艦でも受信出来るようにならないものかね。原理的には反射した電磁波を観測するだけなのだから、電探や逆探さえあれば可能ではないか」
浅田中佐から声をかけられた通信長は困惑した表情を浮かべていた。
「それは……難しいのではないですか。逆探はともかく、電探では受信機と送信機を分離するのは難しいでしょう。
自分以外の空中線から発振された電波を拾う事は出来たとしても、それを有意義な信号に置き換えるには膨大な計算が必要となるはずです。しかし、現有の機器ではそのように高速で大量の計算を行う手段はありませんからね」
浅田中佐は、面白そうな顔でいった。
「何だか難しそうな話だが、陸軍さんの電探……もとい電波警戒機はどうなんだ。確か陸軍さんの陸上設置される電探の中には、送信機と受信機を分けて配置している奴もあったんじゃないか。
早期警戒用の……間に入り込んだ奴を探知するとか聞いたことがあるぞ」
岩渕兵曹は何となく二人の会話に耳を澄ましていたが、その会話は艦橋伝令の声で遮られていた。
「前方見張りより報告、一時の方角より発砲炎らしき光点を見ゆ」
一瞬で指揮所に緊張した雰囲気が走っていた。島風からみて一時の方角は、逆探で探知された電波源群のうち最先端に位置していた。
「全ての電探を回路接続……艦橋、全見張り、電探が使えるまで目を凝らせ」
伝令の声を遮るように浅田中佐が叫んでいた。中佐は艦橋伝令からもぎ取るように艦内電話の受話器を手にしながら矢継ぎ早に命令を出していた。
岩渕兵曹達指揮所の将兵も慌ただしく動いていた。訓練通り半ば反射的に兵曹も担当する電探を操作していた。電源や整圧機などが俄に異音を奏で始めた中で、兵曹は隣の兵が息を呑む様子を感じていた
「対空電探に感有り……飛行機じゃない、速すぎる」
岩渕兵曹も振り返って対空電探の表示面を覗き込んだが、兵曹が顔を向けた時には既に反応は表示面から消え去ろうとしていた。
―――まさか、対空電探で飛来する砲弾を捉えたのか……それがすぐに消えたということは……
岩渕兵曹は最後まで考えられなかった。通信長が浮足立っている将兵を抑えるように言ったからだ。
「全員持ち場に集中しろ。自分の表示面だけ注意しておればいい。艦長、目標は本艦ではありません。敵艦も電探波を狙っていると思われます」
「狙いは鳥海、か……」
浅田中佐と通信長が話している間も、慌ただしく岩渕兵曹達が上げる電探情報が態勢表示盤に記載されていった。
敵艦隊は4隻の大型艦と少なくともそれと同数かそれ以上の小型艦で編成されていた。この内、これまでの観測結果から小型艦が駆逐艦であることはほぼ間違いなかった。
大型艦の詳細は電探では分からなかった。ただし、反応からして各艦の寸法に差異が存在するのは確かだった。おそらくは先頭の一際顕著な反応が戦艦で、それよりも反射強度が低いのは巡洋艦ではないか。
浅田中佐は表示盤を見つめながら何事かを考えていた。艦橋伝令の声が再び聞こえていた。どうやら巡洋分艦隊旗艦である鳥海が被弾したらしい。悲鳴のような声を無視するように中佐は艦橋伝令にいった。
「見張り員に確認、発砲する艦は先頭艦だけか」
艦橋伝令はすぐに答えていたが、見張り員からの回答は要領を得ないものだった。
状況は妙だった。艦橋の見張りによれば、発砲の閃光が観測されているのは1箇所だけらしい。対水上見張り用の電探による観測結果と付き合わせると、発砲しているのは先頭艦の様だった。
しかし、電探では後続する何隻もの艦艇を観測しているのに、そちらからは発砲炎は観測されていなかった。
常識的に考えれば先頭は旗艦が配置されている筈だった。だから旗艦の発砲が同時に後続艦への発砲開始の命令を兼ねているというのが自然なのではないか。
しかし、実際には発砲は先頭艦だけだった。これは何を意味するのか、電探を操作しながら岩渕兵曹は脳裏の片隅でそれを考えていた。
可能性はいくつかあった。ひとつは、先頭艦と違って後続艦は観測を開始したばかりで巡洋分艦隊に対する射撃に必要な程の計算値が得られていないというものだった。
あるいは艦の針路が悪く物理的に主砲の射界に収まっていない可能性もあるが、ほぼ真横から巡洋分艦隊主隊が接近している以上その可能性は低そうだった。
ただし、それ以上に可能性のある理由も考えられていた。
―――もしかすると……本当に友軍なのか
岩渕兵曹の判断に答えるかのように、艦橋伝令が言った。
「鳥海被弾の模様、火災発生に様子あり……鳥海より発光信号あり、本艦にではありません……」
艦橋伝令が言い終わるのを待っていたかのように短距離通信機を操作する兵が言った。
「隊内通信です」
だが、そう言いながらもその兵は手元の符丁などを記した書類を慌ただしく掴んでいた。
その兵は下士官ではないが、新兵などではなく通信機の扱いになれた古兵だった。友軍の符丁などは記憶しているはずの古兵がわざわざ確認する必要があるということは、通信相手は想定外の相手ということなのだろう。
「英国……いや、アンザック艦隊の旗艦、巡洋艦キャンベラからです……」
そこで一旦口を閉じると、その兵は一度意味の無い罵り声を出してから続けた。
「キャンベラからドイツ海軍、戦艦シャルンホルスト宛、発砲を止めろ。それから我英国海軍と平文です。畜生……」
やはり先程の射撃は同士討ちだったらしい。最悪の顛末に誰もが意気消沈していた。
指揮所内には弛緩したとも険悪とも取れる妙な雰囲気が漂い始めていた。艦橋伝令の声がそこに続いていた。
