1944バルト海海戦23
前方を行くシャルンホルストの艦尾側に設けられた三番砲塔が、俄に右舷方向になめらかに回頭していくのをクリューガー少佐は訝しげな目で見つめていた。
今の所、アンザック艦隊の主隊を構成する単縦陣2番艦の位置を占めるプリンツ・オイゲンには何の連絡も入っていなかった。
ただし、比較的早期からバルト海沿岸の支援砲撃任務を行っていたプリンツ・オイゲンに対して、地中海から帰還した後もシャルンホルストには度重なる改修工事が行われていた。
最終的にはマッケンゼン建造の促進などの理由から断念されていたとはいえ、シャルンホルスト級戦艦には主砲塔の換装を含む大規模な改装工事も計画されていたらしい。
詳細はクリューガー少佐も知らなかったが、プリンツ・オイゲンも参加していたマルタ島沖での戦闘で被った損害の復旧工事と戦訓の反映が2隻のシャルンホルスト級戦艦が改装工事を優先されていた理由だったらしい。
最終的に本格的な改装工事は断念されてノルウェー沿岸の哨戒に出動していたとはいえ、シャルンホルストにはドイツ海軍でも最新のレーダーなどの機材が増載されていた。
だから、クリューガー少佐はシャルンホルストが何らかの情報を独自に得ている可能性を疑っていたのだ。
対してプリンツ・オイゲンの方は、レーダーアンテナを回し続けてはいるものの、まともに発振は行われていなかった。通信室からの報告では表示面にも欠像が目立つらしい。
技術的なことは詳しくないが、先の海戦で生じた被弾によって艦内電線にも少なくない障害が出ているのだろう。キール工廠で突貫工事で行われた修復作業は艦体の修理を優先していたから、電装機器の復旧は完全とは言い難かったのだ。
新鋭機材が搭載された上に2年前の戦闘の傷も完全に直し終えて新品同様の姿に戻っているシャルンホルストに対して、早くからバルト海で戦塵を浴びていたプリンツ・オイゲンはみすぼらしささえ漂う姿になっていた。
シャルンホルストは先の海戦には参加していなかった。東部戦線におけるソ連軍の一大攻勢に呼応してレニングラードから出撃したソ連艦隊に急遽対応する必要があったために、海戦に投入された艦艇はゴーテンハーフェンに在泊していたものだけだったからだ。
ノルウェー沖から呼び戻されたものの、ゴーテンハーフェン到着が間に合わなかったシャルンホルストは、予想外の海戦の敗北を受けてキールに引き返して待機を続けていたのだ。
対するプリンツ・オイゲンの姿は哀愁すら漂うものだった。船体部の損傷こそ突貫の復旧工事で修復できたものの、艦橋部など上部構造物のいくつかは応急修理のみでまだ傷を残した姿だったからだ。
主砲は一応全力砲撃が可能な状態であるはずだが、対空兵装の中には応急品として新造時とは異なる規格のものを無理に搭載してあるものもあった。個々の砲塔単位ならばともかく、高射装置との連携が実戦でうまく働くかどうかは未知数だった。
クリューガー少佐が陣取る艦橋ですら最低限の補修工事のみしか行っておらず、実質的に傷跡を整形して塗装でごまかしただけといった箇所も少なくなかった。
プリンツ・オイゲンではハードウェアである艦の修理以前に、戦死者や負傷によって後送された乗組員の補充も満足に行われていなかった。出撃までに戦死した艦長の後任も着任しなかったから、本来は航海長でしかないクリューガー少佐が艦長代行を務めるしかなかったほどだ。
単にドイツ海軍に大型艦艦長にふさわしい人材がいなかったことだけが理由だとは思えなかった。突然実現化してきた国際連盟軍との講和や、その条件である潜水艦隊の解散などをうけて、海軍省が適切な人事を行えないほど混乱をきたしたためではないか。
それでも応急工事や代理指揮官の任命で出撃までこぎつけたプリンツ・オイゲンは、まだましな方かもしれなかった。