「鳥海の発光信号の内容を確認しました。我鳥海、我日本艦隊と繰り返していたようです」
岩渕兵曹は眉をひそめていた。既に電探の使用が開始されたことで無線封止は意味をなしていなかった。この状況でも無線を使用していないということは、鳥海の通信機能に障害が出ている可能性が高かった。
態勢表示盤を見る限り、すでに両艦隊の距離は狭まっていた。洋上では薄霞が出ていてもお互いの姿を目視出来るようになっている筈だった。岩渕兵曹は、始めて指揮所から外部を視認する窓が無いことを苛立たしく思っていた。
艦橋伝令の声は続いていた。
「鳥海より発光信号あり……通信指揮所被弾、我に指揮能力無し……」
どうやら岩渕兵曹の悪い予感はあたっていたようだった。鳥海が艦隊旗艦として機能していたのは、司令部要員を収容できる大容量の指揮所に加えて各種通信機によって複数系統の通信を可能としていたからだった。
どれだけ艦隊の頭脳である指揮所の機能が優れていたとしても、手足となる僚艦に指示を出せないのであれば一つの艦隊として機能させる事はできなかった。
このような状況ではもはや戦前から想定されていたような統制のとれた水雷襲撃など不可能だった。浅田中佐も眉をしかめながら傍らの通信長に訪ねていた。
「すでに敵艦もこちらを探知しているかな……」
通信長も困惑した表情になっていた。
「どうでしょうか……無線通信は隊内用の低出力用ですから、よほど近くにない限り探知されていないと思われます。そんな距離に敵艦が存在しているのであれば対水上見張り電探で探知されている可能性が高いでしょう」
そこで一旦口を閉じると、通信長は対水上見張り電探の表示面を担当する岩渕兵曹の方に視線を向けていた。兵曹が無言で首を振るのを見ながらも通信長の表情は晴れなかった。
「しかし、逆探でこちらの存在を捉えているかとなると、五分五分ですかね」
だが、通信長が言い終わる前に別の通信機についていた兵が言った。中、長距離用に整備された周波数帯を使用するものだから、視界内の艦艇からのものとは思えなかった。
「戦艦分艦隊旗艦より入電、我これより合戦に入る。以下座標です」
兵が読み上げた位置は、当初の予想とさほど変わらなかった。しかし、無意味な同士討ちによって損なわれた時間と何よりも奇襲効果が失われたことによって相当不利になってしまっていたのでは無いか。
艦橋伝令の声がしていた。鳥海が新たな発光信号を出しているらしい。だが、その中身は意外なものだった。
「鳥海よりキャンベラに信号、我に指揮能力無し。アンザック艦隊司令部に巡洋分艦隊の指揮を委ねる……」
指揮所内にどよめきが起こっていた。角田少将の判断は意外なものだった。無謀といっても良かった。事前の訓練もなしに見たところ巡洋艦、駆逐艦合わせて10隻程度でしかない小規模なアンザック艦隊に巡洋分艦隊の指揮を任せようというのだ。
アンザック艦隊の旗艦であるキャンベラは、確か英国海軍のケント級重巡洋艦の一隻だった。
ケント級は艦齢10年程の働き盛りとでも言うべき艦だった。主砲は8インチ砲8門とそれなりに有力なものだったが、巡洋分艦隊には鳥海を除いたとしてもキャンベラよりも有力な火力を持つ重巡洋艦が3隻も配属されていたのだ。
問題はそれだけではなかった。日英両国の海軍は少なくとも以前より親善訪問などの機会に共同訓練を行うこともあったし、今次大戦でも英国海軍艦が日本海軍の指揮下に配属されることも珍しく無かった。
アンザック艦隊はオーストラリアとニュージーランド海軍からなるというが、その2カ国も英国海軍程ではないにせよ共同部隊を編成する機会がないわけでは無かった。
ところが、合流した艦隊には開戦からこれまでの長い間交戦していた。しかも直前に誤射までしでかしたドイツ海軍艦まで含まれているのだ。これではアンザック艦隊に相当の指揮能力がない限り多国籍艦隊の統制を取ることなど不可能ではないか。
逡巡するようなしばらくの間を経て、再び通信が行われていた。キャンベラから全艦に向けたものだった。しかし、隊内無線に取り付いていた兵は、困惑した表情を浮かべていた。
「あの……ばーばりあんとは何のことを指すのでしょうか。符号表にはありませんが……」
英語自体が理解できないと思える兵の言葉の内容は要領を得なかった。通信長が苛立たしげな表情を浮かべながら、兵から無線機の受話器を奪うように手にしていた。
ところが、通信長も無線機を聞く間に呆けたような表情に変わっていった。通信長は呆けたような顔でいった。どうやら通信の内容らしかった。
「世界から集まった猛者共に告げる。蛮族の中の蛮族ハイランダーが今から指揮を取る。本艦に続け……どういう意味なのでしょうかこれは」
視線を向けられた浅田中佐は面白そうな顔を浮かべていた。
「アンザック艦隊の指揮官はカナンシュ少将だったな。あの御仁、随分と吹っ切れたんじゃないか」
岩渕兵曹は最後まで聞いていなかった。電探表示面の中でキャンベラが隊列を離れて突出しようとしていた。
島風型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です
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高雄型重巡洋艦鳥海の設定は下記アドレスで公開中です
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