先の海戦には戦艦グナイゼナウを旗艦として、重巡洋艦に類別された元装甲艦であるリュッツォウ、アドミラル・シェーアの2隻を加えた3隻が主力を構成していたのだが、その中で海戦を生き延びてキールまで後退出来たのはアドミラル・シェーアただ1隻だけだった。
しかも、アドミラル・シェーアの損害は、艦長が戦死したプリンツ・オイゲンよりも大きかった。実質的に大破状態で戦闘能力も失われており、最低限の機関出力が残されていた為に後退出来たというだけのことだった。
プリンツ・オイゲンと並んでキール工廠で修理工事も試みられていたのだが、まるごと破壊されて応急修理すら難しいと判断された箇所もすくなくなかったようだった。
多くのものが口にはしなかったが、現状ではアドミラル・シェーアはこのまま廃艦処置とするしかないと考えられていた。修理を続けたところで、予想される工期が長すぎてこの戦争中に再び稼働状態に持っていけるとは思えなかったのだ。
それ以前に、修理を行っているキールが占拠されてソ連軍にアドミラル・シェーア他の修理艦が鹵獲される可能性すらあるのではないか。そう考えるものも少なくなかった。
バルト海沿いでも西方に位置するキールが陥落するというのはあまりに悲観的な予想だとも思えるが、東部戦線にドイツ軍が展開していた3個軍集団のうち中央軍集団をほぼ壊滅させ、北方軍集団を巨大な包囲網に閉じ込めたソ連軍の大攻勢にはそのような予想すら実現しそうな勢いがあったのだ。
クリューガー少佐は陸軍の戦闘には詳しくないが、ソ連軍が攻撃正面をポーランド領内に極限化して戦力を集中させたことや、徹底した攻勢開始時期の欺瞞による奇襲効果によってこのような敗北を喫してしまっているようだった。
もっとも、海軍にしても敗北の責任に関しては陸軍を糾弾する資格はなかった。先の海戦で予想外に強力だったソ連艦隊に敗北した結果、旧ポーランド領との国境線近くにソ連軍の上陸を許してしまったからだった。
彼らにしてはあまりに大胆に側面を晒しながらも半ば壊滅状態にある中央軍集団を超越しながらはるか西方に進出したソ連軍は、バルト海沿岸で上陸部隊と接触することで包囲環を完成させていた。
勝利したソ連艦隊も損害が大きかったらしく、一時的なものかどうかはわからないが、今回の脱出船団の強行までレニングラードに後退していたことでバルト海の制海権は曖昧なまま残された形になっていたが、日本艦隊が進入してくるまでバルト海の戦力が我に不利であったのは間違いなかった。
クリューガー少佐は、今回の作戦前に戦隊長級の指揮官を集めた会議の席で、シャルンホルスト艦長が見せた目線が気になっていた。シャルンホルスト艦長が会議の間に何度かクリューガー少佐に向けた視線はどこか蔑んだものであるように感じていたのだ。
プリンツ・オイゲンも大きな損害を被りながら後退していたのだが、多くの僚艦を見捨てながら自艦の安全のために逃げ出したと思っていたのか、あるいは単純に格下と思われていたソ連に敗北したクリューガー少佐たちを不甲斐ないと考えていただけかもしれなかった。
シャルンホルストの艦長とはそれまで面識はなかった。地中海ではシャルンホルスト級戦艦は2隻揃ってプリンツ・オイゲンとも僚艦として行動を共にしていたのだが、たしかあの頃の艦長や多くの幹部は修理期間中に転出していったはずだった。
だから詳しくは知らないのだが、シャルンホルストの艦長には歴戦の古兵と言う雰囲気はなかった。威勢はいいが、粘り強い防御戦闘には向かなさそうな男だった。クリューガー少佐は反発と共にそんな事を考えていた。
そのシャルンホルストが砲口をぴたりと右舷側に向けていた。今日のバルト海は霧が沸き起こっていた。さほど濃くはないが、それでも5キロも離れれば個艦の識別どころか発見すら困難ではないか。
クリューガー少佐が首を傾げていると、電話員が声を上げていた。ようやくアンザック艦隊の旗艦か、シャルンホルストからの通信が入ったのかと少佐は振り返っていたが、電話員は辟易とした様子で受話器を差し出していた。
予想に反してそれは艦内からの電話のようだった。クリューガー少佐は怪訝そうな顔をしたまま受話器を受け取っていたが、すぐに眉をしかめていた。
電話の相手は射撃指揮所に配置された砲術長だった。ただし、正規の砲術長ではなかった。クリューガー少佐のように戦傷死した前任者の代理を務める砲術士だった。その砲術長代理は、忙しい調子でいった。
「本艦の戦闘準備はまだですか、砲戦の準備をしないと」
砲術長代理は怒鳴りつけるような声だったが、実際には戦闘配置はシャルンホルストの異変を見てから前後して出されていた。
あまり付き合いの長くない砲術長からの怒鳴り声に、無意識のうちに辟易して受話器を遠ざけながらクリューガー少佐は言った。
「今の所は戦闘配置のまま待機だ。艦隊旗艦……アンザック艦隊のキャンベラからは通信は来ていない。別命あるまで直進を続ける」
だが、砲術長は到底納得した様子は無かった。
「ライミーは我々を先頭に立たせて囮とするつもりですよ。シャルンホルストはともかく、本艦の防御ではソ連艦に袋叩きにされて勝機を逸します。先手を撃つべきです」
クリューガー少佐は眉をしかめながら何かを言うとしたが、それよりも早く、白く眩い閃光が少佐を襲っていた。唖然としながらも少佐は艦橋窓から前を見つめていた。
間違えようもなかった。前方のシャルンホルストの主砲が発砲していた。力強く掲げられたC砲塔の砲身からは、今も赤黒い砲煙がたなびいていた。後続するプリンツ・オイゲンからは直接は見えなかったが、おそらく上部構造物前方に配置されているA、B砲塔も火を吹いているのではないか。
唖然とするクリューガー少佐の耳に一気に情報が入ってきていた。最初は見張員によるシャルンホルスト発砲の知らせだったが、当たり前のことは脳が無視していた。
だが、報告はそこで終わらなかった。次は騙し騙し調子の悪いレーダーを操作していた通信室からだった。右舷側に何らかの反応を感知したらしい。方位からしてシャルンホルストが狙っているのはこの反応ではないか。
クリューガー少佐は眉をしかめたままだった。おそらくシャルンホルストはプリンツ・オイゲン搭載機よりも優れたレーダーによって敵艦の探知、捕捉に至ったのだろう。
だが、プリンツ・オイゲンの現状では敵艦を狙えるだけの解析値が得られるとは思えなかった。敵艦との概算距離すら分からないのでは照準を定めようもないからだ。
クリューガー少佐が考え込んでいたのは短い間だった。握ったままの受話器から興奮して罵っているような砲術長の声が際限なく聞こえてきたからだ。
士官とは思えないほどのひどく冒涜的な罵りを上げたあと、砲術長はいった。
「シャルンホルストに先手を打たれた。本艦も早く撃つんだ。射撃値はあとから修正すればいいんだ。このまま何もせずにはいられるか」
砲術長はまだ興奮した様子で続けていたが、見張り員の声がそれに被さるように聞こえていた。
火災と思われる光点が見つかったらしい。俄には信じられないが、シャルンホルストの砲撃は初弾から命中弾が発生したようだった。
その報告の声が聞こえていたのか、砲術長は更に声を上げていたが、クリューガー少佐は押し黙っていた。砲術長の考えは手にとるようにわかったからだ。先の海戦時にプリンツ・オイゲンは軽巡洋艦ライプツィヒと衝突事故を起こしていたが、その時の当直士官は砲術士だった今の砲術長代理だった。
そのことの責任を過剰に感じた為に、砲術長は異様に攻勢にこだわっているのではないか。だが、クリューガー少佐の懸念はそんなところにはなかった。
何かが妙だった。シャルンホルストが狙っているのは本当にソ連艦隊なのだろうか。そうだとすればなぜ反撃をしてこないのか、それが分からなかったのだ。
ふと、クリューガー少佐の背を冷たいものが走っていた。再び光点が発生していた。ただし、火災によるものだとは思えなかった。それは明らかに意味を持たせた信号だった。
――あれは、本当に敵艦、なのか……